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No.136

歴史展示室

戦国時代の博多展3-博多焼打-

平成10年11月3日(火)~12月20日(日)

図7 龍造寺隆信画像(直垂姿)(史料12)
図7 龍造寺隆信画像(直垂姿)(史料12)

3 龍造寺隆信の九州席巻

 龍造寺氏は肥前国の在庁宮人高木氏の庶流で、鎌倉期には肥前国佐賀郡小津東郷龍造寺村の小地頭となり、龍造寺を称するようになりました。南北朝期には肥前の有力な国人として千葉(ちば)氏や少弐氏に属していましたが、次第に勢力を拡大し、龍造寺隆信(たかのぶ)(図1・7・8・10)の代に飛躍的な発展をとげます。隆信は当初大友氏に服属していましたが、大村理専(りせん)起請文(図11)のように肥前国内の国衆と起請文(きしょうもん)を交わして同盟関係を結びながら、着々とカを蓄えて行きました。隆信は天正6年(1578)末、大友氏が日向国において島津(しまづ)氏に大敗した間隙をぬって、わずかの期間で筑後・肥後を制圧し、背振山を越えて福岡平野にも進出しました。九州の勢力関係が龍造寺・大友・島津3氏による鼎立状態になるのは、これ以降の出来事です。


図10 龍造寺隆信所用の長巻(史料14)
図10 龍造寺隆信所用の長巻(史料14)
図9 龍造寺政家(前名鎮賢)画像(史料27)
図9 龍造寺政家(前名鎮賢)画像(史料27)
図8 龍造寺隆信画像(甲冑姿)(史料13)
図8 龍造寺隆信画像(甲冑姿)(史料13)
図11 キリシタン大名として有名な大村理専(俗名純忠)が龍造寺氏と同盟を結んだ起請文(史料17)
図11 キリシタン大名として有名な大村理専(俗名純忠)が龍造寺氏と同盟を結んだ起請文(史料17)

4 龍造寺氏の筑前進出と博多焼打

 龍造寺氏は天正7年、背振山を越えて筑前国に進出し、早良郡の安楽平(あらひら)城や那珂郡の鷲ヶ岳(わしがたけ)城を攻撃します。翌8年4月には鷲ヶ岳城を、7月に安楽平城を相次いで落城させました。博多にいた大友氏の代官は志摩郡の柑子岳(こうじたけ)城に避難しますが、龍造寺氏と結んだ原田氏に攻められ、柑子岳城も落城します。龍造寺氏は博多の周辺にあった大友氏の城を陥した後、博多を襲撃しました。フロイス『日本史』によると、

本年、日本でもっとも人口が多く富裕な市(まち)の1つであり、過ぐる年までつねに我らが司祭館を有していた筑前国の博多の市は、龍造寺が豊後に進撃して際にことごとく破壊され焼却され、蹂躙し尽くされ、市の痕跡すら留めぬ有り様であった。というのは、日本の家屋は木造なので、わずかな時間に火は燃え上がり、すべてが灰燼に帰したのである。それに混じって、我らも1つの立派な教会と、それに付随している家屋を失った。同時に我らは国主フランシスコ(大友宗麟)がまだ異教徒であった時に、そこの司祭館の扶養のためにと与えてくれた300クルザード以上の収入も失ってしまった。


図12 龍造寺氏が博多周辺に進出したことを示す龍造寺鎮賢書状(史料26)
図12 龍造寺氏が博多周辺に進出したことを示す龍造寺鎮賢書状(史料26)

龍造寺軍が博多に進撃し、博多のまちを焼き払ったことが記されています。これに関する国内側の文献は皆無に近い状態で、龍造寺隆信の嫡男鎮賢(しげとも)(後の政家(まさいえ)、図12)が出した書状がわずかに龍造寺軍の博多方面への進出を示すものです。大友軍の残党は立花城に集結し、城督の戸次道雪(べっきどうせつ)を中心として態勢を建て直し、天正9年からようやく本格的に反撃を開始します。戸次道雪は博多を回復しますが、龍造寺氏は天正15年の豊臣秀吉による九州平定まで福岡西部の早良郡や糸島半島に勢力を保ち続けました。

(堀本一繁)

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