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No.003

黒田記念室

「貝原益軒」-筑前の学問と文化1-

平成2年11月20日(火)~12月24日(月)

「貝原益軒(かいばらえきけん)」について

 貝原益軒(かいばらえきけん)は江戸時代の福岡に生きた学者です。彼が活躍したのは、17世紀末から18世紀初めの寛文~元禄の時代で、ようやく社会の秩序も定まり経済が発展をとげ、京都や大阪を中心にさまぎまな学問や文化が生れました。その中で、儒学ばかりでなく、本草(ほんぞう)学、医学、歴史や地理にまで業績を残したのが益軒でした。彼は福岡生れですが若いころ長崎で学び、福岡藩に仕えた後も京都で学びました。彼の学問は、中国から入った知識をもとに、自分の調査研究や体験とあわせての、事実に即したもので、 社会の役に立つ学問をめざしたものといえます。そのため彼の著書は旅行記や教訓物にまで及んでいます。また彼は朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)と交流する機会ももち、西洋の知識も取り入れようと努力しました。この様な彼の学問の方向は、元禄時代の社会の精神を反映したものです。しかし、彼は社会の激しい動きの中でおこる矛盾をみつめることも忘れませんでした。

 以上の様な益軒の学問の業績と、その生きた社会を、この展示では紹介していきます。おもな項目は、(1)益軒の業績、(2)元禄時代と筑前の学者達、(3)藩政と益軒の学問、(4)益軒と旅、(5)益軒と海外の世界、です。

貝原益軒像(複製)
貝原益軒像(複製)

年表

寛永7(1630)年福岡で生れる。
慶安元(1648)年福岡藩主黒田忠之(くろだただゆき)に仕えるが2年後に浪人する。
明暦2(1656)年福岡藩主黒田光之(くろだみつゆき)に仕える。
明麿3(1657)年京都で木下順庵(きのしたじゅんあん)、山崎闇斎(やまざきあんさい)に学ぶ。
万治3(1660)年初めて「小学(しょうがく)」を講じる。
寛文11(1671)年「黒田家譜(くろだかふ)」編纂の命を受ける。
天和2(1682)年筑前藍島(ちくぜんあいのしま)で朝鮮通信使の応接を命じられる。
元禄元(1688)年「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」編纂の許可を得る。
元禄8(1695)年宮崎安貞「農業全書(のうぎょうぜんしょ)」。
元禄16(1703)年「筑前国続風土記」なる。
宝永6(1709)年「大和本草(やまとほんぞう)」なる。
正徳2(1712)年「養生訓(ようじょうくん)」なる。
正徳4(1714)年「大疑録(たいぎろく)」なる。8月27日に没す。

作品解説

貝原益軒像(かいばらえきけんぞう) 狩野昌運(かのうしょううん)作(複製)

 本画は益軒が65才の画像で彼の自讃がある。狩野昌運は江戸の中橋狩野派の絵師で、晩年は福岡藩にも仕えた。「益」の字の下は、もとは「損」とあった。これは彼がはじめ損軒と号し、晩年から益軒と改め書直したため。


黒田家譜
黒田家譜

黒田家譜(くろだかふ)

 初代福岡藩主黒田長政(くろだながまさ)とその父孝高(よしたか)(如水)の業績を述べた伝記。益軒は若い時から歴史を学び、黒田氏関係の資料を集めており、藩から編纂の命令のおりた翌年の寛文12(1672)年には一応の草稿を完成させている。


筑前国続風土記
筑前国続風土記

筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)

 益軒とおいの貝原好古(よしふる)が元禄元(1688)年から16年かけて完成した江戸時代の筑前国の地誌。藩による編纂の許可の後益軒は好古とともに数年間をかけて領内の諸郡をまわり、資料を集めた。


農業全量
農業全書

農業全書(のうぎょうぜんしょ)

 宮崎安貞(みやざきやすさだ)が中国の「農政全書(のうせいぜんしょ)」をもとに自らの見聞や農業実践を加えて完成させた農書。安貞は現在の福岡市女原に住んで、貝原益軒兄弟に、中国農書の学習や作物栽培などで協力を得たといわれる。

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
7月22日から8月27日のうちの金・土・日ならびに8月14日、15日は午後8時まで開館(入場は午後7時30分まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
8月14日、15日は開館、8月16日は休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
pressrelease

Facata(博物館だより)

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