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No.401

企画展示室1

戦争とわたしたちのくらし21

平成24年6月5日(火) ~8月12日(日)

福岡大空襲のあとの博多部
福岡大空襲のあとの博多部

「福岡大空襲の日」
 第二次世界大戦中の日本本土への空襲は、昭和19(1944)年7月のサイパン陥落を経て、11月以降、本格化しました。昭和20年6月15日までは、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸などの大都市がその主な目標でした。3月10日の東京大空襲をはじめ、日本の大都市は壊滅的な打撃をうけ、多くの犠牲者をだしました。6月17日からは、中小都市が主な攻撃目標となり、終戦までの2カ月間で58都市が空襲をうけました。ちょうど日本は梅雨の時期でもあり、この攻撃目標の変化は、比較的防御力が弱く、レーダー爆撃に適した都市が選ばれたためでもあります。6月17日から18日にかけての中小都市が攻撃目標になった最初の空襲では、鹿児島・大牟田・浜松・四日市が攻撃をうけ、つづく19日から20日にかけての空襲では、豊橋・福岡・静岡が攻撃されました。家屋が密集していること、軍事産業施設があること、交通の要衝であることなどが考慮されて、空襲の目標が選ばれていたようです。空襲に際して、アメリカ軍は、福岡の特徴を、①九州北部における商業・行政の中心地である、②重要な港=博多港がある、③九州の主要な鉄道線上にあると分析していました。
 昭和20年6月19日深夜から翌20日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)による爆撃をうけ、福岡市の中心部は焼け野原になりました。空襲のあと、アメリカ軍が撮影した航空写真を見ると、その被害を受けた地域がはっきりと分かります。空襲によって家屋が焼失した地域は白っぽく写し出され、焼失を免れた地域は、瓦屋根が並んでいるため黒っぽく写し出されているのです。
 福岡市博物館では、開館以来、この「福岡大空襲の日」の前後に「戦争とわたしたちのくらし」展を開催してきました。毎回さまざまなテーマで展示をしてきたこのシリーズも今年で21回目です。今回は、戦地と銃後(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民。)とをつないだ軍事郵便、銃後から戦地へ送られた慰問文や慰問袋などに関する資料を集めました。

出征祝いの幟がならぶ家の前
出征祝いの幟がならぶ家の前
千人針の風景
千人針の風景

出征する人のために
 徴兵制度のもと、日本の男性は、徴兵適齢の満20歳になると徴兵検査をうけ、体格によって甲~丁種に判定されました。時期によって異なりますが、大まかにいうと、甲種・乙種の判定をうけると、現役兵として徴集され、その割合は、適齢者の半数程度だったようです。ただし、戦争末期には、兵力を確保するために体格や年齢の基準が緩和されて、8割近くが現役入営(すぐに入営)し、現役兵となっていました。この現役兵以外は、補充兵として内地に残りました。補充兵に対して出された召集令状が所謂「赤紙」です。また、徴兵適齢に達していなくても、志願して兵士となる少年たちもいました。
 入営・出征が決まると、親族や職場、近所の人びとが祝いに集まり、家の前には出征を祝う幟(のぼり)が立てられたりしました。また、「武運長久」を祈って、寄せ書が書かれた日の丸や、神社や寺院の護符、千人針などが贈られました。5銭硬貨もお守りでした。「死線(=4銭)を越える」という語呂合わせです。「なた豆」がお守り袋に入れられることもあったようです。なた豆は、生命力が強く、また、一度はツルが天に向かって成長しても、必ず向きを変えて地面に戻ってくるということから、旅に出る際のお守りとされていて、無事の帰還を祈る気持ちが込められていたのでしょう。

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
pressrelease

Facata(博物館だより)

福岡市博物館

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