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No.111

考古・民俗展示室

福岡考古学の先駆者たち2 中山平次郎(なかやまへいじろう)展

平成9年4月15日(火)~7月21日(月)

御床松原発見の貨泉
▲御床松原発見の貨泉

2-3 「中間期間」の研究

 中間期間の遺跡を求め続けるうち、糸島郡志摩町の御床松原(みとこまつばら)で中国王葬(おうもう)時代(西暦8~25年)の貨幣「貨泉(かせん)」を発見し、実年代を決める手がかりを得た平次郎は、同じ王葬時代の銅鏡(どうきょう)が過去に発見されていた春日市須玖岡本(すくおかもと)や前原市三雲南小路(みくもみなみしょうじ)の再調査などを行い、中間期間が紀元前後の年代であることをつきとめます。また、鉄や炭化米をも発見し、中間期間(弥生時代)には銅鉾・銅剣が使われ、貨泉や鉄器も存在しており、一部では稲作農耕が行われていたと述べるに至ります。この一連の研究は、早くに弥生時代の年代と文化の内容を洞察(どうさつ)した不朽(ふきゅう)の業績と評価されています。

2-4 今山遺跡と弥生式の二系統論

 西区の今山で多数の未完成石斧(せきふ)と原石の露頭(ろとう)を発見し、ここが磨製(ませい)石斧製作地であることをつきとめます。石斧製作に4つの工程が存在すること、石斧生産の専業的集団のいたことを指摘し、すでに金石併用期に分業制が芽生えていたことを示すなど、今日定説となっていることを鋭く指摘しています。

 また、今山遺跡と今津貝塚の石斧製作法の違いを民族の相違とし、さらに進めて弥生式土器に2つの系統があり、使用民族が異なっていたためとしましたが、その後の研究により、時期的に変化したものであることが明らかとなりました。

福岡城内採集瓦の拓本
▲福岡城内採集瓦の拓本

2-5 鴻臚館跡の発見

 江戸時代以来、鴻臚館は現在の博多部(官内(かんない)町=中呉服町付近)に位置したとされてきましたが、それを否定して現在の位置(福岡城内の鴻臚館跡展示館付近)に推定しました。万葉集(まんようしゅう)の歌の内容から、遥(はる)かに志賀島を、近くに荒津崎を望む海辺の山地にあったとし、福岡城内以外には該当する場所がないと考えます。当時城内は陸軍の兵営に占有されていましたが、ドンタクの2日間のみ解放されるのを狙って調査を行い、古代の瓦を採集して自説を確信します。昭和62年末の平和台野球場外野スタンドでの発見は、中山平次郎の名を一躍広めることになりました。

2-6 古代の博多

 福岡・博多の古代を4期に分け、中心地が那珂(なか)→三宅(みやけ)(那津官家(なのつのみやけ))→福岡(鴻臚館)→博多へ順次移ったと説きました。また、鎌倉~江戸時代の和歌に読まれた袖(そで)ノ湊(みなと)を平清盛が築いたと推定し、その位置を息(おき)の浜の南側(呉服町交差点付近)に推定しました。

 那津官家や袖ノ湊の位置など、現在とは見解を異にする部分もありますが、大筋においては今も支持されています。

2-7 元寇防塁の命名

 大正2年に実施された今津長浜の二ケ所での発掘調査の報告の中で、「石築地(いしついじ)」を「元寇防塁」へ改称するとともに、13世紀の海岸線を復元しました。しかし、発掘方法に対する批判なども起こり、以後発掘を好まなかったことに関係したのかも知れません。

 没後の昭和43、46、54年に発掘調査が行われ、防塁が国別分担に従い細かく区分けして築造されたことが分かるとともに、生(いき)の松原地区は肥後(ひご)国、今津地区は日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)2国の築造によることなどが判明しています。

(学芸員 吉武 学)

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