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No.193

考古・民俗展示室

元岡の歴史展1

平成13年12月4日(火)~平成14年2月11日(月・祝)

はじめに


元岡遺跡群全景

 元岡(もとおか)・桑原(くわはら)地区は福岡市の西北端、糸島郡志摩(しま)町との境に位置しています。緑深い田園と山並みに囲まれた場所でしたが、九州大学の移転地に選ばれたことから、福岡市教育委員会による事前の発掘調査が行われることになりました。平成9年から本格化したこの発掘調査では、縄文時代から中世にかけてのさまざまな遺構・遺物が発見されました。縄文時代草創期の集落跡、古墳時代初め頃の前方後円墳、豊富な副葬品を持つ群集墳などは、この周辺では初めての発見で、多くの注目を集めました。
 多くの 新発見の中でも、最も大きな成果といえるのは奈良時代を中心とした古代(7~8世紀)の遺跡です。特に、木簡(もっかん)や墨書(ぼくしょ)土器など文字が書かれた資料の発見は、当時の様子を生き生きとよみがえらせてくれます。今回はさまざまな古代の出土資料を政(古代の地方行政)、祭(平安への祈り)、業(古代の官営工房)の3つの視点から見ていくことにします。


1、政(古代の地方行政)

 今年(2001)は日本で最初に整備された法律である大宝律令(たいほうりつりょう)が発布(はっぷ)されて(大宝元年・701)ちょうど1300年にあたります。この時中央・地方の役所も組織されました。中央には二官八省と呼ばれる官庁があり、その中には先頃まで名前が残っていた役所(大蔵省)もありました。地方には国-郡-里という行政区画に分けられました。元岡は当時は筑前(ちくぜん)国嶋(しま)郡に属していました。
 出土した木簡の中に「大宝元年」の年号が記されたものがあります。内容は税に関わるものらしく、大宝律令が発布後まもなく、奈良藤原(ふじわら)の都から遠く離れた西国の小郡にまで機能していたことがわかります。この時から始まった官僚制と文書主義は、良くも悪くも日本の政治を特長づけるものとして、現在まで影響を及ぼしていると言えるかも知れません。
 また木簡の中には「出挙(すいこ)」「計帳(けいちょう)」等と書かれたものもあります。出挙とは春に稲を貸し付け、秋の収穫から利息をつけて返済する制度です。また計帳とは課税の基本となる台帳のことです。これらの木簡からは重税にあえぐ庶民の声が聞こえるようです。


2、祭(平安への祈り)


解除木簡出土状況


舟形


製鉄炉

 元岡遺跡から出土した木簡に「凡人言事、解除法、進奉物者・・・(おおしひとのもうすこと、はらえののり、すすめたてまつるものは・ ・・)」ではじまる長文のものがあります。このあとには「人方(人形(ひとがた))七十七」「弓廿張」「赤玉百」等、品物名が列挙されています。これらの品物の中には脇に点が打たれた物があり、まるでチェックされたかのようです。この木簡は解除(祓(はらえ))という古代の 祭祀に関わるものと考えられます。当時の人は病気や不幸があると、汚(けが)れた物や禍々(まがまが)しいものが身に付着したと考えました。これらのものを人形などに移し、川などに流すと祓うことができ、再び清い身になると考えたのです。その祭りに用いる祭具を揃(そろ)えるリストだったのかもしれません。舟形や玉類など、実際にリストにあるものも出土しています。
 このほか、墨書土器の中にも「稲奉」「西祈」など、祭祀に関係すると思われる文字が見られます。


3、業(古代の官営工房)

 調査対象地区内の桑原石(いし)ヶ元(もと)12号 墳から、古墳時代後期(6世紀中頃)の鍛冶(かじ)道具セットが副葬品として出土しています。この点からも、この地域では鍛冶や製鉄に携わる人々がいたことを示唆しています。この技術は、朝鮮半島から伝わったものと考えられていますが、これを裏付けるように出土木簡の中に「壬辰年(みずのえたつのとし)韓鉄・・」と書かれたものがあります。この木簡に見られる「壬辰年」は持統(じとう)6年(692)にあたると考えられます。
 このころまでは鍛冶が主体であったようですが、奈良時代にはいると、海岸部の砂鉄を原料に、大規模な製鉄が始まります。
 深い谷に面して、強い風が吹く場所を選び、次々と製鉄炉が作られていきます。
 製鉄炉はまず、床面を焼き締めたり、炭を敷いたりして固め、その回りに壁を立て、長方形の箱形の炉を作ります。この炉の中に、砂鉄原料と木炭を入れ、高熱で溶かして鉄を作るのです。できた鉄を取り出すためには炉を壊さなければならないので、遺跡から見つかるのは壊れた炉壁の残骸と、床面の痕跡だけです。
 炉の短辺側には下端に穴をあけ、不純物(鉄滓(てっさい))を排出できるようにしています。また、長辺側には鞴 (ふいご) を据えて、風を送り込むための穴(鞴座(ふいござ))を設けている炉もありました。鞴は革などで作られるため、残念ながら残っていませんが、出土した炉壁の中には、鞴と炉をつないで風を送るための送風管を取りつける穴を持つものが見られます。
 この遺跡からは谷を埋め尽くすほどの鉄滓が出土しており、大量の鉄が生産されたことがわかります。これは元岡周辺の地方勢力が営んだものとは考えにくく、大宰府直轄の官営工房であった可能性が考えられます。北部九州は、都から離れた西国とはいえ、大和朝廷最大の外交問題であった半島(新羅(しらぎ))、大陸(唐(とう))に対する最前線でした。当然軍事的な緊張も高く、多量の武器生産が必要であったと考えられます。元岡の製鉄炉はその一翼をになっていたものでしょう。
(宮井善朗)

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