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No.197

考古・民俗展示室

わたしの原風景

平成14年2月13日(水)~3月24日(日)

はじめに─原風景と記憶─


竹馬に乗る少年たち

 この「わたしの原風景」展を企画した担当者の心の中にはいつも、生まれ故郷の広く真っ青な空の風景が眠っています。それは自分の拠り所であり、また自らを振り返る起点となる風景です。
 原風景をとりあえず「意識に浮かぶ風景のなかで、その人のものの考え方に大きな影響を及ぼした(幼少時の)体験を思い起こさせるイメージ」としましょう。
 そこからは、原風景が常に古い記憶として存在していること、そしてそれが現在の自分と過去の自分とを取り結ぶイメージであるということがわかります。
 いろいろな人の原風景を聞いていくなかで、「ふるさとを大切にしたい」という言葉にぶつかりました。普段なら何気なく聞き逃すかもしれないこの言葉は、原風景が何者であるかを教えてくれるかもしれません。
 ふるさと、すなわち「『故郷』は、人々にとって始原の時間を体験した場所=空間であり、人は、しばしばノスタルジアの感情でおおって『故郷』を描き出す」(成田龍一『「故郷」という物語』)と言われます。ノスタルジックな物語としての原風景こそが、人々が選び取った自らの歴史の描き方なのです。
 原風景の語りは、その多くが「ふるさと」喪失に伴って形作られています。故郷を離れたものが想い描くふるさとの風景。郷土に住み続けるものが知る暮らしの変化。例えば日本の民俗学が、伝統的な生活文化喪失の危機とともに生み出されてきたのと同じように、それぞれの個人的な喪失の歴史が「なつかしみ」の感情とともに形づくられています。
 こうしたさまざまな原風景を集めてみると何が見えてくるだろう? はたしてそこに「ふるさと」はあるのだろうか? 今回は、故郷・福岡に生まれ育った人々が語る原風景をなぞりながら、この問いを考えてみたいと思います。


「わたし」たちの原風景

 それでは、戦前に少年期を過ごした3人の方々の語りに耳を傾けることにしましょう。


博多区古門戸町 石橋清助さん (大正14年生)
▼木煉瓦の道


石橋さんの生家 鳥羽屋
前の道は木煉瓦敷き

 思い出すのは、小学生のころの博多のようす。
 家の前の道路はすべて木煉瓦(もくれんが)敷きだった。木煉瓦は杉でできていて、確か厚さが7~8センチ、長さが10数センチほどだったように思う。それをアスファルトか何かで「テンプラ」にして処理していた。
 木煉瓦敷きの道はこま回しに最適だった。アスファルトのように硬くないし、危なくない。ラムネ玉、パッチ、こま、輪回しなどをして遊んでいた。山笠をかく時にも、木煉瓦は都合が良かった。
 しかし空襲の時に木煉瓦の道路は燃えた。終戦後の石炭や石油が不足していたころ、焼け残った木煉瓦をはがして燃料にしたため、木煉瓦はすっかり姿を消してしまった。
 家の前の道は幅が6メートルだった。狭い道は良い。今でも山笠が川端商店街のアーケードに入ると盛り上がるが、山笠をかく時には、狭い道と家々に囲まれて反響する声がないといけない。どんたくも同じで、昔は旦那(だんな)衆3、4人に芸妓(げいこ)さんを加えた7、8人組で夜遅くまであたりを流していた。三味線(しゃみせん)の音は狭い道でないと雰囲気がでない。芸自慢の旦那衆が皆に三味線を聞かせたくてやっていたのだから。


▼松原水汲み

 当時、車は少なかった。馬車・車力(しゃりき)の時代だった。
 家業であった酒造りの水も、東公園や生(いき)の松原(まつばら)から車力に乗せて運んでいた。松原水は良質で、大きな車力に、仕込みに使う大きな親桶をばらした材で作った高さ五尺(約150センチ)、二十石(約3600リットル)入りの大きな真四角の箱を載せて汲みにいった。東公園にはポンプがあって、午前に二往復、午後に二往復した。
 生の松原の水は、今の九大の宿舎のところにあった。小学校の頃、車力の後押しをしながらついていった。午前と午後に各一往復。仕込みの水は生の松原の水を使っていたのか、仕込み時期だけ行った。
 家には直径2メートルくらいの井戸があったが、仕込みには使わず、米を洗ったりするのに使っていた。


