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No.228

歴史展示室、黒田記念室

弓・鑓・鉄砲

平成15年9月23日(火)~11月24日(月)

 戦国時代の中頃から安土(あづち)・桃山(ももやま)時代、そして江戸時代の初めにかけては、天下統一にむけ、政治や社会に大きな変化のおこった時代であり、うち続く合戦の時代でもありました。武士同士の白兵(はくへい)戦で使われた武器では、従来の薙刀(なぎなた)などに替わり長柄(ながえ)の武器である鑓(やり)(槍)が主流となりました。また、戦場の飛び道具では従来の弓に加えて、新兵器の鉄砲も伝来して全国に広まり、合戦自体も大規模で激しいものとなりました。やがて、その後の太平の時代には、これらの武器は、武家の武備の重要な部分として扱われ、これらをめぐる武術も盛んになるなど、技術的にも文化的にも武家社会の中で受け継がれて行きます。
 この展示では、福岡市博物館が所蔵している旧福岡藩黒田(くろだ)家の資料や、福岡藩・秋月(あきづき)藩などの武家資料のなかから、弓、鑓、鉄砲といった武器や、それらに関連した絵図や絵画、古文書を展示し、この時代の武家の、軍事面での技術やそれにまつわる文化を紹介します。また、本年は福岡藩祖黒田如水(じょすい)の没後400年にあたるため、関ヶ原合戦の時期の黒田家の歴史も合わせて紹介します。なお、日本では、長柄の先に装着する刺突(しとつ)武器を、一般に鑓と記しましたが、長柄が附いていることを強調する場合、「槍」などの字も使いました。



「十鎌法」


1、関ヶ原合戦と黒田如水・長政


「御鉄砲之書」

 戦国時代終わり、播州姫路(ばんしゅうひめじ)の城主であった黒田氏は、小寺(こでら)という小さな大名の、家老という一勢力にすぎませんでした。しかし、孝高(よしたか)(後の如水)の代にいち早く織田信長(おだのぶなが)に通じて、羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉(ひでよし)配下に入り、信長没後は、秀吉の九州攻めなどに参加し、豊前中津の大名となり、その後の全国統一にも大きな功績を上げました。ただし、孝高は秀吉に遠慮して隠居し如水となり、子の長政(ながまさ)に家督を譲ります。長政は秀吉の死後の慶長(けいちょう)5年、関ヶ原合戦で西軍石田三成(いしだみつなり)方の切り崩しなどにより、東軍徳川家康(とくがわいえやす)に勝利を導き、筑前(ちくぜん)50万石の大大名となりました。また、如水も九州の石田方を攻め、各地の合戦に勝利します。いわば黒田家とその家臣団は、この激しい時代に上昇し生き残った新興大名の武家の典型といえましょう。


2、長政の武芸と重宝の鑓

 黒田長政は、青年武将として、自ら戦陣に立つ事も多く、とくに関ヶ原合戦の前哨戦である合渡(ごうと)の合戦では、鑓「政常(まさつね)」を携え、渡河の一番乗りをしたと言われます。また、かれの秘蔵の鑓「長吉(ながよし)」を携えて、若い頃から何度も戦陣に臨み、ついに筑前一国の大名になったことから、この「長吉」は「一国御鑓」と呼ばれることとなりました。現在、「長吉」の長柄も残っていますが、その握りはかなり太く、当時の武人の戦場での力強さが見てとれます。さらに、長政は鉄砲に対しても興味が深く、当時の名人・稲富一夢について免許を受けるなどし、現在は「長政公御鉄砲書」として残されています。


