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  • No.528 福岡藩士伝来・刀と槍の装具展

企画展示

企画展示室1
福岡藩士伝来・刀と槍の装具展

平成30年12月26日(水)~平成31年2月24日(日)

はじめに
螺鈿柄籠槍・大身槍・薙刀
螺鈿柄籠槍・大身槍・薙刀

 刀は「武士の魂(たましい)」、槍は「一番槍(いちばんやり)」といわれ、武士にとって大切なものですが、実際に使われる時には、刀は柄(つか)や鍔(つば)、鞘(さや)といった拵(こしらえ)、槍は鞘や柄など、様々な装具が付けられました。この展示では本館収蔵の福岡藩士伝来の刀と槍を中心にして、刀剣をめぐる福岡藩の武家の歴史や文化を紹介します。

藩士肖像の中の刀装具

 室町から戦国時代には、徒歩(とほ)・多人数での合戦が多くなり、武士には太刀(たち)よりも短く、切り合いに有利な打刀(うちかたな)が広まります。打刀はふつう刃を上にして腰の帯(おび)に差します。もっとも天下統一の時代に活躍した福岡藩の重臣達の肖像には、合戦で軍勢(ぐんぜい)の指揮を執る上級武士が、実戦的に打刀を頑丈(がんじょう)な陣太刀(じんだち)作りの拵で、太刀のように腰に吊(つ)るしたり、刃を上にして帯に差す姿が見られます。

 江戸時代前期、17世紀後半の福岡藩家老の肖像では、平服(へいふく)のラフな姿でくつろぐ横に、豪華な鞘を持った自慢の大刀(だいとう)がおかれ、細かな装飾で飾られた短刀(たんとう)を身に着けて描かれています。また大刀が刀掛(かたなかけ)に置かれ、大胆な柄と鍔(つば)だけで示されている肖像もあります。しかし18世紀に入ると、地味で短めの差料(さしりょう)の刀を刀掛に置き、揃いの脇差(わきざし)を身に帯びた姿が多くなり、公的に裃(かみしも)を着た場合も、くつろいだ羽織姿(はおりすがた)でも、揃(そろ)った打刀大小が必須(ひっす)のアイテムで描かれました。

打刀の拵、大小の拵

 江戸時代の福岡藩には、戦国~安土・桃山時代の由緒(ゆいしょ)を伝える大刀を持つ武士もおり、古風な太刀拵(たちこしらえ)、人目を引く派手な鍔付の大刀拵が残されています。江戸時代初めは、武士は自分に合った長さや反りの違う刀を持っていたため、それらの拵も、個人個人で長さや形状が異なる場合が多かったとされます。

 しかし江戸時代前期の17世紀中頃から、武士の刀の長さは、幕府や藩で基準は異なりますが、刀で2尺(しゃく)2、3寸(すん)程度(約66~70㎝)、脇差は1尺5寸(約45㎝)程度が一般的になり、反りも太刀に比べて小さい直線的な刀になりました。これらの特徴をもつ刀が多く作られ「新刀(しんとう)」と呼ばれました。

 江戸時代に中心となった刀と脇差のための大小の拵は、同色や同系統の色で巻いた柄に、似たデザインの鍔で、鞘は黒蝋(ろう)色塗(ぬり)と呼ばれ黒漆塗(くろうるしぬり)で揃えられました。揃えの大小二本(だいしょうにほん)の拵を、公的にも私的にも差して過ごすことが武士の証(あかし)となりました。また形状が同じ大小は大名家や武家の儀式、行列などで、家中全体が揃って統一した美観を生み出すことにもなり、江戸時代の武家のファッションになりました。また大小の刀や拵の長さ、造りに適した、竹刀剣術や、居合(いあい)、抜刀(ばっとう)術も盛んになりました。そして幕末から維新期、武士や浪士が、刀で激しく切り合って戦う下地はこうした社会から生まれたとされます。

脇差と短刀の拵

 脇差は、打刀の大刀に添えて差されるもので、刀にちかい2尺以上の長さでも、添えに差すものは大脇差(おおわきざし)と呼ばれました。長さの区分では、中脇差、短刀に近い小脇差などがあります。江戸時代中頃からは、刀より20㎝は短い中脇差が、一般に「脇差」とされ、刀と揃いの拵で差されることが多くなりました。

