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企画展示

企画展示室4
福岡市水道創設100周年記念 水とくらし

令和5年1月17日(火)~3月26日(日)

100周年記念ロゴマーク
100周年記念ロゴマーク

 大正12年(1923)3月1日、福岡市では室見川(むろみがわ)上流に建設した曲渕(まがりふち)ダムと平尾浄水場をはじめとする一連の施設が完成し、上水道が給水を開始しました。令和5年(2023)は福岡市の上水道事業開始から100年にあたります。

 水道創設100周年を記念して、古代から近代にわたる福岡市域の人びとと水とのかかわりや、水道事業の開始、水源確保の歩みをふりかえり、福岡市がすすめる節水型都市づくりを紹介します。

水資源の確保

 はるか昔より、人びとにとって水は飲用水や日常生活用水としてのみならず、農業用水や工業用水、また水運などに利用され、非常に重要なものでした。いわゆる世界四大文明は大河川のそばに成立しましたし、古代ローマでは総延長500㎞に及ぶ水道網が整備され、帝国の繁栄を支えたことが有名です。

 日本では、縄文時代の集落が川岸や湧水点の近くに立地しており、人びとの生活と水との深い関係がうかがえます。弥生時代には水路や井戸を掘り、集落の近くに自ら水場を作り出しました。飛鳥時代に大宰府の防衛のため築造された水城からは、堤の下に木で組まれた通水管が出土しており、地下水道の初現的な例のひとつといえます。江戸時代、貝原益軒(かいばらえきけん)(1630~1714)が博多の東西にはしる溝を「大水道(だいすいどう)と云(いう)」と「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」に記しましたが、何の目的で作られたのかよくわかっていません。

 福岡地方で生きた人びとは、生活用水を河川と井戸から確保しました。板付(いたづけ)遺跡、比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡群の発掘調査では弥生時代の井戸が見つかりました。井戸の本格的普及は奈良時代で、中世博多の都市部では、長方形に区画された宅地ごとに井戸がある状況も確認されています。また、江戸時代後期に成立した「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」には、博多市中に置かれた辻井戸が描かれました。

博多明治風俗画 水売り
博多明治風俗画 水売り

 福岡平野の臨海部は、河川や海に堆積した砂や泥、小石が地層をなしており、地下水は塩分や鉄分を含んでいる場所が多く飲用に適していません。加えて、人口増加による水質の悪化もあり、明治時代には博多部の井戸の多くが水質不良とされました。そこで、福岡市は明治29年(1896)に東公園に公営の井戸を新設しました。明治、大正時代の博多には、この井戸から汲んだ水を水桶に入れて荷車で運び、各家庭に販売する「水売り」の姿がありました。

近代水道の成立

 福岡市に水道を設置する動きは、市の成立直後から始まりました。明治22年(1889)7月、福岡市は内務省技師バルトンに水道設置のための調査を依頼しました。バルトンは那珂川(なかがわ)を水源として荒戸山(あらとやま)(現 中央区)に貯水池を作り市内に給水する計画を記した報告書を提出します。バルトンの計画は費用が高額になったため、市会では継続して調査をすすめることになりました。

 明治35年、水道に関する調査が再開されました。明治39年、福岡市は水道計画をすすめるため市政調査委員会を設置し、門司市(現 北九州市)の水道技師鈴木久夫に調査を依頼しました。鈴木は室見川上流にあたる早良郡内野村(現 早良区)の曲渕地区を水源地とし、福岡市一円の12万人に給水する計画を立て、費用を約240万円と試算しました。鈴木の計画は市会で満場一致で可決され、市は海軍技師吉村長策に水道の設計を依頼します。吉村の設計案も市会で承認されたため、明治42年9月に市は内務省、大蔵省に水道設置の認可と費用の国庫補助を申請しました。2度の却下を経て、大正2年(1913)に水道布設が認可され、国、県の補助も決定し、市債も承認されました。

博多部での配水管布設工事(福岡市水道局提供)
博多部での配水管布設工事(福岡市水道局提供)

 水道布設の認可後は、政治的対立や用地取得の長期化のため、工事の開始が遅れました。工事開始後も工期の延長と第一次世界大戦による諸経費の増加に対する資金の確保に時間を割きました。

 大正12年3月、福岡市内全域と一部市外の給水がはじまりました。曲渕ダムを水源地とし、筑紫郡八幡(やはた)村(現 中央区)平尾浄水場でろ過して各地に配水しました。配水は高低差を利用した自然流下式で、配水管の総延長は112㎞に及びました。平成20年(2008)、曲渕ダムと平尾浄水場配水池の点検用通路の建物は、福岡市の有形文化財に指定されました。

