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No.349

歴史展示室

能面の世界9 面を打つ

平成21年11月17日(火)~平成22年1月11日(月・祝)

◆焼印のある能面
 井関家重が、面の裏や彩色の下に、ひっそりと、いつ、どこで、打ったのかを記した能面の中には、面の裏に「天下一河内」という焼印が捺されているものがあります。江戸時代、面打が、自作、あるいは自分の工房の作であることを、誰にでもはっきりと分かりやすく示す際には、面の裏に焼印を捺すのが一般的になっていました。それは、画家が自分の絵にサインを入れるような感覚であり、最初に見たように、誰の目にも触れられぬように記された銘文とはちがう意味合いを持っていました。そして、家重が、焼印を捺す場合には、「天下一河内」という印を用いていたと考えられており、今日、面裏に「天下一河内」の焼印が見られるものは、井関河内大掾家重の作とされることが通例となっています。


図版5 7.釣眼 図版4 7.釣眼(面裏焼印)
図版⑤ 7.釣眼 図版④ 7.釣眼(面裏焼印)
図版7 9.中将 図版6 9.中将(面裏焼印)
図版⑦ 9.中将 図版⑥ 9.中将(面裏焼印)

◆「天下一」
 図版④に見えるのは、「天下一近江」という焼印です。これは、児玉満昌(こだまみつまさ)という人が用いていたものです。先にも参照した喜多古能の『仮面譜』は、江戸時代に活躍した世襲面打の家系として、井関家のほかに、越前出目(えちぜんでめ)家、大野出目(おおのでめ)家の二つをあげ、さらに、越前出目家から児玉家、弟子出目家の二つの家が分かれ出たとしています。児玉満昌は、児玉家の初代であり、宝永(ほうえい)元年(1704)没とされています。つまり、先に見た井関家重より、約半世紀の後に没した人です。しかし、かなり長生きした人でしたので、彼が一人前の面打になったころ、井関家重もまだまだ活躍していました。満昌は、最初、越前出目家で面打を学んでおり、師匠家の養子となって出目姓を名乗り、ゆくゆくは家を継ぐはずでした。しかし、結局、師匠家を出て元の児玉姓で活躍し、後継も育てました。さて、満昌は、「天下一近江」のほかに、「児玉近江」という焼印も使っています(図版⑥)。この二種の焼印のちがいは何を示すのでしょうか。
 江戸時代の職人たちには、業界内でのステイタス向上のため、受領(ずりょう)、すなわち、朝廷や公家から実体のない古代の地方官の官職に任じてもらうことがありました。満昌は、寛永(かんえい)20年(1643)、「近江大掾」に任ぜられます。これをもって「天下一近江」という焼印をこしらえ、面の裏に捺すようになりました。面打の「天下一」号とは、そもそも豊臣秀吉が、文禄(ぶんろく)2年(1593)と文禄4年に、角坊(すみのぼう)と出目吉満(でめよしみつ)(大野出目家の祖)という比類なき腕をもった面打に対し名乗ることを許したことに始まります。いっぽう江戸時代になると、受領をもって「天下一」の号を用い始めたようです。他にも「大和大掾」となった者は「天下一大和」、「備後大掾」となった者は「天下一備後」の焼印をつくり、面が打ち上がると、その裏に捺して、自らの作であることを示しました。
 「天下一」の号は、面打のみならず、いろいろな分野の職人や芸能者たちがひろく用いました。しかし、濫用され、右を向いても左を向いても天下一ばかりという状況になったため、天和(てんな)2年(1682)、幕府は、その使用を禁じます。満昌もこれに応じて「天下一近江」の焼印を使うことをやめ、「児玉近江」という焼印をあらたに用意し、用いることになったと言われています。

(杉山未菜子)

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