3、黒田家の軍団と弓・鑓・鉄砲


大身鑓名物
「一国長吉」

 この後、福岡藩では徳川幕府の政策に従い、2代藩主の忠之(ただゆき)以後は、鎖国政策などに沿った領国の支配を進めていきます。とくに、寛永(かんえい)14(1638)年に起った島原のキリシタン一揆の農民たちとの戦い(島原陣)には、黒田家は大勢の軍勢を送り血戦を繰り広げました。
 この江戸時代前期の福岡藩や秋月(あきづき)藩などの黒田家の軍団の様子がわかる絵図や文書が残されています。これらや関ヶ原合戦図屏風からは、当時の大名の軍団の様子と、そこで使われる武器が窺えます。黒田家の軍団は、大名自身や家老に率いられた、いくつかの備(そなえ)(部隊)に分けられます。その備は一般の騎馬(きば)の武士が単位となります。これら馬に乗る武士は長さが3メートル程度の鑓(槍)を持ち戦いましたが、これは持鑓(もちやり)といわれます。これらの武士が自前で持ってくる弓や鉄砲も持筒(もちづつ)や持弓(もちゆみ)といわれます。これらは、すべて自分の従者に持たせて運ばせました。いざ戦いの時には、武士は従者からそれらを受け取り、しかも下馬して主従一団となって鑓をそろえて戦うのです。そして敵陣に一番乗り、二番乗りすることは一番鑓、二番鑓などといって最大の戦功となりました。
 家老など大身の武士では、自分でも多くの騎馬の家臣や従者を従えていました。そして、配属された、藩の他の騎馬の武士たちや足軽の集団部隊を支配下に置きました。また、これらの足軽部隊は足軽頭、鉄砲頭といった藩の騎馬の武士が指揮官になっていました。
 家老はこのようにしてできた備を指揮するのが役目で、備の位置や性格によって、先手(さきて)(一番備)や後詰(ごづめ)(後備)などと呼ばれました。旗本とされる藩主の備も、構成は基本的に同じですが、馬に乗らず徒歩で戦う武士も多く、特に槍や鉄砲を持って、藩主の身辺周辺の守備を固めていました。このような当時の大名の軍団の構成は、武士の家格に反映し、有名な黒田二十四騎図でもそれが見て取れます。
 さて、戦国時代以降に発達した足軽などの集団が、持たせられた武器は、藩から貸し与えられる長柄の槍や鉄砲、弓です。とくに足軽部隊は、一般の武士の持鑓よりさらに長い5、6メートルもの槍を持っていました。これらの武器は藩の直属の管理であり、足軽の人々は槍や鉄砲を自弁(じべん)していた訳ではありません。また玉や弓を運ぶ人々や、食料等を運ぶ人々(荷駄隊(にだたい))もいました。


4、筑前の名物鑓と刀工の作品

 さて、黒田家に伝わる名物鑓としては現在、「当麻(たいま)」、「勝光(かつみつ)」などが残されています。これらはいずれも室町時代の名工の手による物です。黒田家の家臣の鑓で有名なものに「日本号」があります。これは、黒田二十四騎の一人・母里太兵衛(もりたへえ)が、秀吉子飼いの大名福島正則(ふくしままさのり)から呑み取ったといわれ、豪快な黒田武士の象徴となっています。また、この鑓は大身鑓(おおみやり)といわれる、穂先の長さが70センチ以上もあるもので、しかも大名級の豪華な螺鈿(らでん)の柄が付いています。
 筑前に入った長政は、藩の武器製作のため、城下町福岡に多くの職人や刀工を招きました。長政は、このうちの信国(のぶくに)派に命じて袋鑓(ふくろやり)を工夫させました。これは穂先の柄に付ける部分を茎(なかご)にせず、古代の矛(ほこ)のように袋状したものです。旅先では穂先だけ簡単に持ち運び、柄はいざというときに現地調達するもので、長政の実戦経験が窺えます。このほか信国派には現在残されているものは十文字(じゅうもんじ)鑓が多く、筑前の槍術との関連も窺えます。


