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No.359

黒田記念室

武人の書

平成22年4月13日(火)~6月6日(日)

図1 羽柴秀吉の署名(史料1)

 福岡市博物館が所蔵する約5万点の古文書コレクションの中から、戦国(せんごく)~桃山(ももやま)時代に活躍した武人(ぶじん)の自筆(じひつ)書状を紹介します。通常、身分の高い武士は、自ら手紙を書かず、本文だけでなく差し出し書きの署名まで書記役の右筆(ゆうひつ)が執筆しました。本人は最後に花押(かおう)と呼ばれるサインを署名の下に書き加えるだけでした。公文書の大半がこのような右筆書きでしたが、まれに、ごく身近な人に対する手紙や、神仏への願文(がんもん)等、直筆(じきひつ)でしたためられることがありました。直筆の手紙には、右筆書きにない本人の心情が吐露(とろ)され、その肉声が伝わってくるかのような迫力や切実さが文面に表れます。
 本展では、戦国武将が苦悩しつつも力強く生き抜いた動乱期の息吹(いぶき)を感じさせる個性あふれる筆跡(ひっせき)をご鑑賞下さい。


◆“人たらし“秀吉
 羽柴(は しば)(豊臣(とよとみ))秀吉(ひでよし)書状(図1~3)は、秀吉初期の筆跡としてつとに著名な書状です。秀吉は織田信長(おだのぶなが)の命を受け中国攻めを開始するに当たり、小寺(こでら)(黒田)孝高(よしたか)の協力を期待しました。とくに図3では、孝高に対し「我ら弟の小一郎(こいちろう)め同然に心安く存じ候」と語りかけ、人たらしと言われた秀吉の面目が躍如(やくじょ)しています。

図2 羽柴秀吉書状(史料1) 図3 羽柴秀吉書状(史料2)

◆息子の行末を案じる
 黒田如水(じょすい)(孝高)遺言状(ゆいごんじょう)は、文禄(ぶんろく)の役(えき)の折、突如、秀吉の勘気(かんき)をこうむった如水が切腹(せっぷく)を覚悟して息子の長政(ながまさ)に与えたものです。死を決意した如水は、跡継(あとつ)ぎ・家臣への知行割(ちぎょうわり)・家臣の扱い等、黒田家が直面する問題について具体的に言い遺(のこ)しています。また、キリシタンであった如水ですが、信仰よりも主君への忠誠を優先し、ひたすら黒田家の存続を願っています。後に辞世(じせい)におよんで「おもひおく言(こと)の葉(は)なくてついに行、道はまよハじなるにまかせて」と詠んだ達観(たっかん)した心境はうかがえません。


◆関ヶ原の戦い”一喜一憂“
 全国の武将を東西両軍に二分した天下分け目の関ヶ原(せきがはら)の戦い。天下取りの行方もさることながら、勝敗は各家の存亡を左右しました。西軍に属した毛利友重(もうりともしげ)(高政(たかまさ))は、関ヶ原の合戦後、藤堂高虎(とうどうたかとら)の仲介によりいち早く東軍に転じ赦(ゆる)されました。しかし、国許(くにもと)では家臣の森則慶(もりのりよし)が西軍として黒田如水と敵対。友重の自筆書状では、留守居(るすい)の者が無断で敵方に加担したと、弁解に苦慮(くりょ)しています(図4)。一方、同じく西軍に属し、筑後柳川(ちくごやながわ)を改易(かいえき)された立花尚政(たちばななおまさ)(宗茂(むねしげ))は潔い。上洛の途次、「万一身上も成り立ち候えば、目出候(めでそうろう)、浪人一偏にも成り候て、この前よりの御馴染(なじ)みまいらせ候いて御蔭(おかげ)をも頼み申すべく候と存じ候」と黒田長政に述べています(図6)。

図4 毛利友重(高政)書状(史料8) 図5 細川幽斎書状(史料9)
図4 毛利友重(高政)書状(史料8) 図5 細川幽斎書状(史料9)

◆茶湯を介した交歓
千利休(せんのりきゅう)の次代の名人と言われた古田織部(ふるたおりべ)。大名(だいみょう)でありながら身分を越えて博多(はかた)の豪商嶋井宗室(しまいそうしつ)・神屋宗湛(かみやそうたん)と茶湯(ちゃのゆ)を介して交歓(こうかん)しました。織部は遠く離れ宗室と会うこともままならない中、宗湛の上洛に際し、自筆手紙と柄杓(ひしゃく)1本を託し旧好を温めています(図7)。(堀本一繁)

図6 立花尚政(宗茂)書状(史料11) 図7 古田織部書状(史料14)
図6 立花尚政(宗茂)書状(史料11) 図7 古田織部書状(史料14)

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
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