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No.196

黒田記念室

黒田二十四騎展2-新収蔵の二十四騎図紹介-

平成14年2月5日(火)~4月7日(日)

黒田二十四騎展2

  江戸時代の福岡藩の有名な武士といえば、筑前今様(ちくぜんいまよう)の黒田節(くろだぶし)に歌われた母里太兵衛(もりたへえ)をはじめとした黒田二十四騎(にじゅうよんき)の人々が先ずあげられます。この二十四騎とは、播州姫路(ばんしゅうひめじ)(今の兵庫県姫路市)の出身で、秀吉(ひでよし)に仕えた黒田如水(じょすい)や、その子で関ヶ原の合戦で徳川家康(とくがわいえやす)を勝利 に導き、筑前52万石の初代福岡藩主となった黒田長政(ながまさ)に、播州以来、一丸(いちがん)となって仕えてきた譜代の家臣を中心とした24人の活躍をとくにたたえて、顕彰したものです。この24人は黒田如水の弟が3人、如水時代からの3人の家老(井上(いのうえ)、栗山(くりやま)、母里(もり))のほか、歴戦の武将として有名な後藤又兵衛(ごとうまたべえ)、黒田一成(かずなり)(三奈木黒田(みなぎくろだ)氏)など長政から1万石以上を与えられた人々や、のちには行政家として活躍した菅正利(かんまさとし)、桐山丹斎(きりやまあきとき)、城作りの名人として福岡築城に携わった野口一成(のぐちかずなり)など、多士済済(さいさい)です。

黒田二十四騎の始まりと二十四騎図


黒田長政と黒田二十四騎図
(No23)


二十四臣之像
(黒田一成、No17)

 実際の歴史のなかでは、理想化された話とは違い、二十四騎の人々やその子孫にも、様々な物語がありました。たとえば小河信章(おごうのぶあき)など、文禄の役で戦病死した人も含まれ、黒田氏が歩んできた苦難の道がうかがえます。江戸時代にはいると、長政と仲違いをした後藤又兵衛は黒田家を離れ、大坂の陣で豊臣方の武将として戦死しました。2代藩主忠之(ただゆき)の時代には、寛永(かんえい)9~10(1632~3)年の黒田騒動の影響などで、栗山氏、井上氏など二十四騎では上位にいる家老級の家の子孫が黒田家を去っていきました。3代光之(みつゆき)時にも、家老を続けていた小河家などが、藩主の後継をめぐる事件で黒田家を出てゆきます。17世紀の終わりごろには、二十四騎のうち1万石以上は三奈木黒田家だけという状況でした。一方、忠之期の倉八十太夫(くらはしじゅうだゆう)、光之期の立花実山(たちばなじつざん)など、新しい家臣も多く登場し、藩主の側近として藩政を握り、力を振るいます。益軒編纂の「御家人由来記(ごけにんゆらいき)」などでは、元禄期の有力家臣119家の由緒が記して有りますが、必ずしも二十四騎の子孫だけとは限らなくなっています。 このような中で光之は、藩の立つよりどころを長政の家康に対する忠節にもとめ、自分の跡を継ぐ藩主や家臣の人々に知らしめるため、貝原益軒(かいばらえきけん)などに命じ、如水、長政の事蹟を記した「黒田家譜」などの歴史書を編纂しましました。また光之は如水・長政とともに、 関ヶ原合戦など徳川幕府が成立する際に活躍した、かつての有力家臣の略伝・「黒田家臣伝(かしんでん)」を益軒に編纂させています。全部で27人の家臣が上がっていますが、まだ後の二十四騎以外の人物もいました。これら実証的な態度で編纂する益軒の著作で、伝説的だったかつての家臣たちの功績も史実としてあきらかになりました。そして数合わせ的にも語呂のよい24人がえらばれ、だんだんと有名になったようです。しかも二十四騎を1枚の絵に勢揃(せいぞろ)いさせて描く二十四騎図が現れ、四代藩主綱政(つなまさ)に招かれた絵師狩野昌運(かのうしょううん)も二十四騎図を書きました。また享保(きょうほ)時代(1716~36)の二十四騎図の手本画(白描)も残っています。それらの図柄は、彼の有名な大水牛脇立(だいすいぎゅうわきたて)兜をかぶり、鎧に身を固め床机(しょうぎ)にすわった長政と黒田家の中白(なかじろ)の旗が描かれ、24人の家臣を従えるというもので、長政を1騎に数えて二十五騎といわれる場合もあります。しかし長政や24人の家臣が着ているのは、源平合戦風の大鎧で、兜は飾りがかろうじて安土(あづち)・桃山(ももやま)風なだけの、室町(むろまち)時代風の兜です。このように余り写実的な絵画ではなかったようです。
  18世紀前半享保時代の六代藩主継高(つぐたか)は、5代藩主宣政(のぶまさ)の従弟で、養子として黒田家を継ぎ、長政の時代の質朴な武士の姿を家臣の奉公の精神として求めました。そして元文(げんぶん)年間(1736~41)には、二十四騎の1人原伊予(はらいよ)の子孫原(大蔵(おおくら))種次(たねつぐ)が、継高の命で24の家臣(二十四臣)の略伝を編纂し、いわゆる二十四騎が正式に誕生しました。種次は二十四騎図も描いたといわれます。継高は藩財政難に苦しむ中、新しく入った主君として、従来からの家臣との間の一致団結の姿を二十四騎に見たのでしょうか。


