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No.374

考古・民俗展示室

九州考古学の歩み

平成22年11月16日(火)~平成23年1月30日(日)

大正4、5年福岡城跡採集古瓦
大正4、5年福岡城跡採集古瓦

 今日、福岡市内では年間50件前後の発掘調査が行われています。これらの調査は主に開発で壊される前に行政が緊急的に行うものです。このような体制は昭和40年代くらいから整えられてきました。
 今回の展示では、昭和5年に創設された九州考古学会が80周年を迎える機会に、行政調査の体制が整う前に九州各地で行われてきた発掘調査・研究を、ほんの一部ですが紹介し、先人の思いをたどってみたいと思います。最初は1片の土器を拾うことから物語は始まります。


明治・大正


 明治10(1877)年エドワード・S・モースが車窓から見つけた大森貝塚(東京都)を発掘し、これが日本最初の学術的発掘と言われています。2年後の明治12年、モースは九州を訪れた際に、熊本県の大野貝塚(竜北町)を発掘しました。これが九州で初めての考古学的発掘調査と言えるのかも知れません。その後、中央の学者が九州を訪れ、その刺激を受けて少しずつ地元に考古学が根付いて行きました。

大正4、5年福岡城跡採集古瓦拓本
大正4、5年福岡城跡採集古瓦拓本
中山平次郎の論文草稿(大正4年)
中山平次郎の論文草稿(大正4年)

 大正元(1912)年、特筆すべき発掘が行われました。宮崎県知事有吉忠一(ちゅういち)が、皇祖発祥の地日向国の顕彰を念願して提唱した西都原(さいとばる)古墳群の調査です。この調査は宮内省、東京・京都帝国大学などの専門家を組織した総合調査の先駆けで、発掘への規制が厳しかった古墳を掘る画期的なものでした。当時も大きく新聞に取り上げられ、大正6年までに30基の古墳を発掘し大きな成果をあげました。
 大正6(1917)年には、鹿児島県指宿(いぶすき)村で中学生が拾った土器に注目が集まります。7、8年には採集地を京都帝国大学の濱田耕作(はまだこうさく)が発掘し、火山灰に覆われた遺跡の上層で弥生式土器、下層で貝塚土器(縄文土器)を発掘しました。当時、弥生土器と縄文土器は使った民族の違いであると考えられていた中で、両者が時代の違いであることを示した画期的な調査でした。濱田はこの橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡を「先史時代のポンペイ」と呼び、大正13年には国指定遺跡になりました。
 大正時代の九州では、中山平次郎(なかやまへいじろう)の活躍は突出したものでした。中山は九州帝国大学医学部の教授で、精力的に遺跡を回り、発掘はせずに採集した遺物を元に多数の論文を発表し、今日の九州の考古学の基礎を築きました。その業績は縄文・弥生時代から歴史時代まで幅広く、多岐におよんでいます。
 そのなかでも万葉集に詠まれた風景などから鴻臚館(こうろかん)の位置を現在の福岡城跡と考え、歩兵第24連隊営所で市民が出入りできなかった推定地に、大正4(1915)年の招魂祭(しょうこんさい)(ドンタク)の解放日に入り、古瓦を発見して鴻臚館の位置を確信したことはよく知られています。
 このほか大正時代には、京都帝国大学による装飾古墳、貝塚などの調査報告や、東京の専門家が主となった調査が行われています。また、大正の終わりから「史跡名勝天然記念物」の報告が各県で発行されます。このような中央の学者の活動と調査の蓄積は、地元の同好者に大きな影響を与えました。

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
pressrelease

Facata(博物館だより)

福岡市博物館

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