 短刀は、長さ1尺(約30㎝)程度の細身で鋭利なもので、古来、合戦で甲冑を着た武士が組打(くみう)ちした時に、鎧兜の隙間から相手を刺すために使われ、「鎧通(よろいとおし)」ともいわれます。握りや扱いの邪魔にならないよう、鍔も小さめか、目立たない合口といわれる拵に収められました。短刀より長めでがっしりしたものは腰刀(こしがたな)といわれ、脇差の代わりにもなりました。短刀や腰刀は組打で素早く抜くため、刃を下に向け帯に差すこともありました。

 江戸の平和な時代には、短刀や脇差は武士が自分の屋敷内でくつろぐ際や、お忍びで外出する際に一本だけ差すこともあり、意匠(いしょう)など趣味的に凝ったものも作られました。また武家の女子に守り刀として与えられるのも短刀でした。

刀装具あれこれ

 刀装具の柄(つか)、鍔、鞘には様々な金具が付属しています。柄先の柄頭(つかかしら)、刀身を柄に止める目釘を隠す目貫(めぬき)、鍔を固定する切羽(せっぱ)、縁(ふち)、刀身を鞘に固定する鯉口(こいぐち)、鞘先のコジリなどさまざまに細工された金具がつきます。ほかに鞘に付ける小刀、笄(こうがい)などは目貫と合わせ三所物とされます。また鞘に緒を通す栗形(くりかた)や、下げ緒や緒を帯に止める返角も付きました。

 大きさや規格の似た大小拵が増え、城中や殿中用として、地味な金具が付けられた拵もありますが、その一方で柄や鞘、鍔や様々な金具の部分で、材料、細工、デザインに凝ったものも作られ、大名や上級の武士は豪華な作りの拵も持ちました。一般の武士も、装具の一部だけに金銀の細工を施したり、赤銅(しゃくどう)、鉄の普通の材料でも凝った細工にするなど、熱意は大変なものだったといわれます。

 江戸時代の刀の拵は、江戸時代の中後期から出回る金銀銅の豊かな材料や、鞘師(さやし)、塗師(ぬりし)、柄巻師(つかまきし)、白銀師(しろがねし)など刀装具の職人の精巧で創造的な技術によって、美術的な工芸品になって行きました。

福岡藩の刀工とその作品

 福岡藩の武士たちの拵の中に収められた新刀を作る刀工(とうこう)には、城下町の信国(のぶくに)派と石堂(いしどう)派の2つがありました。信国派は、もと京都の刀工で室町時代に豊後(ぶんご)に移り栄えました。1600年黒田長政(くろだながまさ)が筑前へ入国した際に、信国吉貞(よしさだ)が福岡へ招かれ、数年後に苦労して城下町に移ってきました。幅と厚みのある実戦的な刀を作ることで有名で、また長政が考案した袋鑓(ふくろやり)を作製したのもこの信国です。一門が城下などに工房を構え、江戸時代の中期、享保(きょうほう)時代には、信国重包(しげかね)(のち正包(まさかね)と改名)が、将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)の開いた全国の新刀コンクールで一番の成績を収め、以後、「茎」(なかご)に一枚の葵の葉を刻むことを許されるほどでした。

 石堂派は、備前福岡(現岡山県)の一文字派の流れで、やはり長政の筑前入国の際に城下町福岡に招かれた是次(これつぐ)を祖とし、それを継いだ守次などの名人が出ました。工房を箱崎(はこざき)に持ち、新刀のなかでも反りのある上品で華やかな刀を作製しました。福岡藩の刀工の作品は、藩内での刀剣の需要を満たすことが中心で、あまり他国に出回らなかったため、信国重包のほかは明治まであまり全国でしられることが少なかったといわれています。なお江戸時代の初めには東国から下坂(しもさか)氏が二代藩主忠之の好みで脇差などを作製しています。

槍の装具

 槍は室町時代から戦国時代に、合戦で武士が最も頼りにした柄付(えつき)の武器です。馬乗や徒歩で戦う武士の槍は、足軽の長柄(ながえ)と区別して、「持槍(もちやり)」といわれ、さらに短い室内戦専用の「手槍」もありました。

