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企画展示

企画展示室1
戦争とわたしたちのくらし32

令和5年5月30日(火)~7月9日(日)

はじめに
絵画(兵隊さんに朝夕感謝)
絵画(兵隊さんに朝夕感謝)

 昭和20(1945)年6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B-29の大編隊から投下された焼夷弾により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲」の日として戦災死者の追悼を行っています。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期の人びとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。

 32回目となる今回は戦時期の子どもの遊びや学校での生活を紹介します。直接戦闘に参加しない銃後の国民のうち、子どもたちは「少国民」と呼ばれ、戦争を支援する体制に組み込まれました。学校や遊びまで戦争の時代を反映したものに囲まれて過ごしました。

戦時の子どものくらしにふれることで、戦争と平和を考える機会になれば幸いです。

戦時の子どもたち

 昭和6年(1931)の柳条湖(りゅうじょうこ)事件の勃発から同20年の終戦に至るまでの15年間は、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争が連続、併行して進行する戦争の時代でした。戦争遂行のため物資・人員を総動員する体制の中で、子どもたちにも役割が与えられ、行動も変化しました。

写真(上魚町少年団)
写真(上魚町少年団)

 福岡市(ふくおかし)上魚町(かみうおのまち)(現 博多区)の少年団の記録は、昭和13年の創立から3年間の活動内容を記したものです。最初の活動は、昭和13年10月2日、町総代の挨拶の後櫛田(くしだ)神社に参拝、休憩後に模擬演習を行い、軍歌を合唱して解散するというものでした。その後も毒ガスを想定した防空演習に被害者役として参加するなど、戦時を意識した活動を行いました。昭和15年に町内会・部落会の下部組織として隣組が組織され、隣組内での定期連絡や意思疎通の場として常会が開催されるようになると、上魚町少年団は子ども向け常会の機能も担うようになりました。

 太平洋戦争がはじまった昭和16年以降、年少の国民を表す「少国民」という言葉が多く使用されるようになります。昭和17年、朝日新聞社は『週刊少国民』を創刊し、これからの日本を背負う「少国民」が知るべきニュースを写真入りで紹介しました。

 軍事動員による労働力不足に対応するため、学校生徒の動員も行われました。昭和18年1月に中等学校の修業年限が1年短縮されました。翌年には中等学校2年生以上は工場や農村に動員されることになりました。学校で過ごす時間が減らされ、兵器や食糧の増産のため働くことが義務づけられたのです。

子どもの遊び

 子どもたちの遊びにも、戦争の時代を反映するものが多くありました。 双六(すごろく)は、子ども向け雑誌の付録の定番のひとつでした。昭和14年(1939)1月に発行された『セウガク一年生』(小学館)の付録である「勇マシイ兵隊双六」は、日中戦争下の時局を反映したもので、出征を振り出しに、敵地入城を上がりにしたものです。「皇軍進撃双六」(『せうがく三年生』〈小学館〉付録)もまた出征から敵地占領までを描いたものです。また、かるたも軍人や兵器、戦争のスローガンを題材としたものが作られました。

紙芝居「ヘイタイゴッコ」
紙芝居「ヘイタイゴッコ」

 子どもが見て楽しむものとして、街頭での紙芝居がありました。紙芝居が子どもに与える影響は大きかったため、戦争の時代には子どもにふさわしい振る舞いを教える印刷紙芝居が作られます。紙芝居「ナカヨシバウクウゴウ」は、幼児に防空訓練を指導するために製作されました。物語の中で防空壕の使用目的や警報の種類、防空壕への避難方法を説明しています。紙芝居「ヘイタイゴッコ」は、子どもたちを主人公に「兵隊ごっこ」の様子を描きながら陸軍の兵士の種類や名称を教えること意図した作品です。三輪車に乗った子どもは戦車兵、竹馬に乗った子どもは騎兵、竹筒を持った子どもは砲兵、スコップを持った子どもは工兵など、具体的な名称を台詞に登場させています。女の子は看護婦役とされました。

学校と子ども

 昭和16年(1941)4月、小学校が新たに国民学校に変わりました。国民学校設置の目的は「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」(国民学校令第1条)こととされ、帝国を支える臣民を錬成する初等教育機関という位置づけを明確にしています。これまでの尋常小学校(修業年限6年)は国民学校初等科に、高等小学校(修業年限2年)が国民学校高等科に改称されました。学習教科も統合され、国民学校初等科は国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(武道・体操)、芸能科(音楽・習字・図画・工作・裁縫)の4教科となります。国民学校高等科には、これに加え実業科(農業・工業・商業・水産)がありました。

