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平成16(2004)年度収集 収蔵品目録22

【寄贈】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 武部自一資料(追加分)  旧福岡藩士建部家(大組700石)に伝来した、幕末から近代の古文書、古写真、絵画。平成13年度寄贈の追加分。建部家は、3代藩主黒田光之の母方の縁者であるため黒田家に仕えたと伝えられている。歴代当主では、幕末に筑前勤皇党の有力メンバーとして活躍した武彦と、明治初年の反政府結社矯志社を興した小四郎が著名。武彦は慶応元(1865)年の乙丑の獄で切腹、小四郎は明治10(1877)年の福岡の変により刑死するなど、幕末維新期の福岡の政治史上、重要な役割を演じた。
 武彦関係のものとして注目すべきは、慶応元年10月の「切腹命令書」、「遺言書」、「加藤司書書状」等で、乙丑の獄の実態をよく伝える。小四郎関係では、目まぐるしく変わる明治初年の状況や各地の士族の動向を伝える書状が多く残る。近代以降では、家政関係資料、特に屋敷の改築、葬儀、家計に関するものが中心となる。また、昭和40年代に行った親族の藤田円一氏による、武彦や小四郎についての調査資料も見られる。
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2 周防憲男資料(追加分)  旧福岡藩士周防家に伝来した、近世・近代文書、近代の生活資料。平成7年度と14年度寄贈の追加分。
 周防家は福岡藩3代藩主黒田光之に知行150石で御鷹方として召し抱えられ、幕末には地行1番丁に屋敷を構え、大島、姫島定番などを勤めた家。古文書類は、主に明治から昭和初期の家関係の文書で、文五郎→博→正義(寄贈者兄)と続く歴代当主に関する資料と博の弟である繁人・光夫に関する資料とを柱とする。これらは「明治初期、周防関係分」、「長谷家関係分」、「成績品」、「鎌田家関係」と書かれた封筒にそれぞれ一括されていた。その内容は、金銭貸借関係証文、給与明細書、養子縁組に関する資料、賞状や答案をはじめとした教育関係資料等、近代の生活に関わる資料を多く含む。また、注目される資料として、後世の収集資料と思われる黒田長政発給文書がある。これらは代官の板付次郎右衛門(10石2人扶持)に与えられた年貢皆済状で、「simeon josui」のローマ字印も見られる。なお、2点が伝わる胸当には周防家の家紋「並び腐の羽」が据えられており、御鷹方としての由緒を伝える。
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3 松田順吉資料  寄贈者の父で門司三井倶楽部(大正10〈1921〉年竣工国指定重要文化財)を設計した建築家・松田昌平氏あての辞令や感謝状、雁ノ巣飛行場(昭和11〈1936〉年開場)の格納庫などを昌平氏が撮影したガラス乾板、昭和12年夏に旧制中学生であった寄贈者が雁ノ巣飛行場の飛行機を撮影したフィルム、炭鉱関係の仕事をしていた寄贈者の祖父が収集したと思われる国内外の絵はがきなどからなる。寄贈者は山口県出身だが、昌平氏が、明治専門学校(現・九州工業大学)で教鞭をとったり、福岡市や北九州市での仕事をするようになり、福岡へ転居して設計事務所を構えた。資料はいずれも、寄贈者宅で保管されていたもの。 285 308
4 井手道子資料  旧福岡藩士井手家伝来の近世・近代文書と絵図・絵画。
 井手家初代の勘右衛門友氏は黒田職隆の弟(=如水叔父)で、播磨国高倉城主井手光昌の養子となったが、永禄12(1569)年、赤松政秀と黒田職隆が土器山にて戦った際に32才で戦死した。その時6才だった子の友正は難を逃れ、成長して後、客分として福岡へやってきた。なお、この時、長政より2,700石と福岡城内の屋敷地を与えると言われたが固辞したとされる。その後、3代友次の代に至り正式に家臣の列に加わり、知行は200→300→400→270石と推移した。
 古文書は、慶長8(1603)年の井手友正宛黒田長政知行宛行状を最古として、江戸時代初期から中期の知行関係文書と、後期の相続関係、職務関係文書からなる。この中では「天守之番衆」と題された井手真斎(友正)宛長政黒印状が福岡城築城関係文書として注目される。近代は渡邉家(今回の寄贈者渡邉源吾氏の家)より養子に入った秀男氏(寄贈者の祖父)に関する文書が中心。絵図・絵画類は、朝鮮半島における長政の行軍図や長崎までの海路図、小倉戦争を知らせる摺物等、福岡藩に関わるものが多い。
