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No.281

考古・民俗展示室

ふくおか民族カタログ1-座と講-

平成18年6月20日(火)~8月27日(日)

はじめに


広田久雄画「宮座と注蓮打ち」

「ふくおか民俗カタログ」は、福岡市域で育まれ、伝え残されてきた数多くの祭りや年中行事、人々の暮らしの仕組みや約束事、あるいは生きるための知恵や祈りの姿など、さまざまな民俗を集めながら、福岡の地域的な特色を再発見していく新シリーズです。
その第1回目は、座(ざ)と講(こう)と題し、産土神(うぶすながみ)の祭りを支えてきた宮座(みやざ)という組織のこと、そして人々の暮らしの中で形作られてきた多様な集団の中から、庶民信仰の母体としての講(こう)組織を取り上げご紹介していくことにしましょう。

1、宮座

 「決められた一定の資格を有する人間が神仏の前に一座して祭りを行う組織」(『日本民俗大辞典』)を宮座といいます。歴史的には、中世の自治組織「惣村(そうそん)」の成立とともに発展したといわれ、西日本、特に近畿地方とその周辺には濃密な分布がみられます。福岡市を含む北部九州も、宮座が比較的多く分布する地域として知られます。
  宮座は大きく二つに分類することができます。ひとつは、特定の家が世代を超えて神仏の祭りを行う資格を持ち続けるもので、これを株座(かぶざ)といいます。もうひとつは、村に住む個人がある定められた資格条件を得ることで祭りに参加すべき者とみなされるもので、これを村座(むらざ)と呼んでいます。
  これら「宮座」「株座」「村座」という言葉は一種の学術用語ですから、実際の暮らしの中で使われている言葉と必ずしも一致するわけではありません。そこで今回は、両者を区別するために、暮らしの中の言葉〔これを民俗語彙(みんぞくごい)といいます〕を《 》で括(くく)ることにします。
  さて、それでは福岡市域の宮座の具体例を見ながらその特徴を探していきましょう。

  警固神社の《宮座》
 南区警弥郷(けやごう)3丁目にある警固(けご)神社の注連掛石(しめかけいし)〔大正11年(1922)建立〕には、「宮座連中」14人の名が刻まれています。みな古くから旧上警固村に住む《本家(ほんや)》の主(あるじ)たちで、この村で株座が組織されていたことを示しています。上警固の《宮座(ミヤザ)》は、警固神社の秋祭り《御九日(オクンチ)》を執り行うために、交代で《宮座田(ミヤザデン)》を耕作し、費用を捻出していました。14年に1度回ってくる当番は、注連縄(しめなわ)を作る藁(わら)の準備や祭典後の直会(なおらい)の宿の提供も行い《御座(オザ)》と呼ばれました。
  上警固では、お祭りである《御九日(おくんち)》のこともまた《宮座》と呼んでいます。お宮にみなが集まる席、あるいは宮座の人々が行う祭りという意味でこう呼ぶのかもしれませんが、話を聞く側にとって、なかなか紛らわしい言い回しではあります。ちなみに同様の言い方は福岡市域で多く聞かれますが、県内の他の地域では宮座の組織を《神家(ジンガ)》等といい、宮座の祭りを《宮座》と呼ぶことも多いようです。
  さて、警固神社の《御九日》は、戦後になると宮座だけではなく、全ての氏子(うじこ)で行うようになりました。時代により上方(うえがた)・下方(したがた)の2組、あるいは上(うえ)・中(なか)・下(した)の3組に分かれ、以前は1軒だけで務めなければならなかった当番の役目を組単位で受け持ち、その中に《御座(オザ)》を置くようになりました。10月17日(近年はこの日に近い週末)の《御九日》当日は、当番組がお宮に集まり《注連打ち(シメウチ)》を行います。そして新しい注連縄がお宮の各所に張られ、神職を招いた祭典が終了すると、直会の宿である《御座(オザ)》にはごちそうが準備され、賑やかな宴会が開かれるものでした。


