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  • No.523 海と遺跡 -弥生時代-

企画展示

企画展示室3
海と遺跡 -弥生時代-

平成30年10月16日(火)~12月9日(日)

藤崎遺跡の発掘調査(約40年前の地下鉄工事前の調査)
藤崎遺跡の発掘調査(約40年前の地下鉄工事前の調査)
はじめに

 博多湾沿岸には古くから砂丘が形成されますが、これまでの発掘調査で弥生時代の遺跡が多くみつかっています。

 弥生時代といえば、水田稲作のイメージが強いですが、周辺の環境が農耕には適していない砂丘の地には漁村的な集落や墓地が営まれました。弥生時代は大陸との海を通じた対外交流が活発となり、博多湾沿岸には日本列島の中でも先進的な国々が形成されました。発掘された海辺の遺跡からは、そこに暮らした人々がその対外交流においても重要な役割を担っていたことを物語ってくれます。

 博多湾沿岸に暮らした弥生時代の海民(かいみん)について、遺跡の発掘調査資料から考えてみましょう。

副葬された壺(藤崎遺跡)
副葬された壺(藤崎遺跡)
砂丘に眠る開拓者

 博多湾に面する海浜砂丘(かいひんさきゅう)は箱崎砂層(はこざきさそう)と呼ばれる堆積層が基盤となっています。沿岸で一連となる弓状の砂丘が形成されました。砂丘の形成は縄文海進のピークが過ぎた約四千年前からはじまると考えられますが、その時代の遺跡はあまりみつかっていません。

 弥生時代の開始期になると、砂丘に墓地が営まれるようになります。福岡市内では今宿(いまじゅく)、博多(はかた)、吉塚(よしづか)などで遺跡がみつかっていますが、その代表が藤崎(ふじさき)遺跡です。弥生時代前期は木棺(もっかん)や大型壺棺(つぼかん)(甕(かめ)棺)を埋葬施設とし、小型の壺が供えられた墓が少なくありません。壺は丁寧な作りで、線刻や赤色顔料で装飾されたものがあります。翡翠(ひすい)製勾玉(まがたま)や碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)などの副葬品をもつ甕棺もみつかっています。一方、近隣の砂丘上に同時代の集落がありません。平野の沖積微高地や台地上には農耕集落が多数あるので、平野開拓者の墓が砂丘上に営まれていた可能性が考えられます。

海民集落の形成
上左から貝玉、貝輪未成品、釣針、下左から石包丁、石剣未成品(姪浜遺跡)
上左から貝玉、貝輪未成品、釣針、下左から石包丁、石剣未成品(姪浜遺跡)

 弥生前期後半から中期(紀元前3世紀頃)になって、砂丘上にも本格的な集落が形成されるようになります。姪浜(めいのはま)遺跡や博多遺跡群などが、博多湾沿岸で最も古い段階に形成される集落になります。姪浜からは釣りや漁網の重りに使用された石製品(石錘(せきすい))と、塩作りに使用されたらしき焼けただれた土器などが出土しており、海に生きた人々の営みを伝えてくれます。さらに南海産の貝を素材とする装飾品、朝鮮半島からもたらされた土器や鉄斧(てっぷ)、銅鏃(どうぞく)、瀬戸内地方からもたらされた土器など、対外交流を物語る遺物も少なくありません。漁労と交易を主な生業とする海民集団が出現し、その集落が交流の窓口であったのでしょう。

 また、姪浜、博多遺跡群からは生産加工を物語る石器の破片も多く出土しています。斧や収穫具、武器などの未成品(みせいひん)(製作途中または失敗品)があり、対馬の石材も使われています。自家消費のみならず、物流の拠点として石器生産も担っていたのではないでしょうか。

「国」の外交・交易を支えた海民
各種の石錘(西新町遺跡)
各種の石錘(西新町遺跡)

 3世紀頃のことを記した『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)には「奴国(なこく)」や「伊都国(いとこく)」などの有力な国が登場しますが、それぞれ福岡平野と糸島平野に比定されていて、弥生時代中期後半(紀元前1世紀)頃には成立していたと考えられます。大陸との外交や交易を通じて日本列島の中でも先進的な国が形成されました。

鉄の釣針(三苫永浦遺跡)
鉄の釣針(三苫永浦遺跡)