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5 古賀善一資料  昭和63年度収集の追加分である。寄贈者の自宅に保管されていた昭和10年代後半の戦時債券、郵便貯金通帳のほか、日本銀行券(10円)、江戸期および近代の日本の貨幣と、寄贈者が渡航した時に入手した中国・韓国などの貨幣である。郵便貯金通帳は寄贈者本人名義のものと、寄贈者の母キク氏の名義である。 46 233
6 酒見勝二資料  第2次世界大戦後に復員し、福岡県に奉職した寄贈者(大正11〈1922〉年生まれ)の給与明細。昭和22(1947)年4月から56年3月までの明細がほぼ全て揃っている。寄贈者が自ら整理して保管していたもの。基本給のほか、賞与や諸手当の実態がよく分かる。戦後から高度経済成長期の急激にすすむインフレの中、給与所得者の家庭の家計をうかがい知ることができる資料である。また、30年以上に及ぶ蓄積により、明細書の書式が変化する様子を確認することもできる。 43 43
7 小森田トワ資料  古銭と昭和21(1946)年博多駅前火災関係資料。
 小森田氏の父林田重次郎氏(昭和10年没)は古銭収集家として知られ、渡辺通りにあった通俗博物館にコレクションが展示されていたこともある人物。しかし、それら収集品は、昭和21年の博多駅前火災で、春吉にあった自宅が被害を受け、全焼してしまった。
 本資料群の古銭は、その時に焼け跡から出た分と、銀行に預けていた分で、宝永7(1711)年の乾字小判や丁銀、明治・大正期の硬貨からなる。昭和30年代以降の記念硬貨等も若干含んでおり、火災後も引き続き収集を続けていたことが分かる。
 昭和21年の火災関係資料は、小森田氏宛に福岡市が発行した罹災証明書や居住証明書である。火災の熱で溶着した硬貨が、被害の様子を伝える。
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8 古田鷹治資料(追加分)  平成15年度収集の追加分である。福岡女子高等小学校の絵はがきと大正7~8(1918~19)年頃購入と思われる朝鮮半島の絵はがき、北九州鉄道の沿線案内図(JR筑肥線の前身)からなる。いずれも寄贈者宅で保管されていたものだが、詳しい入手の経緯などは不明。高等小学校は、明治16(1883)年に福岡橋口町に設立されたが、絵はがきは小烏馬場に校舎があった時期のものである。大正4年完成の旧福岡県庁、大正6年に須崎土手町から移転した福岡県物産陳列所は写っているが、大正12年完成の旧福岡市役所が写っていないので、福岡女子高等小学校の絵はがきも大正時代半ばのものと思われる。 31 31
9 宮内悊資料  デザインの文化史的研究に従事し、特に家具等のデザインに関する研究で知られる寄贈者が、九州芸術工科大学在職中の昭和44(1969)年から平成3(1991)年の間に収集した郷土玩具。特にきじ車が多く揃う。平成16年10月~11月に甘木市で開催された「宮内悊 九州の郷土玩具と水彩画展」に展示の後、地元で活用して欲しいと寄贈された。
 きじ馬は、東北のこけしと同様、分布が著しく偏する郷土玩具で、九州に特徴的である。本資料群はコレクションとしてある程度のまとまりを持ち、宗像のきじ車のように、現在ではほとんど見られなくなったり、湯前のきじ馬のように、現在とは異なる風貌を持つものなどが含まれ、資料的価値も高い。
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10 岡田由子資料  大黒流旧下洲崎町の岡田家に残された博多の祭礼に関する資料群である。当家はかつて、筒描きの布地などを得意とする染物屋としてたいへんに繁盛していたという。また、寄贈者の父も祖父も町の役員を務め、祭りに積極的にかかわっていた。
 資料は、寄贈者の父と祖父が着用した祭礼用衣服が中心で、特に戦前に着用された「滝縞」と呼ばれる山笠当番法被が含まれる点が注目される。これに町名改変後の「須ー」柄のものを加え、山笠法被の変遷を示す資料としてたいへん貴重である。
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11 渡邉源吾資料  旧福岡藩士渡邉家伝来のガラス写真4点と木版本。
 渡邉氏は元禄の分限帳に半十郎が200石で登場するのを福岡藩での初見とする。天保期に一度190石に減知されるが、安政期には元の200石に復している。屋敷は新大工町(現福岡市中央区唐人町)にあった。寄贈者は大正元(1912)年生まれ。昭和5(1930)年に修猷館を卒業している。父親は福岡市の職員で、祖父が福岡藩士。
