平成8年3月26日(火)~5月26日(日)
1、合子形兜 |
3、大水牛脇立兜 |
7、大小字頭立置手拭形兜 |
13、六十ニ間星突貝形兜 |
変わり兜展について
戦国時代の中頃から安土(あづち)・桃山(ももやま)、江戸時代の初めにかけて、鉄砲や槍などの武器や戦術(せんじゅつ)の発展にあわせて、当世具足(とうせいぐそく)とよばれる実戦(じっせん)的な甲冑が出現しました。これらの中には奇抜(きばつ)で大胆(だいたん)な作りのものが多く、特に兜には今日にも通用する斬新なデザインやかたちを持ったものが少なくありません。それは、この時代の激しい移り変わりの中で生きた、武将や武士の強い個性(こせい)や信条(しんじょう)を反映しているといわれ同時に甲冑を作った人々の高い技術をも物語っているといえましょう。
本展示では、本館の収蔵品の中から、福岡藩主黒田(くろだ)氏や家老三奈木(みなぎ)黒田氏、福岡藩あるいは近隣(きんりん)の諸藩の家臣に伝来した変わり兜、あるいは兜を飾ったさまざまな立物(たてもの)を展示し、この時代の社会と文化の一面を紹介します。
兜の歴史と変わり兜
兜は、頭に被(かぶ)る鉄製の鉢(はち)、鉢の前面に付けて額を守る眉庇(まびさし)、横や後に付けて首筋(くびすじ)を守る錣(しころ)などからなり、鉢には立物(たてもの)という飾りが付けられました。立物は鉢に付ける場所によって、前立(まえたて)(鉢の前)、脇立(わきたて)(鉢の左右)、後立(うしろだて)(鉢の後ろ)、頭立(ずだて)(鉢の上)などがあります。
兜の鉢は、はじめ平安・鎌倉時代の星兜(ほしかぶと)(鉄板を留(と)める鋲(びょう)を星と呼ぶ)、南北朝、室町(むろまち)時代の兜(鉄板を矧(は)ぎ合わせた筋が特徴)など、何十もの細い鉄板をつないで作るものが中心でした。また立物も大将が鍬形(くわがた)の前立をするぐらいで、一般の武士は付けませんでした。しかし室町時代の中頃(戦国時代)までには、集団戦の中で自分を誇示(こじ)したり、敵味方を見分けるため、三ツ鍬形や日、月の前立、小旗の頭立が現れました。さらに戦国時代の終わりから安土・桃山時代には、大規模でたえまない合戦にあわせて、大量生産が可能な兜が作られました。これは3~4枚の鉄板を張り合わせるもので当世(とうせい)兜といわれ、頭形(ずなり)、桃形(ももなり)が有名です。それらの兜には、前立だけでなく、脇立、後立、頭立など大胆なデザインの立物が付けられました。また紙や革(かわ)、木、漆等でいろいろな形を作り、立物としたり、鉢全体に取付けたりする張懸(はりかけ)の手法(しゅほう)の変(か)わり兜や、鉢自体の形を鉄で特別な形に作る打出しの手法の変わり兜も現れました。
安土・桃山時代は、一般に頭形兜にシンプルで大胆な立物を付けた変わり兜が有名です。これは実戦で使用されたためでしょう。江戸時代に入っても変わり兜は作り続けられます。技術的には細かで巧妙(こうみょう)なものができましたが、やはり太平の世を反映して装飾的なものが多いといわれます。
福岡藩の変わり兜
福岡藩の藩祖黒田如水(くろだじょすい)(1546~1604)と初代藩主黒田長政(ながまさ)(1568~1623)は幡磨国姫路(はりまのくにひめじ)(現兵庫県)から身をおこし、信長(のぶなが)、秀吉(ひでよし)、家康(いえやす)などの天下人(てんかびと)に任(つか)えて大名となった、安土(あづち)・桃山(ももやま)時代の代表的な武将です。そのため、この時代にふさわしい、多くの変わり兜を持っていることで有名です。如水の兜は合子(ごうす)(湯呑み)を逆さにした形で、戦場では「赤合子」 と呼ばれて恐れられたと言われます。長政は、初め家臣から献上された、黒田氏の祖佐々木源氏伝来とされる大水牛脇立(だいすいぎゅうわきたて)兜を着用しましたが、後にそれを同僚の大名福島正則(ふくしままさのり)の一(いち)の谷形(たになり)兜と、不仲の仲直りのあかしとして交換しました。関ケ原の戦いでは、長政は家康に味方(みかた)した礼に歯朶前立(しだまえたて)の南蛮兜(なんばんかぶと)を拝領(はいりょう)しました。またこの合戦では一の谷形兜を着用しています。晩年、京都大徳寺(だいとくじ)の僧春屋宗園(しゅんおくそうえん)に帰依(きえ)し、宗園の帽子(もうす)を模した兜を作らせましたが、実戦には使っていません。如水、長政の家臣も、変わり兜で有名ですが、その一人黒田一成(かずなり)(三奈木(みなぎ)黒田氏)の銀中刳大立物脇立(ぎんなかぐりおおたてものわきたて)の頭形(ずなり)兜は、関ケ原に先立つ岐阜合渡(ぎふごうど)川の合戦で、あまりの大きさに目立ちすぎ、遠くから敵に鉄砲でねらわれたと伝えられます。