平成14年10月29日(火)~12月23日(月・祝)
祈りをかたちにした板絵
女児拝み |
小絵馬は、とても個人的なことを願うものです。たとえば、「手足の病気を治してください」と願うときに、馬の絵では何のことやらわかりません。もちろん全知全能の神仏だったらわかるのかもしれませんが、奉納する人の気持ちでは伝わるだろうかと不安に思えるのはあたりまえでしょう。より具体的に自分の悪い手足を写した木形や絵で表現した方がいいという気持ちになります。また、「お願いするのに手ぶらもなんだから、ひとつ贈り物を持っていこう」という気持ちから、その神仏の好物を描いた板絵を供え、願いを聞き届けてもらおうとします。山の神に供えるオコゼの絵馬はこれにあたります。博多では、風邪直しの願掛けに現代でも用いられています。これは、人間社会の贈答の儀礼と同じです。
また、自分がどのくらい真剣に願っているかをかたちにすることもあります。自分が願っている姿を絵にした「拝み絵馬」がそれです。祈る人の年齢に応じて、画中の人物も変化してきます。祈願するのに「お百度詣り」という方法があります。神仏に百回もおなじ願をかけるのです。境内を行き来する人を見かけることも少なくなりましたが、実は今でも盛んなのです。人に知られないように、夜半に行われることが多いのも原因です。「拝み絵馬」は、この繰り返しの祈りを、奉納することによって自動化しているということもできるのです。絵馬がかかっている間、神仏に問い続けていることになるのです。社前の鈴や鳥居を描いたものも、おなじ意味を持っているということができるでしょう。
神仏にすがる
桃待ち猿 |
小絵馬を奉納する先は、神仏です。その超越的な力を期待するわけです。最も直接的なのは、願い奉る神仏そのものを描くことです。寺でいう本尊や神社でいう祭神です。合格祈願には、学問の神様である天神様を、縁結びには出雲にまします大国主を描いた絵馬などは人気です。弁慶などの武将の力にあやかろうとするものもあります。これは大絵馬にはよく見かける画題です。
しかし、それをあまりに直接的で畏れ多いと感じた人々は、新しい方法を考え出しました。眷属(けんぞく)を描くことです。眷属とは、神仏と人との間を取り持ってくれる存在です。天神様の牛、火の神の鶏、弁天様の蛇、京都三島神社の鰻、同じく京都にある今熊野神社の飛び魚などがよく知られています。たとえば鰻の場合、子どもを望んで描くのですが、願掛けのときには二匹です、しかし願成就のあかつきには、三匹を描いた絵馬を奉納する習わしになっています。加えられた鰻は、願掛けによって生まれた子どもを表しているのです。
また、神仏そのものを描かずにすがる方法はもうひとつあります。それは、神仏の持物(じぶつ)を描くことです。石榴(ざくろ)を描いた絵馬は、間接的に鬼子母神(きしもじん)を表していることになるのです。いずれも、超越的な力を期待してのことなのです。そんな神仏の力を示した絵馬は、願いの板絵としてだけではなく、「御守り」として軒先や厩(うまや)に飾られて、魔除(まよ)けとなっていくことも、自然の理(ことわり)です。
絵は口ほどにものを言う
乳しぼり 八つ眼 |
柳田國男は、「言葉はまだ我々の心の中のものを、同じ強さではっきりと言いあらわすことができない。人に効果がないことは神様にもまた届かぬかも知れぬ。それを補充しまたは代表するのが古い世から行われた絵馬ではなかったろうか。」(「板絵沿革」『柳田國男全集』五)と述べています。言葉で表すよりも、絵のほうが効果があり、それが絵馬のはじまりだというのです。
願うことの理想的なありかたを描く。昨今はやりのポジティヴ・シンキング(肯定的イメージ思考法)と同じです。母乳が吹き出る絵、おとなしく髪の毛を切らせる姿、などを見ると、そこには母乳が出ないのだな、子供がおとなしく髪をあたらせてくれないのだな、という裏返しの現実があることがわかるのです。「こうしてください」という言葉や文字より、誰が見てもよくわかる。神仏でも同じと考えたのでしょう。柳田が言っていることは、そういうことです。
また、人に知られたくない密かな願いもあります。病気平癒の祈願はそうです。八つの眼を描いて「病んだ眼」、向かい「め」の字も同じ意味になります。八つはとくに、薬師如来の「や」に掛けているともいい、薬師様にお願いすることまでが、この絵に含まれたものになります。疱瘡(ほうそう)を「くさ」といい、「草」とかけて牛に食べさせる。牛が草をはむ絵は、「疱瘡除け」なのです。交差した鎌も、草を刈り取るというところから同じ意味を持ちます。文字で書くとわずらわしいことも、絵だけで可能なのです。洒脱なものですが、こんな絵馬は江戸時代にたくさん作られました。
自分の正体は隠しておきたい、しかし、願いはきちんと神仏にとどけたい。十二支はそんなときに使います。十二支に性別、年齢、住所を記せば、その人を特定することができます。絵は口ほどにものを言うのです。
呪の力
呪とは縛ること、と言いました。縛るとは、神仏に願いを掛けた状態をいいます。民間では、「なんでもかんでも、願をかけてはいけない。その間神様は逆立ちされているのだから」といい、安易な行動を厳しく諫める地方もあります。それは、人が神仏を縛っているという感覚を示しています。絵馬はまさしく「呪」です。もちろん、神仏だけを縛るものではありません。「交差した大根」を描いた絵馬などがそうです。「願いが叶うまでは、自分も好物を食べません」という禁食の誓いとともに祈願するわけですから、祈願する人みずからも縛ることになるのです。これは単なる絵馬奉納よりも強力です。祈りにプラスして行動があるからです。この関連で、単に「酒をやめたい・煙草をやめたい」など、断ち物を祈願することも行われるようになります。江戸時代に始まった洒脱な「煙草や杯に錠」などの絵馬は、まさにこれです。
人知れず祈願する「縁切り」は、背中合わせの絵馬の奉納が一般的ですが、福岡市のとある地蔵では、絵馬奉納と同時に地蔵様のお体をお金で削って頂いて帰り、縁を切りたい人に、お茶などに混ぜて、こっそりと飲ませるという方法を伝えています。効果はてきめんで、今でも祈願する人が絶えないといいます。人間関係の悩みは今も昔も変わらないものなのです。
お雛様は、節供に飾りますが、これは「流し雛」に起源があります。禍(わざわい)を紙の人形(ひとがた)に付けて水に流してしまうのです。もともとは宮廷の儀礼でしたが、後世に民間にも流布し、、淡島(あわしま)様に紙雛を奉納して疫病を払い流す呪術として、盛んに行われるようになります。立ち姿の紙雛を描いた絵馬は、この呪を絵のなかに封じ込めたものともいえます。また、女性の節供との関連で婦人病平癒や縁結びを願うときにも、この絵馬が奉納されているようです。
科学万能の時代である現代、何故にこのような「呪」が存在するのか。小絵馬はそれを考えさせてくれるものなのです。
(福間裕爾)