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昭和58(1983)年度収集 収蔵品目録1

【寄贈】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 三奈木黒田家資料 〈三奈木黒田家について〉
 初代の三左衛門美作(みまさか)は加藤重徳の次男として元亀2年(1571)摂津国伊丹(現兵庫県伊丹市)に生まれた。父重徳の善行により黒田孝高(よしたか)に引きとられ、黒田姓を与えられ、3歳年長の長政と兄弟同様に育てられた。中国・九州平定、朝鮮出兵、関ケ原陣等々長政と共に戦い、慶長5年(1600)長政が筑前藩主に任ぜられるや、下座郡(げざぐん)に1万6,000石を与えられ、三奈木(みなぎ)村に別邸を設けた。藩政の確立と共に次第に頭角を表わして筆頭家老となり、2代目以降明治に至るまでその職を世襲し藩政上重きをなした。
〈資料について〉
 初代三左衛門所用の甲冑をはじめとして歴代当主の肖像画、狩野派の絵画、藩主や文人の書跡、各種武術書、漆器、陶磁器にいたる什宝類から成っており、上級武士の生活を具体的に知りうる資料である。尚約5,000点の古文書は九州大学文化史研究施設に保管されている。
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2 塚本家資料  塚本家は、初代道庵が寛文年間に召抱えられて以来、黒田藩の御抱医師(外療)を代々勤め、外療のなかでは最高の330石を賜わっている。近代になると、8代道甫は軍医に、9代道遠は農科大学(農芸化学科)卒業後水産講習所教授になっている。
 本資料のなかには、初代道庵愛蔵の茶入(銘「夕時雨」)、その茶入を鑑賞した4代藩主綱政の「タ時雨記」、竹田定直「塚本氏碾茶壺記」、黒田治之「楓図」、黒田長成墨跡、益軒書翰などがある。
本資料は、藩主と塚本家との関係、医師塚本の活躍、ならびに福岡における近代医学の動向を示してくれる好個の資料である。とくに、8代道甫は、幕末期藩の意向による近代医学(長崎伝習)の習得後、中洲で開業、その後、熊本鎮台の軍医となっている。道甫の生き方を通じて近世の藩医から近代の博多の医業の展開を知ることができ、近代医学史を知る上で貴重な資料といえよう。
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3 中江家資料  「中江家系図」によると、中江藤兵衛惟尚は近江国(滋賀県)から豊前田中津(大分県)に渡り、この地で黒田孝高に抱えられ、2代忠之から17石4人扶持を給わり、藩主の「御付御納戸(おつきおなんど)」に任ぜられた。以降中江家は代々この「御付御納戸」という近習役を勤めている。幕末の正義氏は藩主長溥の御付御納戸を勤め、明治期には家扶となり黒田家の奥向に精通していた。この資料は藩主の近習としての記録であり、貴重な資料である。 17 37
4 筑紫豊資料  本資料は江戸時代初期の連歌懐紙5折からなる。5折のうち3折は名残折を欠損しており、綴紐も紛失している。本連歌には連衆として、黒田藩主忠之、忠之に近侍した宰府一門の縁故者、聖福寺、筥崎宮、大宰府天満宮満盛院等の神宮、僧侶の名前がみえており、大宰府天満宮所蔵の「寛永年間連歌集」「正保二年連歌集」にも納められている。大宰府天満宮所蔵の連歌資料とともに近世筑前の文芸資料として貴重である。 5 5
5 白水家資料  本資料は、福岡県の無形文化財保持者であった博多人形師、故白水八郎氏の家に代々伝えられた資料及び氏が生前に収集したもので、近世・近代の人形師関係の資料である。
 資料の中には、福岡県の有形民俗文化財に指定された、江戸時代末期から明治時代にかけての陶製の面型、操り人形の頭・腕部や素焼き人形などが含まれている。また、近代の山笠製作に使われたと思われる山笠下絵もあり、当時の博多人形師の広範な活動のようすを知ることができる。
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【寄託】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 三友家資料  三友家は旧熊本藩士で、故三友健也氏に伝世した武具・甲冑類を三友家資料と称している。健也氏未亡人の啓子氏は旧筑前藩士団尚静の実孫にあたっている。三友家資料の中核は2領の甲冑である。紺糸威二枚胴具足は三十二間筋兜と、同じく紺糸威胴丸具足は置手拭形兜と各々対(つい)を成している。いづれも柊(ひいらぎ)の家紋が配され、作風は桃山風、小具足が完備している。特に旗、旗差、提灯、草鞋、矢立が鎧櫃(よろいびつ)に納められており、組物となっているのは珍らしい。 14 24

