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No.239

歴史展示室

筑前の盲僧

平成16年4月6日(火)~6月6日(日)

はじめに


座頭さんのくずれびわ
(博多明治風俗図より)



玄清法印の墓

盲僧(もうそう)とは、かつて中国地方の一部と九州に多く存在した盲目の宗教者です。彼らは年に数回琵琶(びわ)を背負い、村々を訪れ、屋敷や竃(かまど)の神である荒神様(こうじんさま)を祀るためのお経をあげたり、正月にお札を配ったりしていました。また、時には人々からの求めに応じて「くずれ」と呼ばれる語り物や滑稽話等を演じるなど、芸能者としての側面も併せ持った存在でした。


集団化する盲人~盲僧と当道座~

 盲僧の起源は諸説有り、確定していません。各地に残る伝承では、多くは百済(くだら)やインドなどにその起源が求められています。また、近年では韓国の宗教者盲覡(パンス)と日本の盲僧の共通性を探る研究も始まっています。
 筑前の盲僧については平安時代に現れた玄清法印(げんせいほういん)という人物が始祖とされています。由緒書によると、比叡山(ひえいざん)に現れた毒蛇を調伏した功績により九州盲僧の頭となったとされています。彼を開祖とする天台宗成就院(じょうじゅいん)は現在福岡市高宮にあり、天保5(1834)年に再建された墓所が太宰府市の四王寺(しおうじ)山頂に建っています。
 筑前以外にも各地に盲僧集団が存在しており、例えば、筑後では高良大社(こうらたいしゃ)、肥前では櫛田宮(くしだぐう)等が地域の盲僧を統括していました。また、鹿児島藩領では島津(しまづ)氏の戦勝祈願を行なったことを由緒とする盲僧が活動していました。「盲僧」とは言っても各集団の在り方は多種多様だったのです。
 一方、中央では当道座(とうどうざ)と呼ばれる盲人組織が着々と勢力を拡げていました。彼らはもともとは平家物語を語る琵琶法師の系譜をひく集団でしたが、江戸時代になると、三味線や琴、針治療やマッサージ、金融業の世界へも進出していきました。彼らの組織は、座内で集められた上納金を再配分する官金(かんきん)制度と、検校(けんぎょう)を頂点とする七三刻(きざみ)(区分)にもおよぶピラミッド型の厳格な階級制度を特徴としていました。そして、座内法度(ざないはっと)が整備され、将軍家との結びつきを強めた18世紀には全盛期を迎えます。
 やがて、この両者は生業の問題で対立することになります。なぜなら、元来、下層の盲人たちにとっては宗教者・芸能者の区別は明確ではなく、当道座の盲人が盲僧の様に地神経(じしんきょう)を読誦(どくじゅ)することもあったからでした。延宝(えんぽう)2(1674)年には福岡藩の記録『黒田新続家譜(くろだしんぞくかふ)』の中で「座頭争論(ざとうそうろん)」と呼ばれている事件が起こります。小倉城(こくらじょう)で起きた盲僧と検校との座順争いに端を発したこの事件は、福岡藩にも波及し、幕府の裁きを受ける事件にまで発展しました。結局、幕府との繋がりが密接だった当道座が勝訴し、盲僧の芸能活動が禁止され、当道座に属する下層の盲人の宗教活動が許可されることになりました。以後、大きな後ろ盾の必要性を痛感した筑前の盲僧を中心として100年にわたるねばり強い本寺獲得運動が続けられることになります。

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
pressrelease

Facata(博物館だより)

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