 幕末の当主和平貞利を写した3枚のガラス写真は軍服姿もあり、戊辰戦争頃に撮影したことが分かる。写真の箱には写真館の広告、撮影場所の記載、一緒に写った人物の名前の書込みがあり、伝来が判明する。残りの1枚は寄贈者の父を写した明治期のもので、当時ハイカラであった傘をさした姿である。
 木版本は、大坂や京都で出版された、和歌に関するもの。こちらは寄贈者の親類宅に伝わった本で、三宅家の蔵書印がある。なお、渡邉家にはかつて「渡邉家譜」をはじめとした古文書類も残っていたが、昭和30年代頃以降行方が分かっていない。
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12 中川三治郎資料(追加分)  平成11年度収集資料の追加分である。いずれも寄贈者が収集した昭和10年代の戦時関係資料で、東京陸軍少年通信兵学校絵葉書に認められた6通の軍事郵便は、福岡県出身の少年が在校中に郷里の両親に送ったものである。ほかに献納品や九州特別大演習の絵葉書がある。警防団バンド金具は圧縮紙でつくられた代用品。「八日市飛行第三連隊絵はがき」など3組は、戦時資料の収集家であった寄贈者が復刻したもの。 14 14
13 林ツル子資料(追加分)  平成14年度、15年度収集の追加分である。平成14年度、15年度については寄贈者の母・故林ツル子氏からの寄贈である。昭和37(1962)年の熊本博覧会の絵はがき、九州帝国大学医学部教授であった宮入慶之助氏(慶応元〈1865〉年生まれ)より寄贈者の父・林昌治氏(明治11〈1878〉年生まれ)へあてた書簡など。熊本博覧会の絵はがきは、林ツル子氏が博覧会見物に出かけた際に購入したものと思われる。書簡は、当時大学を退官し名誉教授となっていた宮入氏と現在の早良区城西の開業医であった林氏との交流をうかがわせるものである。 6 6
14 高田茂廣資料(追加分)  福岡藩の海事史研究者で、能古島に長く在住した寄贈者が収集した、捕鯨用の銛、鈎付き金具、漁船の図面。平成12年度及び平成13年度寄贈の追加分である。
 銛は捕鯨用として筑前で使用されていた伝来を持つ。捕鯨は弓、槍、鉾、銛、剣を使用した突取式(~江戸時代中期)から、銛、網を併用した網取式(江戸時代中後期~)、鉄砲を使った銃殺式(江戸時代後期~明治初期)、捕鯨銛を発砲する砲殺式(明治初期~)と発展を遂げた。この銛は上記の流れからいけば、突取式或いは網取式捕鯨で使用されたものと推測される。漁船の図面は高田氏が研究で使用したトレース図。各部分の名称が細かく書き込まれている。鈎付きの金具は炭坑で使用されていたものとのこと。
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15 前田家平資料  当資料は博多祇園山笠当番法被と下魚町之印からなる。旧博多下魚町(現上呉服町)は魚町流(現福神流)に属す町である。明治38(1905)年の雷鳴事件によって、以降福神流は山笠を出さず、能当番を務めることになった。したがって、この当番法被は能当番のときに身につけたもの。下魚町の当番法被は幻の法被といわれ、実物の所在は長い間不明であった。おそらく昭和14(1939)年のものと思われるが、明確ではない。寄贈者の父である前田家平氏(明治36年生)が下魚町の町名に因んだ魚文様の図案を考案し昭和10年代に製作した。印判は、区有事務などに使われたもの。 2 2
16 エリコ・ゴーマン資料 刀 銘「鬼塚吉國」。寄贈者が昭和30年代に渡米する以前に鎌倉で購入したもの。
 鬼塚吉國は初代と2代が著名。奥州棚倉出身の初代は近世初期に柳川の立花氏に招かれ、九州へやってきた。慶安3(1867)年記の作刀に七十七歳と添記したものがあり、かなりの長寿。「筑州柳川住鬼塚吉国」「筑州住鬼塚吉国」等の銘を切る。2代は寛文頃に活躍した人物で、「筑後久留米住鬼塚吉国」「筑後国住鬼塚藤原吉国」等の銘を切る。本資料は、反りの少なさ、「筑州久留米住鬼塚吉国」という銘等から、おそらく2代の作と考えられる。
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17 佐野栄・佐野雅子資料  日露戦争に軍医として従軍した経歴をもち、三瀦郡城島町で開業していた寄贈者の祖父(明治9〈1876〉年生まれ)ゆかりと思われる資料。詳しい標題はないが、描かれている将校の氏名と階級から日清戦争(明治27年~28年)における旅順口の戦闘(明治27年11月)の様子を描いた図であることが分かる。制作者・制作時期・用途などは不明だが、城島町の寄贈者宅に保管されていた。幅4m以上の大画面1対の上部には乳が付いており、幕のように掛けて鑑賞したと思われるが、使用による痛みはほとんど見られず、実際に使用した回数は少なかったと考えられる。 1 2
