平成23年9月21日(水)~ 11月6日(日)
昭和3年 早良郡脇山の主基斎田を 視察する小島与一(左端) と原田嘉平(左から三人目) |
同じ時代、同じ場所で力と技を競い合う関係 ―ライバル― は、どの世界にもあり、そこには見る者を引き込む熱いドラマが生まれます。本展では近代の博多人形界をリードした2人のライバル小島与一(こじまよいち)(1886~1970)と原田嘉平(はらだかへい)(1894~1982)にスポットを当て、その活動の軌跡と作品を紹介します。
1、白水工房での修業
小島と原田は明治時代に活躍した人形師白水六三郎(しろうずろくさぶろう)の下で修行を積んだ兄弟弟子であり、小島が入門したのは明治33年(14歳)、8歳年下の原田は明治42年(15歳)のことでした。2人が入門した頃、白水は革新的な人形師グループ「温故会(おんこかい)」に参加し、アメリカ帰りの洋画家矢田一嘯(やだいっしょう)や彫刻家の山崎朝雲(やまさきちょううん)らの指導により西洋的な写実表現を人形に取り入れようと様々な挑戦を試みていました。
師匠の白水は職人気質(かたぎ)の厳格な性格で、弟子たちは早朝から深夜まで働かされ、1日の仕事が終わってから布団を被って自分の人形を作ったといいます。しかしこうした厳しい修業に耐えた2人はやがて独立し、小島は明治41年頃から「世界風俗人形」で知られる井上清助(いのうえせいすけ)工房の原型師として活躍し、原田も大正6年には自分の工房を開いています。また大正3年には人形制作に活かすために京都帝国大学九州医科大学(九州大学の前身)で人体解剖の講義と実習を受けています。
小島与一「初袷」 |
2、大正から昭和にかけて
博多人形は明治期の白水らの努力によって次第に郷土玩具から美術品へと生まれ変わり、やがて国内外のさまざまな博覧会にも積極的に出品し、その名声を高めていきました。2人は若手のホープとしてこうした動きの先頭に立ち次々と受賞作を世に送り出しました。大正14年にパリで開かれた現代産業工業装飾芸術国際博覧会では小島の「三人舞妓(さんにんまいこ)」が銀牌、原田の「浮世絵文政(うきよえぶんせい)の宵(よい)」、同門の置鮎与市(いきあゆよいち)の「元禄美人(げんろくびじん)」が銅牌を受賞しています。
昭和に入った頃には2人は名実ともに博多人形の第一人者となり、共同で重要な仕事に取り組むことも多くなりました。昭和3年の昭和天皇即位大典では早良郡脇山が主基斎田(すきさいでん)に指定されたことに伴い、2人は福岡県・市から皇室に献上する人形を制作し、昭和11年の博多築港記念大博覧会でも国防館陸海軍部の展示装飾をそれぞれ担当しています。また小島は昭和2年から11年まで、原田は昭和17年から20年まで博多人形組合長に就任し業界の発展に尽力しています。特に原田が務めたのは戦局悪化により物資統制が激しくなり、業界が存続の危機に直面した時期でした。その中で原田は商工省と粘り強く交渉し「人形技術保存適格者」の制度を国に認めさせ、多難な時代を乗り切っています。
戦後は2人とも人形界の重鎮として後進の指導にあたり、昭和41年には中ノ子タミ、置鮎与市、白水八郎と共にその実績と作品が評価され、博多人形師として初めて福岡県の無形文化財保持者に認定されました。