昭和61(1986)年度収集 収蔵品目録4
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 具足師田中家資料 |
田中家は、慶長9年(1604)以来福岡藩の御抱具足師を代々勤めた家であり、藩主より8石4人扶持を賜っている。 この資料は、武士の表道具である武具甲冑類から床几、手水所の粧物という生活用品にまで多岐にわたる新調及び修理に関する資料からなっており、具足師田中家の活躍および福岡藩における具足師の生活の一面を具体的に示す資料として貴重である。 |
448 | 644 |
2 | 進藤ハツノ資料 | 先代進藤正平氏(明治15年生)が東中洲で営んでいた料亭「雪の家」において用いた道具類をはじめとして、その後、春吉に移り住んでから料亭で使用した道具及び家庭生活の用具類である。明治末から昭和期までの町家の生活の一面が伺えるものが多いなかで、特に昭和10年頃のハツノ氏使用の花嫁かんざし、角隠しなど婚礼用髪飾り一式は完全に揃っており、貴重な民俗資料である。 | 183 | 298 |
3 | 森恍二郎資料 |
現在「五十二万石如水庵」を名乗る菓子商の菓子型資料。福岡市内での菓子商としては最も古い創業として知られ、江戸期から福岡一円の寺社用の菓子を作る。明治期には約160の寺社に納めたと言われるが、その他、学校の校章を施した型もある。菓子型は基本的には図柄を施した台と菓子の厚みをつけるための木枠、名称ゲス(下司カ)各一から成る。落雁・生菓子共に使用されるが、落雁のように薄手で型を損ないやすいものはゲスを二つに分け、両側から挟むようにしたものもある。 現在当主は15代目。本資料にはよく墨書で「森治三郎」と記されるのがみえるが、この人名は13代目の当主である。従って、この墨書のある菓子型は大正から昭和時代初期までに作製されたものであることがわかる。江戸から昭和時代までという長い時間の流れのなかで使用された菓子型を140余点も揃えた意義は大きい。 |
144 | 144 |
4 | 木村節夫資料 | 木村節夫氏(明治38年~昭和59年)による油壷のコレクションである。油壷は整髪用油を入れる容器で、日本髪を結う女性の身近な化粧道具の一つであった。口の締まった小ぶりの壷であり、愛玩の対象ともなって、様々なデザインのものが作られるようになった。当コレクションには古伊万里の染付、赤絵を主に備前、竜門司、三島手などの資料も含まれ、美術工芸品としても興味深い。 | 91 | 91 |
5 | 主基斎田関係資料 | 天皇即位礼の大嘗祭で祭場を二ヶ所設け、東を悠紀、西を主基と呼ぶ。1928(昭和3年)の即位礼では主基斎田を早良郡脇山(福岡市早良区)に定めた。本資料はその祭典で使用された衣裳や写真等の記録であり、この祭典のあり方を具体的に示してくれる資料である。 | 25 | 99 |
6 | 松尾信子資料 | 日本の伝統的歌謡である謡曲、長唄、民謡や、昭和初期に流行した歌謡曲、童謡などのレコード資料からなり、昭和初期の世相の一面をうかがい知ることができる。 | 29 | 73 |
7 | 飯尾寿一資料 | 飯尾楽古堂は下市小路(現博多区下呉服町)「三苫観古堂」の系譜を引く表具師である。本資料は飯尾家で代々使用されたものばかりである。なかでも、櫛田神社遷宮祭に使用した一連の用具や消防関係の社会生活用具は博多町人の生活を知る上で貴重なものである。 | 36 | 51 |
8 | 中江恒生資料 (追加分) |
中江家は黒田孝高に召抱えられ、福岡藩2代藩主黒田忠之から17石4人扶持を給わり代々「御付御納戸」という近習役を勤めた。本資料は幕末~明治期の当主中江正義の残した明治期の日記類が中心である。正義氏は11代藩主黒田長溥の近習として活躍し、明治の一時期に熊本県に在職ののち黒田家の家扶を勤めた人物であり、昭和59年度に当館に寄贈された中江家資料とあわせて貴重といえる。 | 45 | 47 |