 この時代には前述の遺跡のほかにも海辺の遺跡が増加します。西新町(にしじんまち)遺跡では集落と墓地が形成され、石錘や、鉄製釣針(つりばり)などの漁労具が多く出土しています。斧や工具などの道具とともに漁労具も鉄器化が進んでいます。さらに、大陸からもたらされた鉄斧や鉄素材、ガラス玉なども出土しており、交易の窓口であったことがうかがえます。

貝の腕輪の着装状況(西新町遺跡甕棺墓)
貝の腕輪の着装状況(西新町遺跡甕棺墓)

 その墓地では南海産のゴホウラ貝を加工した腕輪を身に付けた有力者の埋葬がみつかっています。砂丘上の弥生時代墓地遺跡で、副葬品がともなう埋葬事例は多くありませんが、今宿遺跡では銅剣と翡翠勾玉が副葬された有力者の墓がみつかっています。

銅剣(今宿遺跡)
銅剣(今宿遺跡)

 博多湾沿岸で活躍していた海民集団の航海能力や情報網は、奴国や伊都国の対外交流を支えていたと考えられます。

 弥生時代後期(1〜3世紀)を中心とする唐原(とうのはる)遺跡は海産物の加工処理遺構とみられる炉址(ろし)もみつかっている博多湾沿岸東部の集落遺跡です。山陰から丹後(たんご)地方の土器が多く出土しており、日本海を通じてやって来た人々を受け入れていたようです。この時代、大陸からの文物が博多湾沿岸に集まっていましたが、それ を求めて列島各地からも人々の往来があったのです。逆に北部九州から「旅する土器」の存在も、東は新潟県まで確認されています。

鉄製長剣(博多遺跡群)長さ47cm
鉄製長剣(博多遺跡群)長さ47cm

 海辺の集落で、農耕に関わる道具は乏しいものの、工具や漁労具、武器などには新鋭の金属器が使用されていて、その普及と流通を物語っています。博多遺跡群でみつかっている弥生時代終末期の墓には希少な鉄製武器である長剣(ちょうけん)が副葬されていました。

 続く古墳時代も博多湾沿岸は、大陸から日本列島への人々や文物と、鉄器生産等の新しい技術を受け入れる窓口や出発点として重要な役割を担いますが、その基盤となったのは弥生時代からの海民集団の活動でした。 (森本幹彦)

朝鮮半島でつくられた瓦質壺(今宿遺跡)
朝鮮半島でつくられた瓦質壺(今宿遺跡)
炉址(唐原遺跡)海産物を加工処理をするための遺構か
炉址(唐原遺跡)海産物を加工処理をするための遺構か
主な展示資料(時代/出土遺跡)

○副葬小壺、ヒスイ勾玉(弥生前期 藤崎遺跡)
○副葬小壺(弥生前期 堅粕遺跡)
○壺、甕、石剣、石包丁、石器生産関係資料、石錘、猪牙釣針、製塩土器 (弥生中期 姪浜遺跡)
○朝鮮半島系粘土帯土器、漢式三稜鏃、鋳造鉄斧破片、貝輪未成品、貝玉、西部瀬戸内系土器
(弥生中期 姪浜遺跡)
○甕、石剣、石器生産関連資料(弥生中期 博多遺跡群)
○鉄製釣針、石錘、鉄素材、鉄斧(弥生中〜後期 三苫永浦遺跡)
○石錘、鉄製釣針、鉄斧、ガラス製トンボ玉、貝輪(弥生中期 西新町遺跡)
○銅剣、ヒスイ勾玉(弥生後期 今宿遺跡)
○船形木製品(弥生中期 元岡・桑原遺跡群)
○朝鮮半島系瓦質壺(弥生終末期 今宿遺跡)
○朝鮮半島系粘土帯土器、楽浪系壺、山陰系器台、鉄製長剣
(弥生後期〜古墳時代初頭 博多遺跡群)
○鉄製環頭刀子、鉄鏃、銅鏃、山陰系壺ほか(弥生後期〜終末期 唐原遺跡)
●北部九州系壺レプリカ(原品は弥生後期 新潟県開運橋遺跡出土)

○は福岡市埋蔵文化財センター所蔵、
●は福岡市博物館所蔵資料です。

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
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