 槍の先には剣状の穂先(「鎗身(やりみ)」)があり、穂から伸びる細長い「なかご」(茎)を、木製の柄の中に押し込んで目釘で止め、その上を弦(つる)などで巻き漆をかけて丈夫にし、槍や刀と打ち合う部分を造りました。穂先は通常15~20㎝前後で、南北朝時代(なんぼくちょうじだい)終わりの短刀の形から、刺突(しとつ)に適した直線状の直鑓(すぐやり)が一般的となりました。形も剣形だけでなく、細い柳の葉の形や、笹の葉に似て中間の膨らんだ形も出現し、穂の片側に突起状の鎌のある片鎌鑓(かたかまやり)、突起が左右に出た十文字鑓(じゅうもんじやり)も作られました。穂先も、平たい刀や剣と違い、断面が二等辺三角形や正三角形、菱形(ひしがた)など、突きに強く折れにくい形になりました。なお1尺(約30.3㎝)以上の長大な穂先は大身鎗(おおみやり)といわれました。

  穂先を収める槍の鞘は、通常は直鑓用で剣の鞘状ですが、片鎌槍や十文字鑓用では、基部(きぶ)が幅広のものがあります。ただ鞘は穂先の形に関係なく、円柱や多角柱、熨斗(のし)などの奇妙な意匠(いしょう)のもの、獣毛(じゅうもう)、羽毛(とりけ)で飾ったものなど、形や大きさもさまざまに作ることができました。

 持槍の柄(え)は両手で扱いやすい2間(約3.6m)までの長さです。主に樫(かし)の木を材料とし、表面に何も塗らない白木造(しらきづくり)が一般的ですが、黒漆や朱(しゅ)漆を塗ったものもあります。芯(しん)の木材に寄木や竹を張り合わせ、長さや強度を増したものや、柄の全体や一部に螺鈿(らでん)を施し装飾化した豪華(ごうか)なものもあります。柄の下には石突(いしづき)と呼ばれる突起状の金属部が付けられて柄元を保護し、また穂と石突両方で戦いに使えました。

打刀を差す福岡藩士たち
打刀を差す福岡藩士たち

 合戦がほとんどなかった江戸時代、槍の鞘や柄は、大名の武威や藩士の武功を示す象徴となり、とくに鞘は家の印(しるし)とされました。藩内でも武士の先祖の武功、家の上下関係や所属を示す証で、上級武士は馬に乗る身分はもちろん、徒歩でも家の自慢の槍を、槍持の中間(ちゅうげん)に担(かつ)がせて外出し、また公用の旅行でも携えました。その大規模なものが「下に下に」と進む大名行列で、大名家の槍は遠くからも見えました。また槍は普段、屋敷の長押(なげし)に何本も掛けられ、来客に家の武功も誇るとともに、いざという時の頼りになる実戦武器でした。 (又野誠)

出品資料(主なもの、会期中一部展示替えします)

郡正太夫像、黒田重種像、三奈木黒田家当主像、太刀拵、黒漆塗大小拵、打刀拵(刀「肥前忠吉))、大柄刀拵(左安近)、黒漆塗脇差拵、無銘脇差拵、無銘腰刀拵、楓散文合口拵、朱塗合口拵、二所物、家紋入小柄、鍔(銘「重包」)、刀(銘「重包」)、刀(銘「吉包」)、刀(石堂是次、石堂守次)、直鑓鞘、無銘大身鑓および鞘、十文字鎗鞘および柄、信国吉包作袋鎗、笹葉形鎗および柄、螺鈿柄大身槍、螺鈿柄薙刀、螺鈿柄籠槍、大小拵覚、鍔目録、鍵鎗図など。

(ご協力いただいた方々)

黒田一敬、長彦太郎、井手万平、三宅五朗、前田多市、星野宜義、加藤昭、亀陽文庫、 武部自一、田隅タネ、松本定策、大神茂弘、加藤明道、加藤正秀、周防憲男、坂田立子、 寺澤晃藏、吉野健也、河村道博、金丸憲司、庄野寿人、藤村喜久代、山崎定市、吉井喜雄、 櫛橋信和、大西襄治(敬称略)

(参考文献)

笹間良彦『日本の甲冑武具事典』(柏書房 一九八一年)、常石英明『日本刀の研究と鑑定―新刀編』(金園社 一九九〇年)、歴史群像編集部『名刀・拵・刀装具総覧』(学研 二〇〇七年)、尾脇秀和『刀の明治維新』(吉川弘文館 二〇一八年)、深井雅海『刀剣と格付け』(吉川弘文館 二〇一八年)ほか。