18 松尾和生資料  昭和39(1964)年に発売されたトランジスタを使ったソニー製の小型白黒テレビ(micro TV 5-206)。寄贈者は昭和40年に購入し、キャンプなど戸外でのレジャーで自家用車から電源をとって活用していた。箱、電源コードなども揃っており、現在でも使用可能な状態である。先端技術であったトランジスタを使用した初期のテレビであると同時に、テレビやラジオが、一家に1台から1人1台に、また、携帯できるようになっていく方向をしめす資料の一つとしても興味深い。 1 1
19 小西薫資料(追加分)  将校であった寄贈者の父が入手したと思われる非売品の写真帳『昭和七年満州事変上海派遣軍記念写真帖』(陸軍恤兵部 昭和7〈1932〉年12月20日発行)。寄贈者宅に保管されていた。「巻頭の辞」から、上海に派遣された将校に記念品として配られた写真帳であることが分かる。写真帳のなかには、昭和40年代頃のものと思われる東京の絵はがきが33点貼付されている。昭和7年の第1次上海事変には、混成第24旅団(久留米第12師団の第24旅団が基幹)として歩兵第24連隊(福岡)も派遣された。「肉弾三勇士」として有名な軍国美談は、この混成第24旅団の工兵の爆死事件がもとになった。 1 1
20 宮徹男資料(追加分)  昭和59年度、63年度、平成9年度、10年度、14年度収集の追加分である。福岡県発行、松屋百貨点提供の「福岡県国民精神総動員綱要」。国民精神総動員運動は、昭和12(1937)年9月に始まり、昭和15年10月発足の大政翼賛会へと引き継がれていった。松屋百貨店は、明治44(1911)年創業の呉服店が前身である。百貨店は、昭和9年に現在の天神4丁目に竣工し、当時、西日本初のエスカレーターが話題になった。 1 1
21 松尾修資料  明治中期から昭和20(1945)年まで日本陸軍に置かれていた憲兵隊の軍人をかたどった博多人形。寄贈者の父博氏が昭和57(1982)年に購入したもの。博多人形師亀田均の製作で、憲兵隊に所属していた軍人で結成された憲友会が依頼したものと思われる。購入した時の箱に梱包されたままの状態で、博多浦崎人形店からの送り状が同梱されている。 1 1
22 博多祇園山笠振興会資料  昭和時代に博多で制作された、博多祇園山笠の舁き山の台・棒一式。博多祇園山笠は、明治期の電線の架設によって、舁き山と飾り山に分化した。飾り山は本来の高さを誇るものの、それを動かすことはなく、据え物である。舁き山は、飾りを簡素化し高さを低くし、現代の都市事情に併せたものである。この台は、平成16(2004)年9月21日に博多祇園山笠振興会結成50周年記念事業として行った「上海公演」で舁き山として使用され、同年11月22日から開催された第59回国際青年会議所世界会議福岡大会の会場でも展示された。
 現在の博多祇園山笠は、七流によって山台の構造は少しずつ異なる。当資料は複数の流のものを組み合わせたものであるが、昭和時代の博多祇園山笠を代表できる資料である。
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23 福助株式会社資料(追加分)  平成2年度寄託の寄贈への切り替え。寄贈者は明治33(1900)年に「福助」を福助足袋の商標として登録していた。大正期に入ると宣伝広告に力を入れるようになり、大正9(1920)年に初めて商標人形としての福助人形の製作を博多人形師に依頼した。この人形は、その時の作品と同じタイプのもので、商標人形としての福助人形の初期の作品ということができる。同じ大正9年福助足袋は福岡市行町に、九州一円を統括する出張所を設置。同12年には東中州に広告塔を建設した。 1 1

【寄託】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 貝島忠夫資料  福岡市南区高宮の貝島邸を飾った障壁画の一部。「白鷺に燕子花図杉戸」に「昭和二年十二月 泰生」と落款があり、福岡出身で帝展などで活躍した日本画家水上泰生(1877~1951)が貝島家より依頼されて制作したものとわかる。「蝶図戸袋小襖」には年紀銘はないが、同じ時期に水上泰生が制作したと判断される。貝島家関係資料としては、松永冠山(1894~1965)が松、四季の竹、睡蓮などを描いた杉戸絵群(旧友泉亭障壁画・福岡市博物館所蔵)もあり、同家と郷土の日本画家たちとの交流を物語る資料である。 2 7
2 川嵜隆司資料  昭和46(1971)年、雑誌社の取材を兼ね「日本漫画家協会」として博多どんたくに参加した漫画家たちによる漫画寄書屏風2隻である。