9 | 池辺ミチエ資料 | 池辺ミチエ氏(大正11年生)は佐賀県鹿島市の染め物屋に生まれた。娘時代より布地が好きで家業に従事するかたわら、佐賀県立鹿島高等女学校で和裁の技術を修得した。20年前、大野城市に移り呉服屋を開業して現在に至っている。40年来の和服とのつき合いの中で、着物を縫える人が少なくなったのを残念に思い、本来の縫い方、技法の上に立った着崩れしない縫製の方法を研究された。本資料は昭和初期の着物を知る上で貴重なものといえる。 | 25 | 43 |
10 | 清水豊資料 | 井尻地区はかつて農業中心の地域であった。戦後、都市化の波によって宅地化が進行し、耕地は減少の一途をたどっている。清水氏は当地で、専業から兼業へと推移しながらも農業を続けている。本資料は氏が機械化農法導入以前に使用していた農具類である。 | 34 | 36 |
11 | 篠田文司資料 | 明治以降パラフィンの輸入によって、それまでの和蝋燭にかわり洋蝋燭が登場してきた。福岡市の製蝋業者は大浜と大名にあったが、篠田氏はこの大浜の鳩錨印洋蝋燭の製造元である。本資料は篠田洋蝋燭工業所で廃業まで使用されていたものである。動力化される以前の手動によるもので、使用痕もあり、生産の過程を知ることができる。 | 17 | 68 |
12 | 井上清助資料 | この資料は、明治初年から大正のはじめまでの博多人形師井上清助の奮闘史であるが、同時に博多人形の苦闘の歴史でもある。アイデアマン井上清助の活躍の一面がわかる貴重な資料である。 | 1 | 10 |
13 | 渡辺文吉資料 | この資料のなかで、大博劇場で公演された「陪審制度裁判劇」の広告やカルピスの広告は、当時の世相を反映したものとして興味深い。 | 7 | 10 |
14 | 橋本友美資料 | この資料は、藩札、地図ならびに裂地等と多岐にわたっている。とくに藩札と裂地は貴重である。 | 8 | 10 |
15 | 安田達雄資料 | 安田家は代々福岡藩の馬方を勤め、幕末には10石5人扶持を給わり新屋敷(現在の福岡市中央区六本松)に住んでいた。本資料は幕末~近代のもので、馬術免状相伝に関するものの他に西洋馬術の教本写などが含まれており、福岡藩の馬方の実態を示す資料として貴重である。 | 7 | 7 |
16 | 大曲米二資料 | 当地域は国鉄東福間駅開設にもとない、宅地化が進行したかつての農村である。大曲氏の耕作地も団地建設用地となり、農業を廃業するに至った。本資料は畜力・人力による農具である。そのうち犂は博多で製造されたものである。 | 6 | 7 |
17 | 岩下富士雄資料 | 福岡の生活用具類。杵と蒸籠は今も農家などではよく用いられるが、農村が都市化していく過程でその大半は失われたと言ってよい。歳も押し迫り一家総出で餅をつく光景に出合うことも殆どなくなった。本資料は杵が3点。蒸籠は1点あり四段式。両資料ともほぼ当初の形態を保つ。その他、室内用具類もある。なかでも長火鉢は五徳・銅壷などの金属製付属品も揃っており、生活資料としての価値は高い。 | 3 | 6 |
18 | 川上喜一郎資料 | 高取焼生活用具類。高取焼は文禄・慶長の役後渡来した陶工八山(高取八蔵)を陶祖とする焼き物で、福岡県内では広く愛用され続けたもの。享保元年(1716)、現在の早良区に窯が開かれ、藩の御用窯として発展した。後世になると、直方・小石原など各所にも窯が設けられ、同種の陶器が大量に生産出荷され、次第に人々の暮らしのなかに普及した。 | 4 | 4 |
19 | 玉川桂資料 | 玄海島で使用された配置売薬の袋。薬局・薬店がまだ開かれていなかった頃、富山などを中心に配置薬を専門に扱った行商人がいた。現在も薬事法の定めるなかで配置薬は続けられているが、戦前は朝鮮半島から満州までも廻ったといわれる。本資料は胃薬・妊婦用の薬であるが、岡山県総社市と福岡県鳥栖市の製薬会社の製品である。 | 4 | 4 |
