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No.318

歴史展示室

能面の世界8-能の中の和と漢-

平成20年5月13日(火)~7月13日(日)

4.能面 邯鄲男

 能の舞台にあがる人は、みな、かならず扇をたずさえています。とくに、主な登場人物が持つ扇は、中啓(ちゅうけい)といい、閉じたときでも先のほうが半開きになる特別なかたちをしています。中啓の表面には、さまざまな絵が描かれており、役柄によってどのような絵柄のものを用いるか、おおよその約束事があります。
 下の中啓で描かれているのは、大きな樹の下に集う四人の老翁。墨の濃淡だけで描かれ、人と物のあいだを埋めるように金泥の霞(かすみ)がたなびいています。さて、このような四人セットのお爺さん、しかも格好が中国の古代ふう、とくれば、この絵のテーマは「商山四皓(しょうざんしこう)」と考えて間違いありません。「商山四皓」とは、始皇帝が没して秦の国が滅びようとしているとき、乱れた世間をきらって商山という山に隠ってしまった東園公、夏黄公、角里(ろくり)先生、綺里季(きりき)という四人の高士(こうし)(教養に溢れ人格高潔な人)を指します。「皓」は白いことを指す漢字であり、四人とも眉毛や髭が白かったので「四皓」と呼び習わされたのです。中国では、権力争いや世間の煩わしさを避けて、人里離れた深山幽谷に隠れすみ、日がな一日、哲学的なことを語り合ったり、詩書画の芸術にふけったりする生活が一つの理想とされ、「商山四皓」のほか「竹林七賢」(竹林の中でくつろぐ七人の高士)とか、「琴棋書画(きんきしょが)」(琴、棋、書、画という古来重んじられた四芸にいそしむ高士)といったテーマが繰り返し表現されました。日本でも、水墨画が盛んになった室町時代以降、お坊さんや高級武将といった人たちの間から、好まれるようになり、襖(ふすま)や屏風にもひんぱんに描かれるようになったのです。

8.中啓 墨画商山四皓図

 では、「商山四皓」や「竹林七賢」が描かれた中啓は、どんな演目・役柄に用いられるのでしょうか。中啓の題材が中国ものですから演目も中国もの?いえ、実際は、われわれにも馴染みある住吉明神(すみよしみょうじん)のような、日本の神さま役に用いられるのがスタンダードでした。先ほど見たような水墨画の中啓なら、老いた姿の神、あるいは神さまの化身(けしん)としての老人が持ちます。また、同じ図柄でも極彩色の中啓なら、若い男神がたずさえます。これは、「商山四皓」の故事と図柄が醸し出す格調高い雰囲気が、神を主人公とする演目の気分にぴったりだ、ということで定着した組合せなのです。
 次に見る中啓は、鮮やかな色遣いを見せるものです。金一色の背景に、細やかな藤棚が描かれ、下には群青(ぐんじょう)で水流があらわされています。扇面の両肩には濃い朱色の区画が設けられています。ここに見るような、日本人にとって身近な景物を情趣豊かに鮮やかな色彩をもって描き出す絵を「やまと絵」といいます。中啓の絵柄には、やまと絵的なものも多いに好まれます。役者が身にまとう唐織(からおり)と共通する、はかなげな秋草、らんまんと咲く桜といったモチーフもたくさん見られます。

18.中啓(裏面)藤棚図

 ところで、この藤棚文様の裏側には、これまた中国風の人物が描かれています。今度の人物たちは、皆、若々しく華やかな装い。これは、唐の玄宗皇帝(げんそうこうてい)と楊貴妃(ようきひ)が宮廷において女官たちとともに風流なゲームに興じている情景です。今を盛りとばかりに咲く花々を二手(ふたて)に分かれた女官達に捧げ持たせ、花の色香を競って遊ぶ花軍(はないくさ)をしているのです。このように、たくさんの女官に囲まれた玄宗と楊貴妃の優雅な姿が描かれた中啓は、若い女性を主人公とする能の演目、とくに、恋愛をテーマとする演目においてよく用いられます。それらの絵柄のソースになっているのは、中国の史実ではなく、白楽天(はくらんてん)の長編叙事詩「長恨歌(ちょうごんか)」です。内乱を引き起こし、唐の国を傾けることになった玄宗皇帝と寵姫・楊貴妃の関係は、白楽天の「長恨歌」においては、甘美かつ幻想的な恋愛物語に歌い上げられています。「長恨歌」は、作られて間もなくわが国に伝わり、平安貴族たちの間で多いに愛好され、「源氏物語」を始めとする王朝文学に大きな影響を与え、「長恨歌」の内容をふまえた和歌や漢詩もたくさん作られました。以来、唐生まれの「長恨歌」は、日本人にとっても、誰もが知る史上最大のラブ・ストーリーとなり、玄宗と楊貴妃は男女の情熱的かつ悲劇的な恋愛をイメージさせる一種のキャラクターとなったのです。

18.中啓 花軍図

 かくて、恋の能には玄宗・楊貴妃の扇という状況が生み出されたのですが、恋愛をテーマにする能の曲目それぞれが、実際、下敷きにしているのはわが王朝の恋物語「源氏物語」であることが多いです。そして、また、「源氏物語」を題材にする素晴らしい絵画作品も、日本美術史上、数えきれないほど生み出されています。ところが、能の扇においては「源氏物語」そのものずばりを描いたものは、極端に少数派です。あの国宝の絵巻物が思い起こさせるような、十二単(じゅうにひとえ)に包まれた引目鉤鼻(ひきめかぎばな)の平安美人が中啓に描かれることは、ほとんどありません。このことには、中啓の持つ芸能の小道具、なかんずく武家の式楽(しきがく)として、あらたまった場で行われる芸能の道具としての性格が反映しているように思えます。
 実は、王朝の物語に登場する、本邦の雅(みやび)な装束をまとう美男美女というのは、お姫様のお部屋で眼にすることはあっても、お城の書院の襖だとか、お寺の方丈(ほうじょう)の襖だとか、あらたまった場に描かれることはありえませんでした。日本の建築の伝統においては、そのような「公式」の場の建具(たてぐ)や調度(ちょうど)に人物が描かれる場合は、かならず、遙か古(いにしえ)の中国の皇帝や名臣、あるいは先に見た「商山四皓」や「竹林七賢」のような賢人が描かれるのであり、それでこそ場にふさわしい厳粛さが醸し出される、という共通の認識がありました。
 能の扇・中啓の表面も、小さいながら、やはり一種の「公的スペース」だと見なされていたと考えられます。そこに描かれる絵画は、側近く眺めてお話の世界に入り込めるようなものではなく、多くの貴紳が視線を注ぐステージの道具として立派に見えるものでなければならなかったのです。それゆえ、そこに、人の絵姿を描くときには、光源氏と女御たちではなく、楊貴妃を伴った唐の玄宗皇帝がふさわしいとされたのではないでしょうか。

(杉山未菜子)

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