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  • No.526 海と遺跡 -古墳時代-

企画展示

企画展示室3
海と遺跡 -古墳時代-

平成30年12月11日(火)~平成31年3月31日(日)

はじめに
前方後円墳の発掘調査(元岡石ヶ原古墳)
前方後円墳の発掘調査(元岡石ヶ原古墳)

 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)に代表される古墳が近畿を中心に全国に広がる古墳時代。政治や経済も近畿の王権を中心としたものに変化していきます。この時代における漁労(ぎょろう)など海の生業や、海辺の祭祀などにも近畿地方の影響がうかがえます。

 一方、大陸に近い九州は依然として外交や軍事上の要衝(ようしょう)であったため、その豪族(ごうぞく)は力をもち独特の古墳文化が育まれます。博多湾の海辺には海民(かいみん)の集落やその墓のほか、平野を支配した豪族の前方後円墳なども造られました。

 

 今回の展示では古墳時代の海と関わりの深い遺跡を紹介します。その発掘調査資料から、博多湾沿岸を拠点とした豪族や海民について考えてみましょう。

イイダコ壺(今山遺跡)
イイダコ壺(今山遺跡)
変化する海の生業

 古墳時代のはじめ頃(3世紀後半)から北部九州では蛸壺漁(たこつぼりょう)が活発になります。左の写真のような孔(あな)の開いた小壺を多数、綱(つな)に結び付けて海中に沈め、イイダコを獲る漁法です。このような蛸壺の形態や漁法は弥生時代の大阪湾沿岸に由来するものです。また、この時代から増加する土錘(どすい)は各種の網漁に使用されたおもりで、これも大阪湾沿岸や瀬戸内地方に由来する形態がみられます。こうした大小さまざまな規模で操業される漁労とともに、専用の土器を使用して海水や海草から塩を作る製塩(せいえん)の技術も伝わっており、大阪湾沿岸などから海民集団が北部九州にも移り住んだと考えられます。博多湾沿岸では海民集団の編成も含めて生業や食糧流通のあり方が大きく変化するようです。古墳時代の社会変化は海の暮らしにも及んでいたのです。

海の古墳
福岡市指定文化財 三角縁二神二車馬鏡(藤崎遺跡)
福岡市指定文化財 三角縁二神二車馬鏡(藤崎遺跡)

 弥生時代から続く海民の集落遺跡の一部に、倭(わ)の外交や工業に関わる特別区域が設けられます。いずれも古墳時代前期の3~4世紀に限られますが、西新町(にしじんまち)遺跡では朝鮮半島からの人々が集住した区域が、博多遺跡群では新たな鍛冶(かじ)技術を導入した鉄器生産の工房(こうぼう)区域がみつかっています。

 そうした遺跡の近くからは同時代の古墳群もみつかっています。西新町遺跡に隣接する藤崎(ふじさき)遺跡では方墳(ほうふん)や前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)が約20基発掘されています。墳丘長10m前後の小古墳が多いですが、盟主墳(めいしゅふん)(古墳群に埋葬された集団のリーダーの墓)は20m近くの墳丘長で、舶来(はくらい)の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や大刀(たち)などが副葬されています。平野の前方後円墳と比べると小規模な古墳ですが、西新町遺跡を拠点に外交や交易の実務を担った海民集団の古墳群と考えられます。

琴柱形(ことじがた)石製品(箱崎遺跡)古墳時代の儀仗(ぎじょう)の形をかたどったとみられる小型の石製品
琴柱形(ことじがた)石製品(箱崎遺跡)古墳時代の儀仗(ぎじょう)の形をかたどったとみられる小型の石製品
前方後円墳から出土した埴輪(博多遺跡群)
前方後円墳から出土した埴輪(博多遺跡群)

 古墳時代中期の5世紀頃には墳丘長50m超の前方後円墳も砂丘上に造られました。博多遺跡群の発掘調査で、前方後円墳の葺石(ふきいし)や周囲を巡る溝、埴輪(はにわ)などがみつかり、複数の前方後円墳が砂丘上に並んでいたことが明らかになったのです。いずれも墳丘の大部分が失われており、副葬品の内容等は不明ですが、葺石や埴輪を備える前方後円墳は上位階層の古墳であり、九州では各平野を治めた豪族クラスの古墳とみられます。5世紀代は福岡平野を治めた豪族の古墳が、博多湾を望む地を選んで造営されたことが分かりました。

 他にも、箱崎(はこざき)の砂丘遺跡ではより小規模な古墳群ですが、円墳の葺石や石室などが発掘され、さらに近年、姪浜(めいのはま)遺跡でも古墳の周溝(しゅうこう)らしき遺構や埴輪がみつかっています。

