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No.087

黒田記念室

戦国時代の博多展-戸次道雪と立花城-

平成7年11月14日(火)~平成8年1月15日(月)

図1 戸次道雪画像(部分)
図1 戸次道雪画像(部分)
図2 立花城古図
図2 立花城古図
戸次道雪関係略系図

 この展示では、戦国動乱の中、博多を守るために活躍した一人の武将を紹介します。

 戦国時代の博多は、ポルトガル人宣教師が「日本でもっとも人口が多く富裕な市(まち)の一つ」(『フロイス日本史』)と評したように、当時の日本を代表する貿易都市・自治都市として繁栄しました。しかし、そのために各地の戦国武将たちの争奪の的となり、度々戦乱に巻き込まれることになります。

 この戦乱から博多を守るために尽力した人物が、今回紹介する戸次道雪(べっきどうせつ)(図1)です。

1 “戦国武将”戸次道雪

 道雪は、永正(えいしょう)13年(1516)、豊後(ぶんご)国大野(おおの)郡鎧岳(よろいだけ)城の戸次親家(ちかいえ)の嫡男として誕生します。幼名を八幡丸、元服して鑑連(あきつら)と名乗ります。「道雪」は天正(てんしょう)3年(1575)に出家した後の号です。戸次氏は大友(おおども)氏の庶流で、道雪は永禄(えいろく)4年(1561)大友氏の加判衆(かはんしゅう)(年寄(としより))に列なり、筑後(ちくご)の方分(地域ごとの統治責任者)を務めるなど、大友義鎮(おおどもよししげ)(宗麟(そうりん))の重臣として活躍します。道雪は下剋上(げこくじょう)の世にありながら、終生大友氏への忠節を貫いた信義の人でありました。この人柄は、大友家中の動揺を憂えて叱咤激励した「檄文(げきぶん)」によく表れています。

2 立花城督

 道雪は元亀(げんき)2年(1571)に加判衆を辞し、立花城督(たちばなじょうとく)として筑前に赴きます(図3)。立花城(図2・4)は、博多の北東約10kmに位置し、福岡平野・博多港を一望のもとに見渡すことができます。地理的に筑前・博多を治めるには絶好の政治的・軍事的拠点であったのです。この城は、南北朝(なんぼくちょう)時代、大友氏6代貞宗(さだむね)の息貞載(さだとし)が築城したと伝えられますが、筑前北部の要衝であったため、しばしば大内(おおうち)氏との間で争奪戦が繰り広げられました。

 下って永禄(えいろく)10~12年(1567~1569)には、大友氏と中国地方の毛利(もうり)氏の間で立花城等をめぐって激しい戦いが展開され、博多方面でも合戦が行われました。この時道雪は、前線の指揮官として大友軍を率いて奮戦しました。戦乱は、毛利氏の撤退によって決着しますが、その後も筑前国内は毛利氏を頼む反大友勢力が割拠する状況でした。そこで、宗麟は臨戦体制を整えるために、信頼のおける道雪に立花城を委ねたのでした。

3 道雪と博多

 大友氏は、代官を派遣して博多を治めていました。東西2つの行政区画に分け、それぞれに東分役職(ひがしぶんやくしょく)(代官)・西分役職を置きました。この下に町衆(まちしゅう)による自治組織があり東西の「月役(つきやく)」と呼ばれる代表者によって運営されたのです(図5)。 その名称から、町衆が月毎に輪番で役目を務めたと考えられます。

 ところが、天正(てんしょう)6年(1578)11月大友氏の支配が困難になる大事件が起きます。大友氏は日向(ひゅうが)国で薩摩(さつま)の島津(しまづ)氏と戦いますが、大敗北を喫し、この混乱に乗じて多くの武将が大友氏に反旗を翻しました。肥前(ひぜん)の龍造寺(りゅうぞうじ)氏が山越えして早良(さわら)平野に攻め込み、その他、原田(はらだ)・秋月(あきづき)・宗像(むなかた)氏等が各地で蜂起します。

 この危機的状況に対し道雪は、 立花城に拠って博多周辺の大友軍をまとめ、敵対勢力に対抗しました。大友氏の指揮が及ばなくなったため、道雪は博多へ家臣を派遣して、大友氏に代わって統治するようになります(図5・図6)。また、近隣の筥崎宮(はこざきぐう)には禁制(きんせい)を発し、戦乱からの防衛に努めました。

図3 戸次鑑連書状 図4 立花城の軒丸瓦
図3 戸次鑑連書状 図4 立花城の軒丸瓦
図5 博多西分月役書状 図6 戸次道雪・立花統虎連署書状
図5 博多西分月役書状 図6 戸次道雪・立花統虎連署書状

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
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Facata(博物館だより)

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