20 | 森寿一資料 | 手光地区は現在でも豊富な耕作地を有する農村である。当地で農業を営む森氏は大規模経営に属する専業農家である。農法の変化とともに、農具は動力化され、畜力農具は使用しなくなっている。本資料はいずれも畜力農具である。 | 3 | 3 |
21 | 真砂嘉一資料 | 旧博多部瓦町などを中心に製作された、「博」銘の刻印のある博多七輪、煉炭用七輪、瓦質の矩燵用行火である。福博の町で戦前まで一般に用いられた道具であるが、現在では見ることができない。 | 3 | 3 |
22 | 進藤一馬資料 |
博多聖福寺の仙厓(1750~1837)の落款、印章を有する画幅。淡い墨とたっしゃな筆使いに仙厓の絵の特徴があらわれる。 進藤一馬氏は、第17代の福岡市長である。 |
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23 | 梶原昭代資料 | 桶は長い間貯蔵・運搬・洗濯など日常生活の中で幅広く使用された道具であった。しかし、現在ではこれを作る職人が少なくなり、加えて箍(タガ)を修理する者もいなくなったので、桶を使用する姿を見掛けることも稀になった。本資料は漬物などに使用されたものである。 | 1 | 1 |
24 | 中牟田勝喜資料 | 東郷平八郎は、鹿児島市出身で明治の海軍軍人である(1847~1934)。 この資料は、東郷の気質の一端を示す好資料である。 | 1 | 1 |
25 | 江口・磯野資料 | この資料は、西郷吉之助の書状である。幕末から明治期の激動のなかで、政治的に多大の影響を与えた西郷の一面を示してくれる資料である。 | 1 | 1 |
26 | 星出和範資料 | 伝単とは、宣伝ビラのこと。この資料は、戦後久留米市で公聴車が散蒔いたものである。 | 1 | 1 |
27 | 井筒屋資料 | 遠藤承山賢なる人物が藩主より相模石手水鉢を拝領した際に、精中という人物が和歌をそえて祝いを述べた書状。福岡藩士のものとされるが、江戸時代の武士の生活、文化が窺える貴重な資料である。 | 1 | 1 |
28 | 平川清忠資料 | 「凡眼不識重價真寳」と記した安重根(1819~1910)の手になる書である。安重根は明治42年(1909)ハルピン駅頭で前韓国統監伊藤博文を狙撃し、翌年死刑に処せられた人物である。本資料は彼が獄中にあり処刑される前に書かれた。 | 1 | 1 |
29 | 嶺旭蝶資料 | 盲僧琵琶の古い形のものとして筑前琵琶の創始者、橘旭翁が使用したとの伝えがある。携行に便利なように胴は幅細く、音色を考えてか肉厚となっている。本資料は現在も演奏できる状態にあり、また数少ない盲僧琵琶の参考例として貴重である。 | 1 | 1 |
30 | 古谷松江資料 | 花崗岩の庚申塔である。城南区別府1丁目13-3の敷地内に建てられていたもので、表には陰刻で天明5年の年記が刻まれている。市内にある庚申塔の中で都心部に近いものとして貴重である。 | 1 | 1 |
【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 勝福寺資料 |
勝福寺は西区今津に位置し、大覚禅師(蘭渓道隆)を開山に仰ぐ禅宗寺院である。 当館に寄託された資料は、寺に伝えられた中世文書2巻、近世・近代文書のほかに、大応派の寺院となった近世の寺のようすを物語る書画資料が中心である。博多区千代崇福寺の住持の書蹟や福岡藩御用絵師尾形氏の絵など福岡の近世文化を知るうえで重要な資料である。 |
22 | 37 |
