平成22年10月26日(火)~12月19日(日)
1 平野国臣像(部分) |
はじめに
「幕末」とは幕府の終末期を意味し、とくに慶長(けいちょう)8(1603)年に開かれた江戸幕府の最末期を指して用いられる言葉です。
では、「幕末」と聞いて、みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか。やはり、坂本龍馬(さかもとりょうま)や西郷隆盛(さいごうたかもり)など大河ドラマに登場するような人々でしょうか。篤姫(あつひめ)や近藤勇(こんどういさみ)をはじめとする新撰組など、幕府を支えた人たちの名前を挙げる方もいらっしゃるかと思います。
本展覧会は、龍馬たちと同じ時代を生きた福岡の人々を紹介する展覧会です。勤王、佐幕など様々な立場で、激動の幕末を生き抜いた福岡の人々の姿を、当館所蔵資料を中心に、自筆の書状など関連の資料を通して紹介します。
まずここでは、幕末の福岡を代表する、国学者、歌人としても知られ、尊王攘夷運動に奔走した平野国臣(ひらのくにおみ)と、女流歌人野村望東尼(のむらぼうとうに)の2人にしぼって紹介しましょう。
1、平野国臣
平野国臣は文政(ぶんせい)11(1828)年3月、福岡藩の足軽平野吉郎右衛門(ひらのきちろうえもん)の次男として福岡地行下町(じぎょうしもまち)(福岡市中央区)に生まれました。天保(てんぽう)12(1841)年に小金丸彦六(こがねまるひころく)の養子となり、小金丸種言(たねこと)と名を改めました。弘化(こうか)2(1845)年に藩の普請方手附に任じられ、同年冬に江戸藩邸勤務を命じられました。嘉永(かえい)元(1848)年に帰国し、同4年には宗像大社沖津宮(むなかたたいしゃおきつみや)普請のため宗像郡大島(おおしま)(福岡県宗像市)に赴任しました。
同6年から安政(あんせい)元(1854)年にかけて国臣は再び江戸に派遣され、この間、ペリーの2度にわたる来航を現地で経験。翌2年には長崎に派遣されますが、帰国後に職を辞し、同4年には養家を離れ、実家に戻り、平野姓に復しました。
同年5月、福岡城内で藩主黒田長溥(くろだながひろ)の駕籠前に進み出て犬追物復興を直訴し蟄居。翌月に赦免された後は、秋月(あきづき)(福岡県朝倉市)の坂田諸遠(さかたもろとお)に有職故実や兵法を学びました。
翌5年8月、福岡藩を脱藩し上京。京都では鹿児島藩士などと交流を持ち、9月には孝明(こうめい)天皇から水戸藩に下された密勅の内容を伝えるため福岡に帰国することになりました。しかし、間もなく安政の大獄が起きたため熊本や筑後に逃れ、10月には幕府に追われ京都から逃れて来た清水寺成就院(きよみずでらじょうじゅいん)の僧月照(げっしょう)とともに鹿児島へ向かいました。その後、国臣は宮崎司と変名して再び京都に上り、ついで備中国連島(つらしま)(岡山県倉敷市)や下関、筑後などで潜伏生活を過ごしました。
文久(ぶんきゅう)2(1862)年2月、筑後国水田(みずた)天満宮(福岡県筑後市)の神官である真木和泉(まきいずみ)と会談し、幕政改革のため上洛する島津久光(しまづひさみつ)(鹿児島藩主の父)を擁して挙兵する計画を立て上京。「回天三策(かいてんさんさく)」を朝廷に献上し、西国諸藩の尊攘派との挙兵も計画しました。同年4月、藩主黒田長溥が参勤途上との報を得た国臣は、播磨国大蔵谷(おおくらだに)(兵庫県明石市)で京都の情勢を長溥に説き参勤を押し止めました。長溥は国臣の意見を入れ、病気を理由に参勤を取り止め帰国。この時、国臣も長溥に同行しましたが、途中、下関で脱藩の罪によって捕らえられ、藩の獄舎に入れられました。この獄中で『神武必勝論(しんぶひっしょうろん)』などの著作や多くの和歌などを紙縒(こより)文字で著しました。
翌3年3月に罪を赦されると徒罪方の役人となり上京を命じられ、同年8月には朝廷から学習院への出仕を命じられました。その後、8月18日の政変により朝廷内の尊攘派が一掃され政局が一変したため、国臣は京を離れ三田尻(みたじり)(山口県防府市)に向かいました。
同年10月、8月18日の政変で京から追放された公卿の1人、沢宣嘉(さわのぶよし)を擁して幕府の生野代官所(兵庫県朝来市)を襲撃(生野の変)するも失敗。城崎(きのさき)(兵庫県豊岡市)で捕らえられた国臣は京都六角の獄に入れられ、翌元治(げんじ)元(1864)年7月20日、禁門(きんもん)の変(へん)に際して斬首され、37才で亡くなりました。