警固神社

 三所神社の《卯之日座》
 西区宮浦(みやのうら)の三所(さんしょ)神社には、《卯之日座(ウノヒザ)》と呼ばれる宮座があります。これは、22人(現在は17人)の《座員(ザイン)》で構成される株座で、祭りに使う米や費用を賄(まかな)うための《神田(カミダ)》を共同所有し、旧暦11月(現在は12月)初卯の日に宮座の祭り《本座(ホンザ)》を執り行ってきました。以前は《本座》の前の月に祭りの打ち合わせをする《前座(マエザ)〔前寄(マエヨリ)〕》が行われており、《本座(ホンザ)》はそれに対応する名称とも考えられますが、お宮で行われる他の祭りとは違う、正式なお祭りであるという意味合いがあるのかもしれません。
  《座員(ザイン)》の家は固定しており、大字宮浦のうち、宮浦地区が11戸、唐泊(からどまり)地区が5戸、畑中(はたけなか)地区が1戸となっています。この17人が、3人ないし4人ずつ5つの組に分かれ、ひと組一年間の《当番(トウバン)》を務めていますが、かつては3人ずつ6つの組に分かれ、6年ごとに籤(くじ)で《当番》順を決めていたようです。
  《卯之日座(ウノヒザ)》では、『卯之日座規則』〔明治34年(1901)〕の定めるところにより、宮座を組織してきた先祖を持ち『卯之日座々員名簿』に記された者だけが《座員(ザイン)》として認められます。《座員(ザイン)》には「座員証」が発行され、一種の証券として大切にされています。座員名簿は戸籍を、座員証は明治時代の土地証券である地券を連想させる書式で、明治以降、近代的な装いで宮座が再規定されるようになったところに《卯之日座》の大きな特徴があるといえるでしょう。
  現在、《卯之日座》の関わる祭りは年に1度の《本座(ホンザ)》だけで、《座員(ザイン)》の意識も土地を共同管理する組合のような感覚が強くなっています。しかし、かつて三所神社の秋祭り《御九日(オクンチ)》の御神幸(ごしんこう)行列では、《卯之日座(ウノヒザ)》の人々が行列の先頭を弓張(ゆみは)り提灯(ぢょうちん)を持って歩いた話も聞かれ、古くは神社の祭り全般に強い影響力を持っていたであろうことがうかがわれます。



三所神社

熊野神社の《宮座》
 早良区石釜(いしがま)の熊野(くまの)神社には、昭和40年(1965)まで《宮座(ミヤザ)》がありました。これは25人で構成される株座で、石釜ではその成員を《二十五座衆(ニジュウゴニンシュウ)》と呼んでいたようです。《宮座(ミヤザ)》では《一番座(イチバンザ)》から《二十五番座(ニジュウゴバンザ)》まで、家ごとに決まった祭りの座順が受け継がれ、彼らが神社の運営を担ってきました。
  9月12日に行われる秋の大祭では、神職による祭典の後に、それぞれ定位置に着座した《二十五座衆(ニジュウゴザシュウ)》に盃を回す儀式が執り行われました。この時、世話役として《御相伴人(ゴショウバンニン)》と呼ばれる青年が神酒(みき)を注いで回り、また新穀の飯《御供様(ゴクウサマ)》を配りました。《御相伴人(ゴショウバンニン)》を務めるのは《宮座株(ミヤザカブ)》の青年に限られており、所作(しょさ)に失敗が許されない厳しい役目だったといいます。この時、《宮座(ミヤザ)》以外の人々が拝殿に上がることは許されず、氏子の《お籠もり(オコモリ)》は、別におこなわれていました。
  《宮座(ミヤザ)》におけるその年の当番を《座前(ザマエ)》といいました。《座前(ザマエ)》は《一番座(イチバンザ)》を除く宮座の成員が、昔から決められた組み合わせの2人1組で務めるもので、1年ごとの輪番制(りんばんせい)をとっていました。《座前(ザマエ)》は、秋の大祭や10月7日に行われた《七日祭り(ナノカマツリ)》の際に直会(なおらい)の料理の支度(したく)等を受け持ちました。
  《座前(ザマエ)》の引き継ぎの儀式を《頭渡し(トウワタシ)》といい、大祭の直会の後に行いました。《一番座》の前に、その年の《座前(ザマエ)》2人と次の年の《座前(ザマエ)》2人が対面し、口上を述べ、盃を交わすのです。盃は3合ほども入る大きなもので、《座前》は2人でこれを3杯飲み干さねばならなかったといいます。
  また12年ないし13年に1度行われる遷宮(せんぐう)の際には、《一番座(イチバンザ)》が御神体を運び、《二番座(ニバンザ)》が三鉾(みつほこ)を運ぶことが慣例でしたが、《宮座(ミヤザ)》が解散し、氏子全体で祭りが行われるようになった後も、《一番座(イチバンザ)》個別の役割は残っています。
  村の氏子の中に特定の株座があり、その株座の中に、実質的な神祭り役を果たす《一番座(イチバンザ)》が固定されている一方で、祭の世話役としての《座前(ザマエ)》が順次交代していくという宮座の仕組みが、石釜の熊野神社の特徴といえるでしょう。



熊野神社
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休館日
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