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No.202

歴史展示室

学校

平成14年4月23日(火)~6月9日(日)

 明治5(1872)年8月3日(太陽暦9月5日)、日本の近代学校制度に関する最初の法令である学制(がくせい)が公布されました。学制は、前日に出された「学事奨励ニ関スル被仰出書(おうせいだされしょ)」と共に「必ズ邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」という国民皆学(こくみんかいがく)の精神を宣言したものです。学制では、大学・中学・小学の3種類の学校を設けました。そして、全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に分け、全国に5万3千以上の小学校を設置する計画を立てていました。これは、人口約600人に1小学校という、いささか現実離れした計画でした。しかし、学制以降、各地でたくさんの小学校が設立されたのは事実です。
 今回の展示では、誰もが最初に通う学校である小学校の歴史を、明治時代を中心にふり返ります。


小学校の成立


明治7年開校の妙楽寺
尋常小学校の蔵書印

 小学校の設置が本格化するのは学制以降ですが、それ以前にすでに小学校の開設は始まっていました。有名なのは京都の例です。明治2(1869)年のうちに市中に64の小学校が開校しています。また、木戸孝允(きどたかよし)や伊藤博文(いとうひろぶみ)も普通教育の普及の必要性を説いた意見書を発表しています。明治政府は、欧米の先進技術を学ぶための高等教育機関の整備を急ぎながら、初等教育を全国民に受けさせることも急務としていたのです。
 学校制度は、何度も改変がくり返されています。例えば、明治前半の小学校の編成だけとっても、明治5(1872)年の学制では下等4年と上等4年、明治13年の改正教育令のもとでは初等科3年・中等科3年・高等科2年、明治19年の小学校令では尋常(じんじょう)小学校4年・高等小学校4年というふうに、めまぐるしくかわっています。
 進級のしかたにも変化がありました。学制のもとでは下等小学8級に入学し、6ヶ月ごとに試験を受けて進級、下等小学1級の試験に合格して卒業するというシステムでしたが、明治18(1885)年に、公立小学校では1年ごとに進級する学年制がとられることになりました。
 学制以降、義務教育の制度化が図られてきましたが、明治19(1886)年の小学校令で、保護者には学齢児童に初等教育を受けさせる義務があることがはっきり述べられるに至りました。そして、明治33年には義務教育(尋常小学校4年間)の授業料が無償になり、さらに、明治40年には義務教育が6年間に延長され、尋常小学校が6年制になりました。
 日本では4月が入学式の季節です。しかし、明治時代、入学時期はまちまちでした。例えば、明治7(1874)年の小倉(こくら)県(明治9年に三潴(みずま)県と共に福岡県に合併)の小学校規則では、毎月1日と5のつく日に入学できることになっていました。もちろん、徐々に入学時期は限られていきます。まず、6ヶ月ごとに試験を受けて進級するという仕組みに合わせて、入学時期は年2回(春と秋、正月明けとお盆明けなど)になりました。その後明治10年代に、年1回=学年始めに限定されるようになったのです。小学校の学年始めが4月になるのは明治20年代のことです。これは、政府の会計年度が4月1日から3月31日までになったことが影響しています。福岡県の小学校の場合は、明治21年に学年を4月始まりにすることになりました。文部省が、4月始まりを明文化したのは、明治33年に小学校令が改正された時のことです。さらに、旧制高校や大学の入学時期が4月になるのは大正時代になってからのことのようです。こうした事情で、明治時代の卒業証書や修了証書の日付は必ずしも3月ではないのです。


小学校で学ぶ

 小学校での教育は、学校制度の始まりから、全国民が受けるべきものとされていました。しかし、日清戦争(1894~95)頃から急速に向上した就学率が9割を越えたのは、、義務教育の授業料無償になった後の明治35(1902)年のことでした。
 授業料無償化以前にも、小学校の就学率を向上させるために、さまざまな試みがなされました。男子に比べて低い女子の就学率を上げるために、生活のなかですぐに役に立つ裁縫を授業に加えることが、小学校教則などでも勧められました。
 また、授業時間や内容を必要最低限にした教育課程の設置が勧められた時期もありました。明治12(1879)年の教育令で初等教育を受けなければならない期間を16ヶ月以上としたように、極端に就学期間を限る方法も試みられました。これらは、経済的に子どもを長期間小学校へ通わせることが困難な家庭を念頭においた措置でした。
 明治12年の教育令では、小学校での授業内容を次のように定めています。 
1 「読書・習字・算術・地理・歴史・修身等ノ初歩」
2 それぞれの土地の状況に応じて「罫画・唱歌・体操」「物理・生理・博物等ノ大意」を加えることができる。
3 「殊ニ女子ノ為ニ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ」
 明治13年の改正された教育令では、やむを得ない場合は、1 のうち地理と歴史を省くことはできるとしています。明治後期に入ると、特に修身の重要性が強調されますが、所謂(いわゆる)「読み 書き そろばん」に修身を加えたものが、義務教育課程での必修科目であったといえます。


*『学制百年史』の統計から作成

小学校で教える

 さて、学校教育は学校という施設をつくっただけでは、機能しません。教員が必要です。特に、学制実施当初は、小学校の教員不足は深刻な問題でした。そのため、短期間での教員養成がはかられました。福岡の場合は、明治6(1873)年、藩校修猷館(はんこうしゅうじゅうかん)の跡地に学科取調所を設け、3ヶ月という短期間での教員養成が始まりました。この時期は、寺子屋の師匠などの知識人に小学校で教えるべき内容や教授方法を講習する方式がとられたのです。
 小学校の教員不足がある程度落ち着くと、師範学校を中心に本格的な教員養成が始まりました。その授業料が無償であるなど、教員養成は重要視され、優遇もされていましたが、師範学校の生徒には厳しい規律も求められていました。


福岡の学校

 福岡でも、学制以降、小学校の設置が始まりました。明治6年の福岡県の『学事年報』(『福岡県教育百年史』所収)によれば、明治6年6月までに40校余の小学校が設立されたとあります。まだ小倉(こくら)県、三潴(みずま)県があった時期なので、当時の福岡県の範囲はほぼ筑前(ちくぜん)のみで、630の小学区に分かれていました。630校という学制で掲げた設置目標にはほど遠い学校数ですが、さらに、明治6年6月に起きた新政反対一揆(筑前竹槍一揆)によって被害をうけたところが少なくなく、明治6年、筑前で無事存続した小学校は27校だけだったようです。学校が、政府が打ち出した開化政策の象徴とみなされたため、攻撃の対象の1つになったのです。ちなみに、同年、小倉県(豊前(ぶぜん))には490小学区に115校、三潴県(筑後(ちくご))には616小学区に83校の小学校がありました。
 長い歴史をもつ学校の中には、統合や分離をくり返している学校もあります。平成10年に博多小学校に統合された博多部の小学校などもその例です。統合や分離の都度、様々な学校の財産が受け渡されていきます。学校の備品は、多くの子どもたちが共同で使用するものであるため、消耗も激しく、長く保存されにくいものでもあります。しかし、博多小学校に統合される直前の奈良屋(ならや)小学校に、明治7(1874)年に妙楽(みょうらく)小学(妙楽寺小学校として開校した妙楽寺尋常小学校の蔵書印がある辞書が残されていました。百年以上前の備品が伝えられていたのは、非常に珍しい例といえるかもしれません。
(太田暁子)

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