  糸島平野では砂丘遺跡から古墳はあまりみつかっていませんが、海を望む丘陵に前方後円墳をはじめとする古墳が分布する大規模な古墳群が幾つかあります。糸島東部の今宿(いまじゅく)平野と呼ばれる小平野に面する丘陵一帯には500基あまりの古墳群が分布しています(今宿古墳群)。古代の今津(いまづ)湾はこの小平野に入り込んでおり、潟湖(せきこ)が形成されていました。古墳群の多くはこの潟湖を望む丘陵に立地しますが、この中でも4~6世紀に代々築かれた大規模な前方後円墳は丘陵の先端近く、海に近い立地傾向があります。

単鳳環頭大刀(桑原石ヶ元8号墳)
単鳳環頭大刀(桑原石ヶ元8号墳)

 この対岸、九州大学伊都(いと)キャンパスのある丘陵地は今津湾の北西岸になります。大学建設にともなって発掘調査された元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群でも100基近い古墳が確認され、前方後円墳は4~6世紀代にわたります。この中で最後の前方後円墳にあたる元岡石ヶ原(もとおかいしがはら)古墳は丘陵の最も高い位置から、潟湖を望む立地になります。この遺跡群の一帯は古代の嶋(志麻(しま))郡にあたりますが、『日本書紀(にほんしょき)』に対外派兵の軍が駐屯した記録もある、軍事的前線として重要な地域でした。元岡・桑原地区の古墳群の発掘調査でみつかった副葬品には、軍事的権威のシンボルであった装飾大刀(そうしょくたち)や銘文(めいぶん)が刻まれた刀、朝鮮半島系譜の矛(ほこ)や土器などがあり、対外的な軍事や外交で活躍した豪族の姿を物語っています。

海と祭祀
百済土器(桑原石ヶ元9号墳)*刀は常設展示
百済土器(桑原石ヶ元9号墳)*刀は常設展示
滑石製の子持勾玉(元岡・桑原遺跡群)
滑石製の子持勾玉(元岡・桑原遺跡群)

 古墳時代には祭祀の道具や方法も変化し、近畿地方発祥の祭祀が九州にも波及します。博多湾の海辺でも、堅粕(かたかす)遺跡などで、滑石(かっせき)で作られた玉類を用いた祭祀場や、馬具が出土した土坑(馬を犠牲にする祭祀の遺構とみられる)などがあります。滑石の玉類を生産した集落が三苫(みとま)遺跡などでみつかっていますが、そこで生産された玉の一部は、玄界灘(げんかいなだ)の祭祀遺跡である沖ノ島(おきのしま)にも供給された可能性が考えられています。 (森本幹彦)

主な展示資料 (時代/出土遺跡)

○イイダコ壺、土錘、製塩土器
(古墳前期 今山遺跡、今宿遺跡)
○大型鉄製釣針 (古墳前期 博多遺跡群)
○各種滑石製玉類、未成品、船画線刻紡錘車、 鉄製馬具
(古墳前~中期 堅粕遺跡、三苫遺跡)
○子持勾玉 (古墳中~後期 元岡桑原遺跡群)
○三角縁二神二車馬鏡、鉄製武器、鉄製工具
(古墳前期 藤崎遺跡)
○朝鮮半島系土器、山陰系土器、布留式系土器
(古墳前期 藤崎遺跡、西新町遺跡)
○東海系土器 (古墳前期 博多遺跡群)
○銅鏡、銅鏃 (古墳前期 鴻臚館跡)
○鉄刀、琴柱形石製品 (古墳前~中期 箱崎遺跡)
○円筒形・家形・巫女形埴輪
(古墳中期 博多遺跡群)

●銅鏡レプリカ
(原品は古墳中期 丸隈山古墳出土、妙正寺所蔵)
○三尾鉄 (古墳中期 長垂山7号墳)
○鉄矛、馬具、勾玉、百済系土器、新羅系土器
(古墳後期 桑原石ヶ元古墳群)
○鹿形装飾付ハソウほか須恵器
(古墳後期 元岡石ヶ原古墳)
○装飾刀金具、釣針ほか
(古墳後期 三苫京塚古墳、三苫古墳群)
○壺形埴輪 (古墳中期 姪浜遺跡、老司古墳)
○円筒形埴輪 (古墳後期 今宿大塚古墳)
●朝顔形・巫女形埴輪 (古墳後期 東光寺剣塚古墳)
○須恵器、土師器、鉄矛、刀子、耳環、玉類ほか
(飛鳥時代 中津宮古墳)

  ○は福岡市埋蔵文化財センター所蔵、
  ●は福岡市博物館所蔵資料。
  一部資料は会期中に展示替えを予定。

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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