平成11年11月30日(火)~平成12年2月6日(日)
(1)達磨像(戒壇院蔵)部分 |
宗七焼(そうしちやき)は江戸時代の中頃から幕末にかけて博多で作られた素焼物です。作者は瓦師出身の正木宗(まさきそう)(惣)七(しち)で、6代にわたって続いたといわれています。その作品は仏像のほか茶道具、香炉、面、床の間の置物などの高級品が多く、「柚肌錆地焼(ゆずはださびじやき)」と呼ばれる独特の技法を編み出し、しばしば福岡藩の御用も勤めました。
ところで宗七焼に関しては今日では作品が散逸し、その全体像を明らかにすることは困難になっています。ただ、わずかに残る作品からは驚くほどの精緻(せいち)さと酒脱(しゃだつ)な味わいが感じられ、博多が生んだ江戸時代の工芸品として改めて見直す必要があると思われます。そこで、今回は伝来や銘文などで作者や制作時期の特定される作品を中心に紹介し、その魅力と実像にせまっていきたいと思います。
(1)達磨像(だるまぞう) |
(戒壇院蔵) |
(1) 達磨像(だるまぞう)
太宰府市 戒壇院 像高44.3センチ 江戸時代(天明6年/1786) 正木堅茂(3代)
像内背面の陰刻銘により3代宗七が作り、博多崇福寺(そうふくじ)の徳隠(とくいん)和尚によって寄附されたことがわかります。正面を見据えた姿は堂々として迫力があります。胎土は灰色の瓦質で、着色は白色下地の上に施されています。
【像内背面陰刻銘】「西戒壇祖師堂達磨/圓覺大師尊像/博多津陶工正木宗七堅茂造/天明六年丙午閏十月初五日/古横岳徳隠薩和尚寄附/現住戒壇院太室玄照謹記」
(2)達磨像(だるまぞう) |
(光明寺蔵) |
(2) 達磨像(だるまぞう)
太宰府市 光明寺 像高43.8センチ 江戸時代(文政4年/1821) 正木幸弘(4代)
背面下部の押印と陰刻銘から4代宗七が作ったことがわかります。3代宗七の達磨に比べると力強きには欠けますが体各部のバランスが整い、衣の形状はより繊細になっています。胎土も瓦質ではなく暖色系の土を用いています。
【背面下部陰刻銘・押印】 「文政四年辛巳年三月廿五日/筑前博多陶焼師/太宰府/神護山光明蔵寺/現住仙巌代」「宗七」(長円印)「正木幸弘」(方印)
(3)達磨像(だるまぞう) |
(荘厳寺蔵) |
(3) 達磨像(だるまぞう)
東区 荘厳寺 像高14.6センチ 江戸時代(天保3年/1832) 正木幸弘(4代)
像底および付属の木製台に4代宗七が実叟(じっそう)和尚の代に寄附したことが墨書で記されています。胎土(たいど)や着色の仕方は光明寺の達磨像に共通します。底はハケ目で整えられ、空気抜きの円孔が設けられています。
【像底墨書銘・押印】「実叟代/為陶誉宗鈞嗣子宗七喜捨焉」「宗七」(長円印)
【木製台裏墨書銘】「天保壬辰之春/博多津瓦町陶師/宗七寄附焉/現住/実叟代」
(4)大心円願像(だいしんえんがんぞう) |
(祥勝院蔵) |
(4) 大心円願像(だいしんえんがんぞう)
博多区 祥勝院 (像高)39.3センチ 江戸時代(文政6年/1822) 正木幸弘(4代)
像内の陰刻銘から承天寺111世の大心円願和尚(1727~1813)の像として4代宗七が作ったことがわかります。像内には袈裟(けさ)が納められていますが、和尚の遺品かもしれません。4代宗七は天保10年(1839)に博多聖福寺(しょうふくじ)の仙厓(せんがい)和尚の像も作っています。
【像内背面陰刻銘】「文政6癸未年仲春/承天禅寺/大心和尚寿像/ハカタ/陶師宗七幸弘/作」
【背面下部押印】「宗七」(長方印)「正木幸弘」(方印)