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No.472

企画展示室1

戦争とわたしたちのくらし25

平成28年6月14日(火)~平成28年8月21日(日)

ていしんしやしんとくほう(逓信写真特報)

ていしんしやしんとくほう(逓信写真特報)

はじめに

 昭和20(1945)年6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B―29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市は、この日を「福岡大空襲の日」としています。福岡市博物館でも、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期のひとびとのくらしを紹介してきました。
 25回目となる今回は戦時期の郵便物に関する資料を展示します。直接戦闘に参加しない国民は「銃後の守り」として、戦争を支援する体制に組み込まれました。銃後の国民と前線の兵士を結んだのは、慰問品や手紙でした。戦争の際、海外に派遣された軍人および軍関係者に発着するこれらの郵便物のことを、軍事郵便と呼びます。
 銃後と戦地を往還する郵便物にふれることが、戦争と平和を考える機会になれば幸いです。


軍事郵便(宛名面)

軍事郵便(宛名面)

軍事郵便のなりたち

 日本の軍事郵便制度は、日清戦争が起こった1894(明治27)年にはじまります。当時は、軍人および軍関係者が発するものは軍事郵便、彼らに宛てたものは野戦郵便とされ、軍事郵便は料金免除、野戦郵便は有料でした。日露戦争期の制度改正以降、両者はまとめて軍事郵便と呼称されますが、発着の違いによる料金の有無は残りました。
 軍事郵便の取り扱い数は、時期がくだるにしたがい増大します。日清戦争期には野戦郵便を含めて約1240万通でしたが、日露戦争期は約4億5000万通にのぼりました。日中戦争・太平洋戦争期は、正確な数は不明ですが、1937(昭和12)年から1941(昭和16)年の間では、年間平均4億通と推計されています。
 軍事郵便からは、軍事情報の漏洩(ろうえい)を防ぐ仕掛けを確認できます。たとえば、陸軍では、1940(昭和15)年以降、部隊の正式名称を隠すため、各部隊を漢字の略称と個別の番号で表記しました(例・龍六七三四部隊〔写真〕)。戦地から送る手紙は、作戦に関する情報には伏せ字を用います。また、手紙に軍事情報が書かれていないかチェック(検閲)がなされました。


紙芝居「貯金爺さん」

紙芝居「貯金爺さん」

軍事郵便と銃後

 「ていしんしやしんとくほう(逓信写真特報)」は、逓信博物館が制作した広報物です。第二二集第六八号は、逓信省が軍事郵便週間を設け、銃後から戦地への軍事郵便の送付を呼びかける内容です。政府は、銃後の人びとに対し、軍事郵便を通じて前線の兵士を労(ねぎら)い、励(はげ)ますことを期待していました。
 『家の光』は、農業従事者を主な読者とし、昭和戦中期に発行部数をのばした雑誌です。同誌では、編集部が窓口となり、陸海軍兵士への慰問文を募集しました。『家の光』読者が軍事郵便の送り手と位置づけられたことがうかがえます。
 大日本雄弁講談社が発行した『婦人倶楽部』をみると、付録のペン字上達手本に、戦地への慰問文の例文が多く掲載されています。1方で、前線兵士が母に送った手紙の特集も組まれました。銃後の女性には、軍事郵便の送り手の役割とともに、受け取る役割も想定されていました。
 戦時期の子どもの教育に用いられた「教育紙芝居」にも軍事郵便が登場します。戦地の息子からの手紙をきっかけに戦時貯金を積極的にすすめる男性を描いた「貯金爺(じい)さん」のように、軍事郵便が物語の展開に大きな影響を与える作品も制作されました。紙芝居は、軍事郵便を通じて戦地とつながった、前線を支える銃後の姿を視覚的に示しています。

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pressrelease

休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
※2023年7月22日~8月26日の金・土・日・祝日と8月14日・15日は20時まで開館(入館は19時30分まで)
休館日
毎週月曜日
(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
※2023年8月14日・15日は開館し、8月16日に休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで

Facata(博物館だより)

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