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No.280

黒田記念室

能面の世界6-能の中の遠国(おんごく)-

平成18年5月30日(火)~7月9日(日)


2 痩女

 能には、都から遠く離れた九州や東国を舞台にしたものがしばしば見られます。それらが作られた時代の観客は、都の人が大多数で、舞台となった地を実際に知る人は少なかったはずです。しかし、人々は、耳から聞こえる謡(うたい)の詞章、眼前で繰り広げる役者の演技に、天離(あまさか)る鄙(ひな)のイメージを膨らませたことでしょう。福岡市博物館の所蔵面を紹介するシリーズ「能面の世界」6回目は、『能の中の遠国』として、九州や東国という遠国を舞台とした能に登場する能面を取り上げます。


◆九州の能―筑前と都の遠距離恋愛

 筑前国(ちくぜんのくに)、芦屋を舞台にした『砧(きぬた)』は、能の大成者・世阿弥(ぜあみ)の傑作として名高いものです。主人公は、芦屋のとある領主の奥方。夫は、幕府に訴え事があって京へ上り、もう三年も戻りません。そこへ、様子見と年末には戻るという夫の言付けを伝えるため、夫の侍女が訪れます。侍女を相手に奥方は、「げには都の花盛り、慰み多き折々にだに、憂きは心の慣らひぞかし、鄙の住まひに、秋の暮れ、人目も草も、離(か)れ離(が)れの(花盛りの都にいて、多くの慰みがあっても、憂いがあるのが人の心の常なのに、まして、田舎の秋の暮れの寂しさはひとしおで、訪れる人もなく、草も枯れる)」暮らしのつらさを口説き、夫の心が離れてしまったのかと苦しみますが、ふと物音に気づきます。それは芦屋の里人の打つ砧の音。砧とは絹のつや出しや洗濯のための道具であり、砧を打つのは庶民の女性の夜なべ仕事でした。さて、砧と言えば思い出される中国の故事。漢の武帝の使者として西域に赴いた蘇武(そぶ)という男が異民族に幽閉されてしまいますが、故郷で待つその妻は、夫の苦境をしのんで高楼に上って砧を打ち、その音が万里離れた蘇武のもとへ届いたといいます。芦屋の奥方は、その故事にならって自分も砧を打ってみようと思い立ちます。寂しさを紛らわすため打つ砧の音は、秋の月夜に吸い込まれていくようで、だんだん気持ちも落ち着いてきました。そして、「蘇武が旅寝は北の国、これは東の空なれば、西より来たる秋の風の吹き送れと、間遠(まどお)の衣打とうよ、古里の、軒端(のきは)の松も心せよ、己(おの)が枝々に、嵐の音を残すなよ、今の砧の声添えて、君がそなたに吹けや風…(蘇武が囚われたのは北方の国、私の夫は東にいるので、西から吹く秋の風が吹き送ってくれるよう、荒い織り目の衣を打とう、この芦屋の、屋敷の松たちよ、枝々に嵐の音を残したりして、私の砧の音をさえぎらないでおくれ、今打つ砧の音を伴って、風よ、夫のいるか彼方へ吹いておくれ…)」と歌い上げます。しかし、そこへ、やはり年末も帰れないという夫からの報せ。すっかり気落ちした奥方は、病に伏して死んでしまいます。やがて夫が帰郷します。後悔する夫の前に、奥方の亡霊が登場。夫に想いを残して死んだので成仏(じょうぶつ)できない苦しみを述べます。そして「げにまことに譬(たと)えつる、蘇武は旅雁(りょがん)に文を付け、万里の南国に至りしも、契(ちぎ)りの深き志、浅からざりし、ゆゑぞかし(譬えに出した唐土の蘇武は、妻の砧の音が通じて、渡り鳥に託して手紙をよこし、それが故郷に届いたのも、夫婦の心の結びつきが強いからだろう)」、けれど、芦屋から打った私の砧の音は、都のあなたへは届かなかった、と恨み言を述べます。しかし、秋の月夜に響く砧の音の回想と夫の供養に、奥方の執心は解かれて、成仏を果たすのでした。
  この曲では、妻のいる筑前芦屋と夫のいる京との隔たりが、漢の都と万里の長城の果てになぞらえられ、その距離感が妻の孤独をいっそう際だたせています。妻は、砧の音に乗せた自分の思慕の念が、風に乗り、空を渡って、京の夫に届くことを切望していましたが、生きているうちには距離に引き裂かれない愛を確かめることが出来ませんでした。作者の世阿弥自身は、この曲については「かやうの能の味はひは、末の世に知る人有まじければ…(このような曲の情趣は、後世の人は分かってくれないだろう)」(『申楽談義(さるがくだんぎ)』)と、かなりニヒルな態度をとっていますが、むしろ、仕事などの都合によって、単身赴任や遠距離恋愛が珍しくない「末の世」の今日こそ、いっそう実感をもって迎えられる内容なのではないでしょうか。


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