【購入】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 明石家資料  明石氏は播磨国守護赤松氏の婚族で、明石城主であったが、文禄・慶長の役後黒田氏に仕えた。寛永8年(1631)には黒田氏より3,500石を拝領しており、中老として政務を司る一方、御側御用・武器類の惣支配を務めている。本資料はこうした明石家に伝えられたものであり、藩主から宛られた知行目録、知行宛行状、野村望東尼から明石行敏に宛てた書状、明石行敏・いさ夫妻が詠んだ和歌、明石家当主の肖像画等からなっている。 53 216
2 藤井家資料  藤井家は、慶長年間(初代九左衛門)以来黒田藩の馬廻方を勤め、500石を賜わっている。維新後、藤井一寛は福岡荒戸町から粕屋郡小野村谷山に帰農している。一寛の長男として明治16年に生れた甚太郎は、修猷館から五高を経て東京帝大(国史専攻科)に学び、同大学院で「徳川季世史」を研究、のち実践女子専門学校教授、法政大学教授を歴任している。
 本資料は、近世初期から明治にかけてのものであり、藩主と藤井家との関係、馬廻方藤井氏の活躍、ならびに元日本歴史地理学会会長藤井甚太郎の活躍を示してくれる貴重な資料である。
 なお、藤井家資料の一部(242点、近世が中心)は、松崎文書館の所蔵になっている。
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3 原田(北原)家資料  原田家は、文政5年(1822)以来、秋月藩の御抱大工(御作事所の大工棟梁)を代々勤め、5人扶持を賜わっている。
 本資料のなかには、「筑前名島城図」「江戸屋敷図面」「長崎屋敷図」「博多蔵元図」「下秋月勘定所・郡役所之図」「御殿御差図」等、藩関係の屋敷図面(正面図、平面図、側面図)、「諸職人御法全書」、「諸職人運上銀定書」、「方営縄引諸控帳」、「棟上祝詞」などがあり、御抱大工・原田氏の活躍を窺うことができる資料が多い。
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4 梶原家資料  本資料は梶原家に黒田藩主、秋月藩主から宛られたものである。梶原家は江戸初期は黒田長政から那珂郡下東郷内に200石の知行地を宛がわれており、秋月藩の成立とともに秋月に移り、夜須郡高田村に100~150石の知行地を宛がわれて幕末に至っている。本資料は、これらのことを示す知行目録、知行宛行状がほとんどであり、黒田長興(孝政)の書状2通は、年頭の祝儀として銀子を送られたことに対する礼状である。 18 18
5 菅家資料  本資料は黒田藩士菅家に伝えられた資料である。菅家は無足組で14石3人扶持を賜わり、地行に住んでいたが、明治初期には糸島郡井原に移住した。
 時代的には幕末~明治頃のものであり、内容的には、製銃関係、参勤交代関係、亀井昭陽との往復書簡等を含んでいる。特に幕末の製銃関係の資料は比較的めずらしいものである。
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6 内藤家資料  朝倉郡把木で「久屋」という酒屋を営んでいた内藤家の資料で全て書冊である。元禄、天保年間に内藤家の当主が筆写したものが大部分を占めており、上座郡を中心とする筑前国内の地誌類がほとんどである。その外筑後の玉垂宮や大宰府天満宮の資料も含まれている。 8 9
7 水城家資料  水城家は、山家宿の郡屋守を勤め、酒造業を営んでいる。
 本資料は、御笠郡山家宿川口屋歴代当主水城氏の写本および収集資料からなっている。幕末から明治にかけての町人・水城家当主の勉学のあり方を具体的に示してくれるものとして興味深い資料である。
 なお、同家資料の一部(名寄帳、日記、土地台帳を含む47点)は、福岡県地域史研究所に所蔵されている。
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8 権藤家資料  旧福岡藩士権藤市兵衛は、大宰府社神宮権藤雅楽の三男として生れ、分家して福岡区上東町に住した。権藤市兵衛の職業は、明治32年の戸籍抄本によれば、「雑業」となっている。明治21年には、人力車の営業を行なっており、それに関するものが大半を占めている。また、権藤市兵衛の私文書詐偽事件に関係するものも若干含まれている。
 本資料は、近代の交通手段「人力車」に関するもので希少価値があり、旧藩士の生業として行なった事実も珍らしい。
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9 筑紫(辰)家資料  馬廻組筑紫辰五郎は、黒田藩主より470石を賜わり、因幡町に住していた。慶応4年(1868)には、戊辰戦争で黒田藩の小隊司令として活躍した。
 本資料は、江戸在陣、船橋の戦、ならびに奥賊戦役での戦功についてのものが大部分である。また、幕末期の黒田藩の動向の一端を示してくれる資料としても貴重である。
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9時30分〜17時30分
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