 宴席の設けられた料亭「かわさき」が準備した屏風に、参加者20人ほどのうち15人が寄せ書きをしたもので、6曲屏風には牧野玄一、やなせたかし、手塚治虫、清水崑、鈴木義司、永井保、小島功、小川哲男、桜井勇、馬場のぼる、山下紀一郎、中村伸助、冨田英三が、2曲屏風には杉浦幸雄、清水崑、松下井知夫が絵を寄せている。
 多くの人気漫画家が絵を寄せた屏風としての希少性とともに、どんたくというイベントが全国的な知名度を上げていった過程を具体的に示す資料としても貴重である。
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3 崇福寺資料  文殊菩薩像の台座であったとみられる木造の獅子。崇福寺には南北朝時代の正平17(1362)年に仏師院什によって制作された釈迦三尊像が伝来しているが、作風や大きさから本像はその脇侍文殊菩薩像のものであったとみられる。院什は14世紀中頃に臨済宗寺院を中心に活動した院派に属する仏師とみられ、崇福寺釈迦三尊像は釈迦像胎内銘から、もと周防・永興禅寺の仏像として大内弘世を檀那として制作されたことがわかる。崇福寺に移された正確な時期は不明だが、『筑前国続風土記附録』には黒田長政が崇福寺を黒田家の菩提寺とするにあたって周防・永興寺の窮乏を聞き、その堂宇を引き取ったことが記されている。崇福寺釈迦三尊像の附として昭和59(1984)年福岡市有形文化財指定。 1 1
4 吉永千香子資料  兜をかぶり、右手に戟、左手に宝塔を持つ大型の毘沙門天像。構造は頭体の体幹部をヒノキの1材から彫出し、背面肩下を前後に割り矧ぎ、内刳りを施す一木割り矧ぎ造。ゆったりと腰を捻るボリューム豊かな体躯表現や甲の形式などから、平安時代後期に制作されたとみられる。本像は昭和初期から福岡市東区原田の個人宅に安置されていたが、それ以前の所在は不明である。ただ、大分県日田市永興寺の文治3(1187)年銘の毘沙門天像などに像容が近く、また甲の金鎖甲の文様を彫刻であらわすなど、福岡周辺に残る平安後期の神将形像作例に共通する表現が認められることから、当地で制作された可能性は高い。昭和55(1980)年福岡市有形文化財指定。 1 1

【購入】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 桐山家文書  旧福岡藩士桐山家に伝来した古文書群。
 桐山家は播州以来黒田家に仕えている大譜代。初代丹波丹斎は職隆・孝高・長政・忠之の4代にわたって仕え、黒田二十四騎の一人に数えられている。丹斎は長政の筑前入国後、中老として6,000石を与えられ、山家宿の代官を勤め、在任中は毛利但馬と協力して冷水峠の開通等に尽力した。しかし、丹斎以降は分知され、600~200石で数家が分立し、明治維新を迎えた。
 古文書は大まかに、近世初期知行、近世中後期藩政・知行、幕末京都探索書、明治期三池炭拡絵図、修猷館、崇福寺関係に分類できる。近世初期に関しては、『福岡県史 近世史料編 福岡藩初期(上)』に収録されているが、それ以外では、大坂城築城関係文書や慶長5(1600)年9月19日長政宛徳川家康感状を解説した文書等が注目される。
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2 大坂津嶋屋文書  大坂における福岡藩の本陣「津嶋屋」に関する古文書群。
 津嶋屋が参勤交代ごとに作成した帳簿類で、(1)道割帳、(2)同行藩士の名簿、(3)人馬継立帳、(4)下宿割帳、からなる。(1)は宿泊場所と移動距離を算出した参勤交代日程表、(3)は藩士一人一人に必要な人馬の数及びその費用を計算したもの、(4)は各藩士の宿泊場所を割り振って一覧にしたもの、である。時代は文化7(1810)年から元治元(1864)年(10代藩主斉清から12代長知)までほぼ欠けることなく残っている。特に長知の数度の上京や同夫人の帰国があった文久期の記録が多い。時折、公家の家臣や他藩関係の記録も見られるが、9割以上は福岡藩に関する記録である。(1)~(4)以外では、津嶋屋から藩士への進物の記録や、長知夫人の上方での寺社参詣記録、また、珍しいところでは「黒田二十四騎配置図」もある。
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開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
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(入館は19時30分まで)
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