東区箱崎 古田鷹治さん (昭和2年生)
▼いちめんの菜の花

 春、箱崎の郊外に一歩出ると、そこはいちめんの菜の花だった。花を見るといえば、まずは菜の花だった。もちろん桜の花見もあったが、菜種見(なたねみ)という言葉があるくらいその印象は強い。菜種見は、家族、町内、組合などさまざまな集団でおこなわれた。年寄りや子どもでも歩いていける熊野権現(糟屋郡粕屋町内橋)に行ったり、少し遠出して伊野皇大神宮(糟屋郡久山町猪野)に行ったりした。
 菜種見に向かう道には、自分の背よりも高い菜種がずっと続いていた。あるとき菜種の中で蝶を捕まえると、年寄りから「どうして生き物を捕るか。放生せれ!」と怒られた。そしてそのあと放生会の話を聞かされた。
 真っ黒な煙の中に鮮やかに赤く燃え上がる菜殻火(ながらび)(カラシ焼き)も印象深い。カラシ植え、カラシ刈りの光景も毎年繰り返される風景だった。このような農作業の言葉の中ではナタネではなくカラシと言うものだった。


▼海戦記念日


箱崎浜 海戦記念日の模擬海戦

 5月27~28日は海戦記念日。27日は日露戦争の日本海海戦で日本がロシアに勝ったのを記念して海軍記念日とされていたが、箱崎のものは海戦記念日と言った。
 この日、箱崎沖では模擬海戦がおこなわれ、筥崎宮(はこざきぐう)に近郷近在から学生が集まってさまざまな競技大会が開かれた。相撲、柔道、剣道、リレーなど、いずれもレベルが高く、海戦記念日の選手というと一目置かれるものだった。
 日清戦争ころ生まれた箱崎の人たちから聞いたところでは、自分たちは日露戦争のころ箱崎小の生徒だったが、その時「家の中のざおついとった(浮き立つような、ざわざわとした気分だった)」という。自分たちもやはりそんな感じで、5月はまさに心が浮き立つような月だった。


東区志賀島 小林孝さん (昭和12年生)
▼浜で働く人々

 祖母が浜の近くに住んでおり、浜で働く人々を見て育った。
 地引き網では鰯がたくさんとれた。網を引く人々、リヤカーで魚を運ぶおばさんたち。多くの人が働いた。とれたイワシは加工してイリコとして出荷した。
 町内の運営費をまかなう鯛網には町内が総出で参加した。子どもたちも出て網を引き、町の費用を稼ぎ出した。
 冬場のボラ網は、まかせ網といった。ボラの群を船で囲んでとるのだが、群がやって来たことが知らせられると、今の消防より早いくらいに素早く船が出るものだった。この船には中学生くらいから乗って行ったし、船に乗れない人は浜で漁具の手入れをして待っていた。とにかく浜に顔を出すと金になるという漁だった。
 こうした漁には、山見という専門に魚の群を見つける人がいて、島の高台から見たり、浜を歩き回ったりして魚を探していた。群を見つけると、山見は着ていた着物を脱いで大きく振り、船元へと伝えた。
 浜は遊び場でもあった。内海側に小さな魚が多かったので、手拭(てぬぐ)いを持って行って魚をすくった。少し大きくなると魚釣りもした。
 冬場の浜では、ふんどしにドンザをはおった老人たちが、交代で番をしながら1日じゅう焚き火をしていた。流木を燃やす火で焼いた芋はおいしかった。寒い家よりもあちこちで焚き火にあたっている方が暖かかった。

▼共同風呂

  志賀(しか)には2軒の共同風呂があった。ほかに弘(ひろ)、勝馬(かつま)にも1軒ずつあった。男女が分かれていて、それぞれに20~30人ほども入れる湯船があった。風呂を共同持ちしている家では、月々金を出し、交代で風呂の番をした。よその人も入ることができたが、少々金を取っていた。
 風呂は、夕方から9~10時頃までわいていたので、みんなが集まり、長々と世間話をしていた。漁の話、神社の話など。年寄りから昔話も聞いたりした。共同風呂はまさにコミュニケーションの場だった。
 私が生まれたころにはすでに風呂はあった。戦争中には千人針を刺してもらうために風呂の前に女性が立っていたのを覚えている。また、正月の2日だけは朝風呂がわいたので、暗いうちから入りに行った。

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