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No.469

企画展示室1

福岡藩筆頭家老三奈木黒田氏展3 ―当主肖像と絵画・書跡の名品―

平成28年4月19日(火)~平成28年6月12日(日)

(四)近世後期文化人たちの書画

 江戸時代中後期は、武家の文化も儒学、特に漢学の教養とかかわりが深くなり、三代一貫(かずつら)は漢詩などに秀でた人物と言われています。三奈木黒田氏に残された江戸時代中期の屏風には、「蘭(らん)梅(うめ)菊竹(きくたけ)虎(とら)龍(りゅう)」の六文字が一字ずつ各扇に大きく書かれ、それらの文字の下に、たとえば「菊」なら、それにまつわる、来客を迎える漢詩が記されています。来歴は不明ですが、三奈木黒田氏の大きな屋敷を、職務や私用で訪れた客たちのために、控えの間などに置かれていたものなのでしょうか。
 このほか当時の江戸、上方(かみがた)、郷土筑前(ちくぜん)の文化人の作品もいくつか残されています。江戸時代中期に松尾芭蕉(まつおばしょう)の誹風(はいふう)を九州に伝えた志多野坡(しだやは)、狩野派と異なる南画風の山水画、京都の画家で猿の絵で有名な森狙仙(もりそせん)の作品、福岡藩の儒学者として有名な亀井(かめい)南冥(なんめい)の梅月図(ばいげつず)などです。三奈木黒田氏に収集された経緯はわかりませんが、幅広い文化の受容や交流が窺えます。

(五)画と書でみる幕末・維新

 再び激動の時代となった幕末・維新から明治初年の書画では、まず筑前勤皇派(ちくぜんきんのうは)の中心人物で、三奈木黒田氏とも遠い一族である家老・加藤司書(かとうししょ)の、有名な「皇国の」という今様(いまよう)の書、西洋の学問を修め、十一代藩主黒田長溥(ながひろ)の側近(そっきん)もつとめた滝田紫城(たきたしじょう)の絵画などがあります。
 三奈木黒田氏は、幕末には開明的(かいめいてき)であり、藩内をまとめながらも勤皇派にも同調的であったといわれ、勤皇派が藩主と対立して壊滅させられた慶応(けいおう)元年(1865)の乙丑(いっちゅう)の獄(ごく)では、当主の十代溥整(ひろのぶ)(一整)も、幕府よりの立場をとる藩府のため隠居(いんきょ)・幽閉(ゆうへい)などの処置を受けました。ただ跡を継いだ十一代一美(かずよし)は、征長(せいちょう)の役(えき)では福岡藩の司令官として活躍しています。慶応4年(1868)、溥整は藩政に復帰、藩主から元老(げんろう)の待遇を与えられ、一美も翌明治2年(1869)には福岡藩大参事(だいさんじ)となっています。
 明治8年、旧福岡藩主黒田長溥は、長政以来の三奈木黒田家との絆(きずな)を讃たえ、黒田一美に感謝の意を表し、黒田家顧問として上京するように頼みました。十二代黒田長知(ながとも)からは、三奈木黒田家を訪れた礼によんだ和歌や、絆を強める書跡が送られています。これらは三奈木黒田氏にとり、芸術・文化の名品とは違って、如水(じょすい)・長政(ながまさ)以来、幕末・維新まで、藩主を補佐する筆頭家老としての、家の歴史を全うした、記録の遺産として大事に保管されていたものといえます。

雪谷宗戒墨跡(虎丘十詠跋文)

雪谷宗戒墨跡(虎丘十詠跋文)

(六)明治の男爵(だんしゃく)として

 三奈木黒田家は明治23年、男爵に叙(じょ)され、その時期の三奈木黒田家の資料として、羅紗の大礼服(たいれいふく)も残されており、同氏の桃山(ももやま)から近代という実に長い歴史をうかがわせます。
(又野誠)

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