平成18年1月24日(火)~3月26日(日)
はじめにー江戸の大名屋敷ー
江戸時代の大名は参勤交代(さんきんこうたい)制度のもと、江戸と国元との二重生活を余儀なくされていました。そのため、江戸では諸大名が滞在するための武家屋敷が江戸城を囲んで置かれ、その面積は江戸の約7割にも達しました。それらは、大名が将軍から与えられた屋敷(拝領屋敷)や大名が土地を購入して建てた屋敷(抱(かかえ)屋敷)で、一大名家で何ヶ所も所有することがありました。
外桜田霞ヶ関にあった福岡藩上屋敷 |
現在の霞ヶ関 坂を挟んで左側が外務省、右側が中央合同庁舎 |
江戸屋敷の位置と規模
福岡藩の江戸屋敷がいつからあったのかは今のところはっきりしません。「落穂集(おちぼしゅう)」によれば、慶長(けいちょう)5(1600)年の関ヶ原(せきがはら)の合戦後、江戸では諸大名がこぞって屋敷の拝領を願っているとあり、黒田(くろだ)家も鍋島(なべしま)、毛利(もうり)、島津(しまづ)、伊達(だて)、上杉(うえすぎ)らの諸家と共に外桜田(そとさくらだ)で屋敷拝領願いを出しています。また、慶長13(1608)年頃の景観を描いた「慶長江戸絵図」(東京都立中央図書館蔵)には「黒田筑前守(ちくぜんのかみ)」とある屋敷が大名小路(だいみょうこうじ)に見えます。慶長20(1615)3月には、黒田長政(ながまさ)により「江戸ニ詰候供之者苦労之定(えどにつめそうろうとものものくしんのさだめ)」が作成されているので、その頃には福岡藩の屋敷が置かれていたと考えられます。
その後、参勤交代制度が整備されるに伴い、徐々に武家屋敷は江戸周縁部へ向かって増加していきます。福岡藩の場合は上屋敷(かみやしき)が外桜田の霞ヶ関(かすみがせき)に、中屋敷(なかやしき)が赤坂溜池(あかさかためいけ)に、下屋敷(しもやしき)が白金(しろがね)や渋谷(しぶや)等にありました。その規模は、江戸時代後期の記録では上屋敷と中屋敷がそれぞれ約2万坪(なお、福岡市博物館の敷地は約1万5,000坪)、白金の下屋敷が3,400坪余、渋谷の下屋敷が9,000坪余でした。ちなみに、福岡藩の支藩であった秋月(あきづき)藩の上屋敷は芝新堀(しばしんぼり)にあり、広さは6,400坪余りありました。藩邸に詰めていた人数は、藩の規模によってまちまちですが、多い場合で5~6,000もの人々が働いていました。なお、屋敷の位置は、桜田の上屋敷と赤坂溜池の中屋敷については、面積の変化や災害後の建て替えはあったものの、江戸時代を通じて移動することはありませんでした。