 国民学校ではどのような教育が行われたのでしょうか。春吉国民学校(現 春吉小学校)を一例にみていきます。国民科・理数科の答案用紙には「レンセイヨウシ」「錬成用紙」と印刷されたものがあります。国民学校が国民の基礎的錬成をなすものであることからこの言葉が用いられたと思われます。学校から保護者に配付された連絡物には、「よい所を見つけて何とかしてお国の役に立つ子供に練り上げませう」と書かれており、子どもたちへの教育の目標が国家に有用な人材の育成にあったことを示しています。

 当時の子どもたちの絵は、戦争の時代の日常を描いていました。絵の主題は、家庭内での慰問袋づくり、街頭での千人針集め、神社参拝、国旗掲揚など「銃後の国民」として子どもたちにも協力が求められた行動でした。また、裏面に前線兵士への慰問文が書かれた慰問用の人形の絵なども描いています。

福岡大空襲と戦後の子どもたち

 昭和19年(1944)6月、米軍がサイパン島に上陸すると、日本本土への空襲の危険性が高まりました。政府は東京をはじめとして大都市の国民学校児童の疎開をすすめました。翌20年には軍港都市も疎開対象とされ、計画的に疎開がすすめられます。

写真(板付基地付近の子どもたち)
写真(板付基地付近の子どもたち)

 昭和20年6月19日、マリアナ諸島を出発した米軍の爆撃機B-29の編隊は、宮崎県付近から九州上陸に進入し、長崎県島原市付近で進路を北に変え、脊振山系を越えて午後11時過ぎに福岡市上空に達しました。米軍による焼夷弾の投下は翌日未明にかけて続き、福岡市の中心部の3割以上が焼失しました。局所的に被害を受けた地域もあり、詳細な被災地域は現在においても明らかではありません。福岡大空襲の後に疎開した児童もいました。

 昭和20年8月に日本がポツダム宣言を受諾し、9月2日に降伏文書に署名して戦争が終わりました。学校の授業は9月から再開されましたが、教科書から軍国主義的な記述が削除され、修身・国史・地理の教科書は回収されました。記述の削除には、上に墨を塗るという「墨塗り」がほどこされました。昭和22年4月からは新たな学校制度がはじまり、国民学校での教育は終わりました。

(野島義敬)
【主な展示資料】(名称・年代・作者など)
戦時の子どもたち
  • 博多上魚町少年団記録 昭和13年以降 上魚町少年団/作成
  • 上魚町少年団皇紀二千六百年奉祝記念写真 昭和15年 撮影者不明
  • 『週刊少国民』創刊号 昭和17年5月 朝日新聞社/発行
子どもの遊び
  • 勇マシイ兵隊双六 昭和14年1月 小学館/発行
  • 皇軍進撃双六 昭和14年1月 小学館/発行
  • 慰問箱「兵隊さん有難う」 昭和戦中期 福岡松屋百貨店/取扱
  • 紙芝居「ナカヨシバウクウゴウ」 昭和19年 日本教育画劇/発行
  • 紙芝居「ヘイタイゴッコ」 昭和19年 日本教育画劇/発行 
学校と子ども
  • 国民学校名札 昭和16~21年 製作者不明
  • 四年生教育について 昭和16~20年 春吉国民学校/作成
  • 絵画(兵隊さんに朝夕感謝) 昭和16~20年 作者不明
  • 絵画(慰問袋) 昭和16~20年 作者不明
福岡大空襲と戦後の子どもたち
  • 防空頭巾 昭和時代 作者不明
  • 写真(福岡大空襲) 昭和20年 撮影者不明
  • 墨塗り教科書 昭和20年7月 梅澤直己/筆写
  • 日記帳 昭和20~21年 藤ケイ子/筆

《参考文献》文部科学省編『学制百五十年史』(ぎょうせい、2022年)、首藤卓茂「少国民の労働戦士聞き書き 福岡市内国民学校高等科生徒の勤労動員」(『福岡地方史研究』第59号、2021年)

福岡市博物館
〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
TEL:092-845-5011 FAX:092-845-5019

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