水道の道具

 安定的な給水を実現するために重要だったのは、配水管をつなぎ合わせてはりめぐらすことでした。水道創設から昭和時代戦後まで、鋳鉄製の配水管をつなぎ合わせる際には、受け口に挿し口を差し込み、隙間を麻と溶かした鉛でふさぐ「印籠型継手(いんろうがたつぎて)」という手法が用いられました。この手法では、麻や鉛だけでなく、麻を隙間に詰め込むためのハダ打ちや、溶かした鉛を小分けにするコッギと呼ばれる鍋など、さまざまな道具が使われました。印籠型継手は剛性の高い接合方法ですが、振動や揺れに対するしなやかさに欠けるため、ゴム素材を使った新たな接合方法が考案されました。

 水道の給水栓は専用栓と共用栓がありました。共用栓はひとつの給水栓を共同で使うもので料金は昭和3年(1928)3月まで定額でした。一方、専用栓は使用した分だけ料金を支払う計量制であったため、福岡市は国産品とドイツ製品の水道メーターを購入しました。水道メーターは水道管の口径によって種類が分かれており、最も小口径である13㎜のメーターの設置数が多くを占めました。

現代の水道

 福岡市の水道は当初人口12万人を想定して創設されましたが、給水がはじまった大正12年の段階ですでに14万人を超えており、順次拡張事業を行うことになりました。第1回拡張事業は曲渕水源地の拡張で、昭和9年(1934)に完了しました。昭和の戦争が終わった後も拡張事業はすすめられ、昭和20年代から30年代にかけて那珂川、多々良川(たたらがわ)水系からの取水が行われるようになります。昭和40年代以降は、南畑(みなみはた)ダム(那珂川水系)、久原(くばら)ダム(多々良川水系)、江川(えがわ)ダム(筑後川(ちくごがわ)水系)、脊振(せふり)ダム(那珂川水系)、瑞梅寺(ずいばいじ)ダム(瑞梅寺川(ずいばいじがわ)水系)の供用がはじまり、新たな水源を確保しました。

南畑ダム(昭和53年)(福岡市水道局提供)
南畑ダム(昭和53年)(福岡市水道局提供)

 水資源の確保をすすめる過程で、福岡市は2度の大きな渇水を経験しました。3月から5月にかけての降水量が非常に少なかったことが原因で、昭和53年には287日間、平成6年(1994)には295日間の給水制限が実施されました。渇水を教訓として、福岡市は昭和54年に「福岡市節水型水利用等に関する措置要綱」を制定し、水道水の安定供給と水の有効利用を促進する取組をはじめました。浄水場から蛇口までの水の流れと水圧を制御する「水管理センター」の設置(昭和56年)や、6月1日を「節水の日」と定め市民に節水を周知するなどの活動を行っています。昭和58年には筑後川からの取水がはじまり、水資源確保の安定性が向上しました。

 平成15年に福岡市は全国で初めて「節水推進条例」を施行し、さらなる節水への理解と水資源の有効利用に取り組んでいます。令和3年(2021)に五ケ山(ごかやま)ダムの供用が始まり、福岡市の水源開発は完了しました。現在は水道水の安定供給のため浄水場の再編や配水管の整備、貴重な水資源の有効利用のための漏水防止対策、節水に向けた広報活動をすすめています。 (朝岡俊也・野島義敬)

【主な展示資料】(名称・年代・作者など) 

★は福岡市埋蔵文化財センター所蔵
●は福岡市水道局所蔵

水資源の確保
  • 井戸釣瓶 弥生時代★
  • 石城志 1765年 津田元顧・元貫編
  • 筑前名所図会 文政4年 奥村玉蘭
  • 博多明治風俗画 水売り 昭和時代 祝部至善
近代水道の成立
  • 福岡市水道事蹟 大正時代 福岡市水道課●
  • 写真(博多掛筋通り配水管布設) 大正時代 撮影者不明●
  • 顕微鏡 近代 Ernst Leitz製●
  • 福岡市上水之栞 大正12年 福岡市役所水道課
水道の道具
  • 柄付きタガネ 昭和時代●
  • ヤーン(麻) 昭和時代●
  • 印籠型鋳鉄管 昭和時代●
現代の水道
  • 福岡市上水道第一期拡張抄誌 昭和9年
  • 写真(南畑ダム 渇水)●
  • 写真(星の原団地給水)●
《参考文献》

福岡市役所編『福岡市史』第二巻大正編(1963年)、福岡市水道局編『福岡市水道五十年史』(1986年)、福岡市水道局編『福岡市水道七十年史』(1994年)、松本洋幸『近代水道の政治史 明治初期から戦後復興期まで』(吉田書店、2020年)、佐伯弘次「まぼろしの湊 袖の湊と大水道」(網野善彦・石井進・福田豊彦監修、川添昭二編『よみがえる中世1―東アジアの国際都市 博多』平凡社、1988年)

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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