2 | 精華女子高校資料 | 裁縫女学校として伝統ある精華女子高等学校に残された裁縫教材縫見本であり、昭和初期の女子教育に用いられたものである。今では専門家の仕事となりつつある和裁が、昭和初期まで一般子女の日常的な仕事として教育されていたことがうかがえる。なお素材の大半は箱崎木綿が用いられている。 | 137 | 160 |
3 | 衣笠資料 |
衣笠家は江戸時代福岡藩の御用絵師の一つで、守昌(もりしげ)以下代々御用を勤め、寄託者の守道氏はその後裔にあたられる。 資料は初代守昌の中国医術人物図(巻子装)をはじめ、6代守由の物語図屏風、8代守正の松鶴図屏風のほか、近代の地図の写しなど109件がある。同じく御用絵師であった尾形家に比べて、衣笠家の資料はわずかしか現存が確認されておらず、近世筑前の文化を知る上で貴重である。 |
113 | 118 |
4 | 青柳文書 |
青柳家は中世には福岡市西区飯盛の飯盛神社の大宮司であったが、織豊時代の兵農分離の過程で武士身分を捨て、更に正徳年間(1711~1716)には神職もやめて帰農している。『筑前国続風土記拾遺』の著者青柳種信は同家庶流の生まれである。 本館へ寄託された同家文書は、中世文書25通を含んでいるが、内容としては飯盛神社の社領あるいは神事に関するものがほとんどであり、他に近世・近代文書も含んでいる。 |
37 | 37 |
【購入】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 鹿島鍋島家資料 |
鹿島鍋島家は寛政重修諸家譜によれば肥前佐賀藩2代藩主鍋島勝茂の9男直朝が寛永19年に肥前鹿島に2万石余を分封され、以来幕末まで鹿島藩主として続いた家である。江戸時代の資料は1,247点で領内の支配、村政、土地関係、租税、金融など多方面にわたっているが、初代~5代藩主の時期の幕藩関係が窺える書状も含む。2代直条以下、各藩主は和歌、漢詩を好み自作の文芸作品も多い。幕末期の藩主直彬は宗家にかわって上京し活躍している。 明治時代以後の資料は、書簡が半分を占めている。とくに、沖縄初代県令、元老院議官、貴族院議員などを歴任した直彬宛が約950通ある。また、直彬が大隈重信に宛てた書簡の控えが約200通含まれている。 |
4,227 | 4,227 |
2 | 鍋島氏関係資料 | 本資料は肥前佐賀鍋島氏関係諸記録の近世中後期の写本類が中心である。内容は家譜・系図(竜造寺氏、鍋島氏、鍋島直茂個人)、聞書(鍋島直茂関係)、軍記(肥前戦国期、近世鍋島氏関係)、倫理(葉隠など武家思想書)、雑(その他の諸記録類)などに分けられ、特に鍋島直茂に関する記録類がまとまっている。直茂は戦国期は肥前竜造寺氏の家臣であったが、豊臣秀吉に認められて佐賀の実権を把り、関ガ原の戦では徳川家康に通じて佐賀藩の基礎を作った人物である。従って本資料は佐賀藩の成立と初期藩政が窺える貴重な資料といえる。 | 39 | 81 |
3 | 福岡藩関係資料 | 本資料は近世中後期の福岡藩に関する資料で、内容は黒田氏関係(系図、外戚伝など)、福岡藩参勤交代関係(道中案内、覚書、行程図)、福岡藩軍事関係(藩士武術書類、切支丹関係出兵記録)、日記類などに大別できる。とくに参勤交代については福岡藩の海上交通に関する資料が含まれている。また明暦3年の大村藩領での切支丹信徒が発見された際の福岡藩の出兵記録や福岡藩の砲術書などもみられ、藩政関係の貴重な資料といえる | 10 | 36 |
4 | 都築家資料 | 都築家は黒田氏に播州時代から仕えた家で、「慶長年中士中寺社知行書付」では都築十兵衛は「古御譜代」として300石を給っている。のち黒田長政3男高政が支藩東蓮寺(直方)藩をたてると支藩家臣として200石を給わっているが、東蓮寺藩の本藩合併により再び本藩家臣として230石を給わっている。本資料は都築家に対する各藩主の知行宛行状が中心であるが、黒田如水等の書状も含む貴重な物である。 | 7 | 7 |