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No.101

歴史展示室

戦国時代の博多展2-都市の防衛・房州堀-

平成8年9月3日(火)~11月4日(月)

図1 房州掘(下)と御笠川(右)(福博惣絵図より)
図1 房州掘(下)と御笠川(右)(福博惣絵図より)

 かつて博多(はかた)の南辺には「房州堀(ぼうしゅうぼり)」 と呼ばれる堀が存在しました(図1)『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』によると、「南の方の外郭に、検二十間余の堀の跡ありて、瓦町(かわらまち)の西南のすみより、辻堂(つじのどう)の東に至る。是南方の要害の固なり。其土堤今もあり。此堀を房州堀と号す。臼杵安房守鑑(うすきあわのかみあき)つぐといひし人ほらせたる放なりといふ」と記されています。戦国時代後半に九州の大半を支配した大友(おおども)氏の家臣臼杵氏が博多を防衛するために構築したものです。しかし、当時の大友氏の家臣に「臼杵安房守鑑つぐ」という人物は存在しません。また、本書では築造時期を元亀天正(げんきてんしょう)(1570~92)年間、あるいは、大内(おおうち)氏の支配時期に築かれたものを臼杵氏が修補したものではと推定しますが、確かな時期は分かりません。

 そこで、本展示では、近年行われた発掘調査を紹介し、戦国時代の博多と大友氏との関わりを考えながら、房州堀の謎を解き明かしていきます。

1 描かれた房州堀

 房州掘に関する戦国時代の史料は全く見当たりません。しかし、江戸時代に作成された絵図や地誌によってその姿を知ることができます。正保(しょうほう)3(1646)年の福博惣絵図(ふくはくそうえず)(図1) では町の南縁に「から堀」として描かれています。明治(めいじ)22(1889)年に開設された九州鉄道の停車場(旧博多駅)が置かれると、開発により次第に破壊されその姿を消すことになりました。

図5 房州掘発掘風景
図5 房州掘発掘風景

2 房州堀の発掘調査

 昭和59(1984)年4月、地下鉄工事に伴う調査で、初めて房州堀を検出しました(図5)。堀は逆台形で、幅6m以上、深さは確認面から1mの規模です。掘の中からは中世末から近世初頭にかけての遺物が出土しました。次いで、平成元(1989)年10月に行われた房州堀推定地内における調査では、堀内部の堆積状況を確認でき、『筑前国続風土記』に明暦(めいれき)(1655~8)年間に堀が耕地化したとする記述を裏付けました。

3 房州堀開削以前の博多

 房州堀が築かれる以前の博多の地形は、現在と大きく異なっていました。聖福寺古図(しょうふくじこず)から、博多の東側に松林が広がり箱崎地区と地続きであったことが分かります。『筑前国統風土記』によれば、両地区が現在のように御笠(みかさ)川(石堂(いしどう)川)で分断されたのも房州堀築造と同時に行われたとされます。それまで博多の南側を流れていた比恵(ひえ)川を真っ直ぐに北流させ、代わりに房州堀を築いたというのです。これによって、博多は北を海、東西を川、南を房州掘で囲まれた防御性の高い都市へと変貌を遂げることになりました。

4 大友氏と博多

 それでは、戦国時代に「臼杵鑑つぐ」が房州堀を築いたとする『筑前国統風土記』の記述は何を意味するのでしょうか。築造を示す当時の史料はありませんから、その頃の博多をめぐる政治状況から考えなければなりません。

 臼杵一族に房州堀の名称の由来となった「安房守」を称する人物がいます。大友氏の重臣臼杵安房守鑑続(あきつぐ)(?~1561・2・15没)です。しかも読みはともに「アキツグ」と共通しています。鑑続は、16世紀中頃、大友義鑑(よしあき)・義鎮(よししげ)(後の宗麟(そうりん))父子2代にわたって奉行人(ぶぎょうにん)(加判衆(かはんしゅう))を務めました。従来、鑑続は柑子岳城(こうじだけじょう)(福岡市西区今津)に在城して志摩郡代(しまぐんだい)を務めたと言われ、房州堀を築いたのも鑑続ではないかと推測されてきました。しかし、彼の活動時期には一族の臼杵親連(ちかつら)、次いで鎮(しげ)つぐが志摩郡代を務めており、鑑続自身は大友氏当主の許で国政を運営する地位にありましたので、彼が志摩郡代を務めたことはありません。すなわち、鑑続は豊後府内(ぶんごふない)にいて、志摩郡代(兼柑子岳城督(じょうとく))として在国する親連・鎮つぐ等を指揮し志摩郡の支配にあたっていたのです。さらに当時、大友氏の領する博多は志摩郡代の配下にあった博多代官によって治められていたことが分かります(図2)。すなわち、大友氏-臼杵氏(加判衆)-志摩郡代-博多代官という系列で大友氏の博多支配が進められていたのです(図3・4)。この頃、政治状況は大きく変動します。弘治(こうじ)3(1557)年、筑前の大半を支配していた大内氏が滅亡すると、大友氏はこの機に乗じて勢力を一気に拡大しようとし、それに抵抗する国衆(くにしゅう)との間で戦乱が激化しました。永禄(えいろく)2(1559)年には博多も筑紫(ちくし)氏の焼き討ちに遭います。同年末にようやく大友氏が戦乱を収めると戦国時代の博多に束の間の平和が訪れます。房州掘の築造は、河川の流路変更を伴うほどの大土木工事であったので、恐らく戦乱が鎮静したこの時に行われ、同時に焼亡した博多の復興もなされたと考えられます。鑑続の関与があったとすれば、下限は彼の没する永禄4年となります。永禄5年からは毛利氏が九州に進出し再び戦乱の時代へと入っていきます。

 『筑前国続風土記』の記載は、人名の錯綜はみられるものの、築造時期の大友氏の博多支配の在り方を色濃く反映したものでした。房州掘は、この支配組織を通して築造されたと考えられます。

(堀本 一繁)

図2 臼杵親連書状写 図3 大友氏加判衆連署書状
図2 臼杵親連書状写 図3 大友氏加判衆連署書状
図4 臼杵鑑続書状
図4 臼杵鑑続書状

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
7月22日から8月27日のうちの金・土・日ならびに8月14日、15日は午後8時まで開館(入場は午後7時30分まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
8月14日、15日は開館、8月16日は休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
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