目録 |
資料群名 |
解題 |
件数 |
点数 |
1 |
清水駿一資料 |
江戸期から昭和期にかけての資料である。江戸期の文書は、襖の裏打ち紙で、書状や領収書に類するものが大半を占めている。また書籍のなかには、稀本である「歴史地理」「大東」等が含まれている。
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1,593 |
2,805 |
2 |
南区民俗文化財保存会資料 |
同保存会が収集した農具を中心とする民俗資料。南区はかって博多の近郊農村であり、戦前まで使われた生活用具、養蚕用具、川漁などの用具が多数含まれる。
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773 |
1,020 |
3 |
平岡宏資料 |
日露戦争に陸軍少将として従軍した平岡茂氏にまつわる資料群である。とくに、独仏戦史に関する応用戦術附図は稀本である。
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395 |
412 |
4 |
柳澤義幸資料 |
大宰府史跡に興味を持った柳澤氏は、太宰府市周辺で偶然に出土した遺物の散逸を防ぐため、これらを収集しはじめ、さらに関連資料として国内だけでなく、中国、朝鮮半島の陶磁器、考古資料も収集した。本資料は大宰府と、その対外交流史を見るうえで重要である。
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234 |
299 |
5 |
伊豆久生資料 |
資料は、大正6年から昭和10年代にかけてのものである。この時期の九州酒造合資会社の経営や、合資会社と諸酒造組合との関連を窺い知る資料である。
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228 |
304 |
6 |
樋口潤二資料 |
樋口家は久留米藩の大庄屋で、2代目以降浪人格となった。本資料は樋口家に伝えられた書籍、絵画、書跡、衣類等で、書籍入、衣装行李に入れたままの原秩序尊重の法則にのっとった形で寄贈された。又、使用者の名が記載されていることから年代が推定でき、江戸時代の豪農の学問や服装を知ることのできる資料である。
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135 |
365 |
7 |
藤信雄資料 |
松本字吉が設けた松本無料住宅および松本保育園の事業概要に関する資料。松本字吉氏は福岡市の出身で戦前の混乱期に社会福祉事業に尽力した。
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113 |
140 |
8 |
長幸之助資料 |
長幸之助氏は大正6(1917)年、福岡市地行西町(現在の中央区地行)に生まれた。陸軍士官学校を卒業後、中国での戦闘に参加し、帰国後に陸軍憲兵学校を卒業。昭和18(1943)年ジャカルタ憲兵分隊長となったことを最後に消息不明となり、22年バタビアで死亡の由、報告された。本資料は幸之助氏が使用した軍装品などで、寄贈者保氏は幸之助氏の実弟である。
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81 |
83 |
9 |
半田澄子資料 |
レコード、写真、絵葉書など大正・昭和期の風俗が窺える資料で、半田家に保管されていたものである。
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79 |
79 |
10 |
野間吉夫収集資料(追加分) |
平成2年度収集資料の追加分。故野間吉夫氏が収集した、各種新聞記事のスクラップブックが中心である。他に鹿児島県で用いられた漁撈具もある。
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55 |
62 |
11 |
鈴木良平資料 |
旧博多下赤間町で使われた建具大工用具類である。鈴木氏の曾祖父菊松氏が大阪から博多に移住して「鈴木建具店」を創業したのが明治時代とされる。2代菊次郎氏の代には棟梁となり「博多の鈴木、福岡の田口」と並び称され、九州大学や秩父宮久留米御宿所の建具を製作している。本資料は初代から良平氏まで使われてきたものである。
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44 |
67 |
12 |
納冨佐和子資料 |
昭和期の観光リーフレットや絵葉書類で、納冨氏が各地を旅行した折に収集したものである。
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43 |
45 |
13 |
須子正典資料 |
昭和20年代中ばから50年代にかけて発行されたグラビア入り自然科学系雑誌「自然」の約29年分のバックナンバーである。初期の湯川、朝永博士のノーベル賞の記事から、現代のバイオ技術の特集まで、戦後の自然科学研究界の動向や発展をビジュアルに知ることのできる資料である。
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30 |
387 |
14 |
楢崎半三資料 |
