企画展示

企画展示室1
近代福岡の新聞

令和元年10月22日(火・祝)~12月22日(日)

筑紫新聞
筑紫新聞

 『広辞苑』(第7版、新村出編、岩波書店)によれば、新聞は、「①新しく聞いた話。新しい知らせ。新しい見聞。ニュース。」と、「②新聞紙の略。社会の出来事の報道・解説・論評を、すばやく、かつ広く伝えるための定期刊行物」を指します。新聞は、江戸時代の終わりから明治時代、19世紀後半に日本で一般的なものとなり、情報を早く知ることのできるメディアとして現在も広く受け入れられています。

 本展覧会は、明治時代から昭和時代前期(戦前)に福岡で発行された新聞とその関連資料を中心に福岡の新聞の歩みをふりかえるものです。世間をにぎわせた大ニュースや、地元福岡のちょっとしたニュース、さまざまなニュースが詰め込まれた新聞の魅力をお楽しみください。

東京日日新聞 第40号
東京日日新聞 第40号
「新聞」の誕生

 江戸時代の終わりごろの情報伝達の手段は、幕府の命令を掲げる高札(こうさつ)、話題性のあるニュースを印刷した瓦版(かわらばん)、知識層がさまざまな伝聞を書きとめた風説留(ふうせつどめ)などがありました。これらのメディアは、内容や入手できる人びとが限定的であったり、速報性がある記事ばかりではなかったりしました。西洋で生まれた定期刊行物としての「新聞」の存在は、当時の日本でも知られていました。幕末の長崎では、外国人が英語の新聞を創刊し、後に日本語新聞も登場しました。また、幕府も外国語新聞の翻訳を行いました。

 年号が明治に変わるころには、江戸や大阪で日本人による日本語新聞が多く発行されましたが、明治政府は政府に批判的な新聞の発行を規制したため、限られた新聞だけが発行されました。

 明治時代初期、首都圏で新たな新聞の創刊が相次ぎます。明治3年(1870)に日本最初の日本語日刊新聞である『横浜毎日新聞』、同5年に『東京日日新聞』『郵便報知新聞』が刊行されました。これらの新聞は1日1回発行で、内容は中央・地方の政治、身近なニュース、海外動向、物価などを掲載する、現在にも通じる本格的なものでした。

 この時期には、時代を反映したユニークな新聞が発行されました。小倉県は、各新聞から人びとの役に立つ記事を抄録した『厚生新聞』を刊行しました。『評論新聞』は、政策や政局に対して記者の意見を述べる論説に重きを置いた新聞です。また、大手新聞の記事から庶民うけするものを選び、あざやかな版画に平易な文章を添えた「錦絵新聞」も発行されました。『東京日日新聞』や『郵便報知新聞』の錦絵版がその代表的なものです。

筑紫新聞 第1号附録
筑紫新聞 第1号附録
福岡創刊の新聞

 明治10年3月、現存が確認できる福岡最古の新聞である『筑紫新聞』が創刊されました。『筑紫新聞』は、福岡下名島町(現中央区天神)の弘聞社が発行元で、発行は3日に1回、定価は1冊あたり3銭でした。創刊の前月、鹿児島で武装蜂起が起こり、政府軍との戦闘が始まりました(西南戦争)。西南戦争の動向は福岡の人びとの大きな関心事でした。『筑紫新聞』は創刊からこの戦争の動向を詳しく報じました。第1号の附録は、熊本城を中心とした戦闘地域の地図です。附録地図による戦況報道は、東京の主要新聞紙よりも早いものでした。『筑紫新聞』は、鹿児島軍の人吉奪回の誤報で記事取り消しとなったこともあり、第35号で休刊になりました。

 『筑紫新聞』の休刊後も、『福岡新聞』(成美社)、『めさまし新聞』(悟楽社)など、福岡での新聞の発行は続きました。『めさまし新聞』は、明治12年8月から『筑紫新報』に改題します。

 明治13年4月、『筑紫新報』を吸収・改題する形で、福岡初の日刊紙である『福岡日日新聞』(福岡日日新聞社)が創刊されました。創刊時は4ページで、1部2銭でした。『福岡日日新聞』は、自由民権運動の高まりを背景に、議会の開設や言論の自由を主張する論説を掲載しました。記事に見出しを付けたり、段組を変更して文字数を増加させるなど、紙面の改良が重ねられました。

 明治20年8月、玄洋社系の人びとによって、新たな日刊紙『福陵新報』(福陵新報社)が創刊されます。創刊当時のページ数や購読料は、『福岡日日新聞』と同じでしたが、翌年7月に購読料の値下げを行い、購読者の拡大をはかりました。