黒田大明神と黒田二十四騎図

  その後、福岡藩では継高の後の藩主が短命で定まらず、徳川将軍の親戚一橋家(ひとつばしけ)から養子に入った8代斉隆(なりたか)がようやく天明(てんめい)2年(1782)暮れに家督を継ぎました。翌年、福岡藩の新たな隆盛を願ってか、かつて二十四騎の1人井上周防(すおう)が長政を祀っていた黒崎の長政神霊が、春日(かすが) (黒田)社として再興され、黒田大明神(だいみょうじん)の祭礼が大々的にはじまり、寛政(かんせい)6(1786)年秋には、前年に初めて江戸から帰ってきた斉隆がわざわざ参詣に出向くなどしました。斉隆の時代も永くはありませんでしたが、文武(ぶんぶ)の興隆(こうりゅう)に熱心な藩主でした。その後、この春日神社には黒田二十四騎もあわせて神として祭られ、参勤交代の際には、藩主や家臣が必ず参拝したといわれます。
 19世紀初めの文化年(1804~16)間には、10代藩主斉清(なりきよ)の命で実際に二十四騎の人々が使った甲冑や、残された肖像画の調査をもとに二十四騎図を書いた巻物ができ、本館にはその写の 「二十四臣(しん)之像」が残っています。また黒田家にはこれらの絵巻物の図柄を元にし、二十四騎1人1人を描いた画帖(がちょう)が残されました。さらに幕末には、二十四騎1人1人を藩の御用絵師尾形(おがた)氏が描いた24の肖像画が、藩によって春日神社に寄進されています。こ れは天保(てんぽう)年間に「二十四臣略」の編纂を家臣に命じるなどした11代藩主長溥(ながひろ)の時代のことです。これらの二十四騎図では、甲冑などは安土・桃山時代の当世風(とせいふう)兜と胴丸(どうまる)具足に 身を固めるなど初期の二十四騎図とくらべてはるかに実証的です。また長政は彼の大水牛脇立兜だけで象徴的に表現され、神としての性格がより強くなっています。このように二十四騎は、神である長政を助ける福岡藩の守護神として見られるようになりました。長溥も薩摩(さつま)の島津家から養子で黒田家を継いだ人でしたが、やはり藩祖の長政の武勲にあやかろうと、甲冑を模しています。


様々な二十四騎図

  こうして江戸時代の終わり頃には、二十四騎は開運の縁起ものとしてひろまり、武家だけでなく、上層の庶民にも知られるようになりました。幕末には、二十四騎図でも一般の求めに応じて、なるべく藩公認の図柄や描き方に似せて描かれた、藩の御用絵師の作品が残っています。また素人や他の絵師に真似られ、新しい二十四騎図が生まれました。また黒田大明神・二十四騎の版画も作られました。長政も描かれた旧来の二十四騎図(二十五騎図)も、在野の絵師によって描き継がれています。これらには一般受けする華やかさを求めて歌舞伎役者ふうに誇張されたものもあります。黒田家の家臣の間や、支藩秋月(あきづき)藩などでもは黒田二十四騎に関する興味は高く、由来を調べたり、図柄を記録したりすることもはやったようです。
(又野 誠)

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