5、福岡藩・秋月藩の槍術

 17世紀の後半、太平の世といわれるころになると、武士と鑓の関わりは、実戦的なものから、むしろたしなむべき武術の一つへと変わり、槍術など体系化された技術へと調えられました。福岡藩の槍術は三代藩主光之(みつゆき)が有名です。光之は、かつて徳川家光(いえみつ)の前で御前(ごぜん)試合を行い、後に小倉の大名小笠原(おがさわら)家(光之夫人の親元)に仕えた名人・高田又兵衛(たかだまたべえ)の興した宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)高田派の一門から、十文字鎗術の免状を受けました。そのため、十文字鑓をあつかう人物が描かれた豪華な秘伝書が現在も残されています。
 福岡藩にも家臣に鎗術を指南する家臣が数家あり、前述の十文字鑓を使う宝蔵院流高田派や、井上(いのうえ)氏が興した自得(じとく)流などが有名です。また、支藩の秋月藩には鍵(かぎ)槍(槍の柄に鍵をつけるもの)を使う鏡智(きょうち)流などもあり、槍術家・櫛橋(くしはし)家の資料が伝えられています。これらは、長柄の武器の絵図などが多く含まれる貴重なものです。


6、武家の象徴としての鑓


「鏃」「征矢」「箙」

 ところで、鑓は戦場での武器という以外に、その柄(え)や鞘(さや)などの外装などが、その武士の武勇や名誉などを表すものでもあり、本来は、合戦での手柄や武士の強さを称えて主君から許される場合が多くありました。しかし、平和な時代になると武家の家の印、あるいは象徴として捉えられるようになります。たとえば大名の参勤交代では、その家独自の鞘の形の槍を、行列の先頭に立て進み、当時の大名家の一覧である武鑑(ぶかん)にも、登録されていました。黒田家では、家の象徴である鳥毛(とりけ)の鞘を持った槍が有名です。また、一般の武士も、公式の外出時に従者に槍を担がせていけるかどうかは、その武士の身分に関わる事でした。
 さて、そのような事情から槍の外装である鞘では様々な形や意匠が工夫され、一目で持ち主がわかったと言われます。また、拵(こしらえ)である柄には長いものから、大人の身長ぐらいで、室内でも使用できるごく短い手槍(てやり)風のものも有ります。これらの長柄の武器は、行列に使われたり、部屋の長押(なげし)に飾らたり、陣屋などの軒先に立て並べられたりして、大名や武家の威厳を知らしめるのにも使われました。


7、弓と弓術

 弓は古く平安、鎌倉の時代から騎馬戦の武士の使う本来の武器として扱われ、武士の道は弓馬の道とも言われます。戦国時代になると強力な弓も作られ、武士自身の持ち弓だけでなく、足軽の弓部隊も編成されました。しかし武士同士の白兵戦での武器として持鑓が一般的になり、また飛び道具としても鉄砲も普及したため、目だたなくなります。
さらに江戸時代になると、弓術として完成され、むしろ身分の高い武士のたしなみとして享受されました。また、多数の矢を正確に飛ばす、通し矢などの弓術も行われるようになりました。展示では幕末の弓道具(弓、矢、鏃(やじり)、えびら、皮製手袋のゆがけ)の一式を展示します。


8、鉄砲と砲術

 戦国時代にポルトガルから伝来し、瞬く間に全国に広がった火縄銃は、発射の速度は遅くても刀や弓では破れない当世風の甲冑も打ち砕き、威力抜群だったようです。武士自体が鉄砲を持筒として戦場に出る場合も有りましたが、足軽部隊によって集団的に運用され、威力を発揮しました。
 さて、福岡藩では長崎警備を担当している関係上、実戦にそなえた砲術も盛んで、分限帳には数多くの砲術専門の家臣が登録され、しかも津田(つだ)流、磯(いそ)流、高野(たかの)流等、いくつもの流派に分かれて腕を競っていました。また、地方在住の武士は砲術で学ぶだけでなく、猟などによって実戦に備えたといわれます。しかし、一般には幕末から維新期には西洋の新式銃によって火縄銃が駆逐されてしまいます。現在は、大口径の抱え大筒(おおづつ)などの流派が福岡県指定の無形文化財として残されています。
 このように、弓、鑓、鉄砲は、武器として実戦的なところから出発して、平和が続いた江戸時代以降はむしろ武家の社会、文化のなかに溶け込んでいました。しかし、明治以降、実戦での効果が失せるとともに消えてゆき、美術的な価値で見られる刀剣と比較して、現代ではその残存はすくないようです。

(又野誠)

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