博多の雛節供に用いるオキアゲと称する押し絵と、雛道具の着物類である。雛道具の衣桁もあり、着物と帯のミニチュアが飾れるようになっている。
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27 |
47 |
15 |
木村正恵資料 |
同氏が昭和13年の名古屋在住の際、初節句に購入したもの。以後、福岡に転居してからも使用しており、雛人形が定型化したごく初期のもの。
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27 |
33 |
16 |
太田嘉兵衛資料 |
写真・看板などの資料。太田家は屋号を「豊後屋」といい、博多上東町で酒造業を営んでいたが、明治期から昭和戦前期には家業のかたわら、「太田方壺堂」という薬屋を経営し、当主は代々「嘉兵衛」を名乗っている。
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25 |
45 |
17 |
石橋百合子資料 |
明治生まれの女性が使用した装身具類が中心である。糸島郡二丈町から姪浜に嫁入りしたときの道具類も含まれている。
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24 |
30 |
18 |
岡平藏資料 |
博多旧瓦町を中心に製作されてきた土焼製品を「博多素焼」と呼ぶ。昭和初期まで家庭の必需品とされてきた「博多七輪」やクドなどはよく知られている。また、養蚕の隆盛に伴って農村に普及した繭鍋もこの「博多素焼」であった。岡平造氏はこの製作技術を現在に伝承している唯一の職人である。
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17 |
23 |
19 |
佐々木哲哉資料 |
同氏が民俗調査の際に収集した福岡県一帯、及び長崎県対馬地方の民俗資料である。農具、魚具類のほか、小正月の農耕予祝儀礼としての呪具もある。
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15 |
21 |
20 |
小山田徳男資料 |
小山田氏の祖母セツ氏(明治24年生)が嫁入時に福岡市西区大原の生家から持参した用具類と、祖父丈助氏が使用した用具である。農村部の婚姻習俗と生活が窺える資料といえる。
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14 |
15 |
21 |
高木公資料 |
高木氏は戦時中に川崎重工に入社し、造船技術を習得された舟大工である。戦後は今宿横浜・福岡湊町で造船に従事。後に捕鯨舟に大工として乗務した。当資料は高木氏が使用したもので、和船用の工具を中心にして、一部西洋式構造船用の工具もある。
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12 |
21 |
22 |
玉川桂資料(追加分) |
同氏は玄界島の海士であり、漁に用いるワラジや潜水用のハチコと称する腰縄などを製作した。これら漁具関係のほか明治から昭和初期にかけての教科書がある。
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11 |
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23 |
鶴美智子資料(追加分) |
昭和3年の天皇御大典の際、福岡での行事に参加したときの衣装類、祝歌の歌本など。
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11 |
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24 |
井上園之輔資料 |
文化・文政期の寛政暦11点で、伊勢内宮の佐藤伊織が発売元である。表題は「文化3年ひのえとら乃寛政暦」のように書かれている。寛政暦は寛政9(1797)年、幕府天文方高橋至時らが、従来の宝暦暦に清国「暦象考成」や西洋暦法を加えて作成し、天保13(1842)年天保暦制定まで使われた。
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11 |
11 |
25 |
青木善真資料 |
農家で使用された漆塗りの食生活用具類である。椀や膳などが揃う。ほかに嫁入り用の提灯もある。
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10 |
22 |
26 |
楢嵜コマ資料 |
福岡市旧魚ノ町(現中央区浜ノ町)に、戦前まであった割烹料理屋「ならざき」で使われた人前結婚披露宴用の什器類である。昭和10年代は旅館や料亭で行う結婚披露宴が流行し始めた時期であり、各料亭で本資料のような什器類が作られた。
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10 |
20 |
27 |
西條勝博資料 |
西條家が太平洋戦争中に購入した戦時債権と1円紙幣である。昭和18(1943)年から19年にかけての短期間に、各家庭で債権が購入された様子が窺える。また一部は償還に応じた形跡があり、終戦後の債権の扱いについても知ることができる。
