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No.479

企画展示室2

福岡藩主の絵画と書跡・文芸

平成28年10月12日(水)~平成28年12月27日(火)

沖ノ島図(展示資料5)

沖ノ島図
(展示資料5)

 太平の時代となった江戸時代の半ばから激動の幕末にかけて、福岡藩主のなかには、絵画や文芸などを一般的教養としてではなく、より深く学んだり、親しんだ人物が出ました。その作品の中にはそれぞれが生きた時代の中での、藩主としての立場を反映したり、心中を吐露した物も少なくありません。
 この展示では、本館が収蔵している黒田家(くろだけ)の資料の中から、ゆかりの作品や資料を紹介し、近世(きんせい)大名の文化と社会、その生きた時代を合わせて紹介します。

一、4代黒田綱政(つなまさ)と絵画の達人たち

 元禄(げんろく)文化華やかな時代の4代藩主黒田綱政は、父の3代光之(みつゆき)が長く藩政を執(と)る合間に、江戸で狩野(かのう)派の光信(みつのぶ)(安信)に学びました。そして藩主に就任すると、安信の高弟の狩野昌運(しょううん)を藩の御用絵師に招いています。綱政の残された作品は、芸術作品と言うより、手本を丁寧(ていねい)に写している真面目な絵が多いと評されます。
 福岡藩と幕府の御用絵師(ごようえし)である狩野派との交流は、綱政の祖父・忠之(ただゆき)、とくに父光之の時代から始まっており、新興の外様大名の黒田家にとっては、武家の高級文化の1つとしての狩野派の絵画に親しむことは評判を得るうえで大いに役立っていたといえます。
 しかし綱政は自ら描き、しかも自作の絵馬を領内の大きな神社に寄進し、沖ノ島(おきのしま)、菅公(かんこう)像なども描いたといわれます。太平の元禄時代には国内で神仏の崇敬(すうけい)がすすみ、日本の古き時代に関わる学問も盛んになりました。綱政の絵画は、藩主として、黒田家の安泰と領内の平穏を祈るものだったのかもしれません。


二、6代黒田継高と和歌の世界

 綱政の甥で福岡藩主となった6代黒田継高(つぐたか)は約50年も藩政を執り、祖父・光之や父・長清(ながきよ)の影響もあって和歌を好み、京都の公家烏丸(からすま)家を師として、和歌を本格的に学びました。また彼の正室で、綱政の孫にあたる黒田幸子(こうこ)も夫とともに和歌を嗜んでいます。
 享保の飢饉や藩財政難に、財政通の家臣を登用して乗り切った継高の和歌には、「箱崎松」のように藩主として、今現在の領内の安定を神仏とともに言祝(ことほ)ぐ作品があります。また継高がこの間に重く用いた家老たちも、和歌を嗜む人々が多く、いずれも京都の公家風の和歌が高級武士にもてはやされた平和時代を反映していたといわれます。その中で、彼らは藩主をかこんでの、一種の和歌のサークル的なつながりがあったともいわれます。また継高は、別邸である友泉亭(ゆうせんてい)(現城南区)を建て、そこで藩主としての疲れをいやしたとされます。この邸の名前も、京都の公家の命名です。
 しかし、太平の世で長く藩主の座にすわっていた継高が、京都の世界へのあこがれを持つことは、公家との交際や武家の官位の昇進などを望む行動にもつながり、治世の後半には藩財政的にもだんだんと苦しくなり、家老や家臣の間の対立を招いた原因ひとつとなったとされています。

三、はざまの時代の藩主たち

 7~9代藩主は、いずれも養子で治政(ちせい)は短く終わりましたが、実家の徳川氏などとかかわりの深い和歌や書跡がいくつか残されています。
 7代治之(はるゆき)は徳川将軍の親族一橋(ひとつばし)家から養子に迎えられました。学問好きで学問所設立は彼の遺志であったとされます。8代治高(はるたか)は、四国の京極家(きょうごくけ)から迎えられましたが、わずか半年で急死してしたため、その事跡はいくつかの書跡以外、ほとんど残されていません。9代斉隆(なりたか)は再度一橋家から、幼くして養子にむかえられました。斉隆は京都の公家から正室を迎えることの多い将軍家の親族として、公家文化と武家文化の融合した世界に育てられ、特に和歌などはその教養として残されています。ただ当時の大名やその奥方の人びとは、家族であっても、しきたりや生活する場所の違いなどで、言葉を直接かわすことには制限も多く、手紙や和歌が互いの思いを伝える重要な手段であったともいえます。

竹図(展示資料18)
竹図(展示資料18)

休館日

開館時間
午前9時30分~午後5時30分
(入館は午後5時まで)
休館日
毎週月曜日
※月曜日が祝休日の場合は開館し、翌平日休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで
pressrelease

Facata(博物館だより)

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