福岡日日新聞 題字(明治42年2月)
福岡日日新聞 題字
(明治42年2月)
「福日」と「九日」―二大新聞の時代

 明治20年代、『福岡日日新聞』は経営改革と紙面改良を行い、自由党系新聞となりました。一方、『福陵新報』は設備投資の増加で明治31年に経営危機に陥ると、新たな出資者のもとで経営を刷新し、『九州日報』と改題します。「福日」と「九日」は、昭和17年(1942)に合併し『西日本新聞』が誕生するまで、福岡の二大新聞として発展・定着していきました。

 二大新聞の発展を支えたのは、速報性の高いニュースへの需要でした。日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~905)の際には、新聞社が戦地に派遣した記者を通じて、戦闘や戦局の情報が多くもたらされました。特に重要な局面では、街頭で号外が配られ、新聞の有用性が高まりました。

九州日報 題字(明治38年12月)
九州日報 題字
(明治38年12月)

 国内情報では、衆議院議員選挙の報道もさかんに行われました。自由党(のちに立憲政友会)系の『福岡日日新聞』と玄洋社(非自由党)系の『九州日報』は、選挙戦において互いに自派の優勢を報じています。

 大正時代には、ニュース量の増加と新聞報道の速報性向上のため、新たに夕刊が発行されます。「福日」「九日」両紙とも、大正10年(1921)から夕刊を始めました。当時の夕刊の日付は、発行当日ではなく、翌日のものになっていました。これは、夕刊の速報性をアピールするためと、朝に朝刊と夕刊を一度に配送した際に夕刊の情報が古く感じられることを避けるためでした。夕刊の日付が発行日と同じになるのは、第2次世界大戦の後のことです。 (野島義敬)

【主な展示資料】

(名称/年代/作成者など/品質形状)

「新聞」の誕生

・太政官日誌 慶応4年2月~5月 村上勘兵衛・井上治兵衛 木版・書冊
・東京日日新聞 第232号 明治5年11月9日 日報社/発行 木版摺
・郵便報知新聞錦画 第3号 明治時代初期 二代長谷川貞信/画 中判錦絵
・大日本国絵入新聞 第11号 明治時代初期 人形町上州屋/版 
・厚生新聞 第1号 明治時代初期 小倉県/発行 木版色摺
・評論新聞 第57号 明治9年 集思社/発行 印刷・書冊
・広益問答新聞 第259号 明治11年8月30日 四通社/発行 印刷・書冊
・鹿児島新聞 二俣夜襲図 明治10年4月28日 真匠銀光/画 木版色摺

福岡創刊の新聞

・筑紫新聞 第1号 明治10年3月24日 弘聞社/発行 印刷・小冊子
・筑紫新聞 第1号附録 明治10年3月24日 弘聞社/発行 木版色摺
・めさまし新聞 明治12年 悟楽社/発行 印刷
・筑紫新報 第115号 明治12年 悟楽社/発行 印刷
・福岡日日新聞 第483号 明治14年5月6日 福岡日日新聞社/発行 印刷
・福岡日日新聞 附録 明治20年3月24日 福岡日日新聞社/発行 印刷
・福陵新報 明治28年 福陵新報社/発行 印刷

「福日」と「九日」―二大新聞の時代

・福陵新報 第2495号 明治29年3月13日 福陵新報社/発行 印刷
・風俗画(新聞号外) 昭和30年代 祝部至善/画 紙本着色
・書簡 明治36年2月20日 宮川武行より井手武右衛門あて 墨書・継紙
・福岡日日新聞 号外 明治37~38年 福岡日日新聞社/発行 印刷 
・九州日報 第5408号 明治38年11月30日 九州日報社/発行 印刷
・九州明教新聞 第3号 大正6年3月5日 九州明教新聞社/発行 印刷
・福岡毎日新聞 第219号 昭和5年2月4日 清水多一郎/発行 印刷
・インク壺(九州日報社新社屋) 昭和7年 博多薩摩/謹製 金属製

《参考文献》

福岡市史編集委員会編『活字メディアの時代』(新修『福岡市史』特別編)(福岡市、2017年)、『西日本新聞百四十年史』(西日本新聞社、2017年)、『西日本新聞百年史』(西日本新聞社、1978年)、千葉市美術館編『文明開化の錦絵新聞』(国書刊行会、2008年)、湯本豪一『図説 明治事物起源事典』(柏書房、1996年)、土屋礼子『大阪の錦絵新聞』(三元社、1995年)、「九州日報五十年史」(『九州産業大観』《九州日報社、1936年》

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