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8 |
10 |
28 |
松田又一資料(追加分) |
同氏は船大工の棟梁で、これまでにも船大工道具の寄贈を受けている。本資料は木製の浮樽で、網漁に使用されたものである。
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7 |
7 |
29 |
伊丹敏三資料 |
福岡藩士の武具・甲冑資料である。真向兎前立桃形兜と紺糸威胴丸具足の他に、陣羽織、背旗、旗さしもの、采配、腹当など一式が揃って保存されている。伊丹氏はもと摂津国(現兵庫県)の土豪で、織田信長と荒木村重の対立のなかで没落したが、一族の加藤氏(三奈木黒田氏)が仕える黒田氏に身を寄せ、慶長6(1601)年には筑前に知行地を受け、後に大組に属した。その後安永年間には数家が分立している。
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6 |
8 |
30 |
小串シズノ資料 |
博多の雛節供に用いるオキアゲと称する押し絵である。同氏は櫛田裁縫専攻学校の祝部至善氏にオキアゲ製作の技術を学び、現在も作り続ける数少ない伝承者の一人である。
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6 |
6 |
31 |
藤村元昭資料(追加分) |
昭和63年度収集資料の追加分である。鍋尻形兜といわれる兜に紺糸威胴丸具足、他に袖認3枚、背旗など櫃入りの一式が残されている。袖認は中白だが上、下が青、赤で色分けがしてある。背旗は家紋入りで型金も付いている。
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5 |
8 |
32 |
長沼元資料 |
長沼氏が佐世保海兵団入隊中に使用した給与袋と、昭和期のポスター・ちらし類である。長沼氏は昭和18(1943)年のミッドウェー海戦で負傷し、嬉野海軍病院に入院した。給与袋はその時のものである。
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5 |
5 |
33 |
原俊之資料 |
原俊之氏は九州大学教育学部名誉教授。医業の家系であったためか、近世初期の医師曲直瀬玄朔(2代道三)の肖像画がある。当図は元和9年(1623)の玄朔の賛が施され、図を描いたと思われる碧松庵玄春が筑前の人であった可能性があり、近世初期の筑前の医学史そして肖像画史の上で貴重な資料である。
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5 |
5 |
34 |
井上善次郎資料 |
江戸時代末から明治10年代にかけての版木類で、(1)「論語」、(2)「国史略」、(3)「改正小学句読」、(4)「補註十八史略」である。このうち(1)は長州藩校の明倫館の蔵印がみられる。また、(3)、(4)は全巻が揃っている。いずれも明治期に初等教育の教本として使用されたもの。
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4 |
13 |
35 |
金沢太郎資料 |
金沢太郎氏が入隊の折に使用したトランクと、出征・引揚げの際の資料である。金沢氏は明治41(1908)年に生まれ、福岡市春吉下四十川町(現在の中央区春吉)に住んだ。第108海軍航空隊938水艇航空隊に所属し、プカ基地(パプア・ニューギニア)に派遣された。寄贈者木下氏は金沢氏の長女である。
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4 |
4 |
36 |
新貝誠一資料 |
昭和20(1945)年6月19日夜の福岡大空襲の折、アメリカ軍が投下した爆弾の部品である。いずれも福岡市百道(現在の早良区百道)の砂地に落下し、不発だったものを、重陽氏の父新貝誠一氏が拾得した。
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4 |
4 |
37 |
藤村喜久代資料 |
福岡藩士の武具・甲冑資料。日根野形兜と紺糸威胴丸具足で櫃に収納されていたため保存はよい。また槍柄や黒漆塗弓が残されており、当時の家臣の実戦的な一面が窺える。
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4 |
4 |
38 |
十川サイ資料 |
トランクはサイ氏の義父で、旧満洲国奉天市(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)の医科大学に勤務していた医師彌市氏が使用していたもので、終戦後の引揚時にも使われた。
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3 |
4 |
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今宿鬼すべ関係資料 |
今宿上町の天満宮で正月7日に行われる「鬼すべ」行事で、鬼役の青年が着用する用具である。今宿は横町・松原・上町という3組からなり、上町が祭るのが天満宮である。行事は汐井取りから始まり、若者が扮する鬼役が上町の各戸を回る。各戸では鬼を歓待し、鷽替えで行事は終了する。太宰府天満宮の行事が伝播したものであろう。
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3 |
3 |
40 |
中山久重資料 |
石造資料である。このうち三重石塔はもと大分県杵築市東光寺境内に置かれていたと伝える。3層の笠部は瓦屋根のように格子になり、身部の各4面には神像らしき像を浮彫する。九州の石塔のなかでも特徴ある塔である。
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3 |
3 |
41 |
長谷川賢輔資料 |
この甲冑は福岡藩士のもので、1領は六十二間筋兜と紺糸威胴丸具足、もう1領は紺糸威胴丸具足である。いずれも櫃に万延元(1860)年の墨書がある。他に家紋入りの麻製陣羽織も残されている。
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3 |
3 |
42 |
藤井靖司資料(追加分) |
平成2年度収集資料の追加分である。藤井氏のおばにあたる伊原トラ氏(故人、橘旭翠)の琵琶と、演奏の際に着用したカントリ着物で、着物には鶴と亀の染め抜きがある。他に昭和15年の「日本万国博覧会入場券」がある。
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3 |
3 |
43 |
森村えい子資料 |
森村家伝来の刀剣「二王清光」「備州住助家」「正宗」の3口。「二王清光」は天文年間(1532~55)に活躍した周防の刀工であるが、二王鍛冶の祖は清綱といわれ、筑前鍛治系図にも記されている。また南北朝のころには筑前鍛冶の安吉が周防に移るなど、筑前鍛治との関係は深い。両者を研究する際の材料となるだろう。
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3 |
3 |
44 |
山本喜三資料(追加分) |
平成元年度収集分の追加である。博多祇園山笠の当番法被と水法被である。
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3 |
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小林晴雄資料 |
戦時中から小林家で使用されていた飯盒と、昭和初期の固形白粉である。ともに昭和初期から戦時中にかけての生活の様子を伝える資料である。
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46 |
納冨静子資料 |
風呂敷と貨幣である。風呂敷は昭和6(1931)年に、加布里・波多江2村が前原町(現在は前原市)と合併した折の記念品である。納冨家では風呂敷として実際に使用されていた。
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2 |
3 |
47 |
萩尾良慶資料 |
江戸時代後期の版木類で、1件は「仮名読十四経」上、下で、中国の医書を読みやすくしたもの。他の1件は「万家必要日用書状宝」で江戸時代の手紙の書き方の用例集である。
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2 |
3 |
48 |
竹本剛一資料 |
竹本氏の父市松氏が無線電話を付設した折の許可書と、竹本氏が西新国民学校に在学していた時の通知表である。戦前・戦中期の生活を知ることができる資料である。
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2 |
49 |
瓦田トヨエ資料 |
近代においては、福岡周辺の農家では盛んに養蚕が行われた。本資料は各戸で生産された絹を糸として撚り、染色したもの。
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3 |
50 |
茂和敏資料 |
茂氏が中学生当時に早良区梅林6丁目(クエゾノ遺跡)の工事現場断面から採集した資料である。断面が箱形を呈した土坑の床面から赤色顔料とともに銅鏃7本(現存は3本)を発見した。3本のうち2本は漢式三角鏃で、1本は断面菱形の類例のないものである。中国鏃は国内4例目の発見である。
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3 |
51 |
津上禮三資料 |
江戸時代中期の雛人形である次郎左衛門雛である。作者は雛屋(岡田)次郎左衛門で、作者の名前が雛人形の名称となった。同家は江戸時代に浦大庄屋、廻船問屋を勤めた家柄で、本資料は京都より船で運んだものと伝えられる。
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52 |
納冨寛資料 |
博多ニワカで使用する半面である。納冨氏は「博多ニワカ振興会」に属した、ニワカの演者である。当資料はオッペケぺー節の伝承者である石田清高氏が製作したものである。
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53 |
彌永泰正資料 |
歌人の柳原白蓮(びゃくれん)の書である。白蓮は明治44(1911)年筑豊の炭鉱主伊藤伝右衛門と結婚し、福岡天神町(現在の中央区天神)に新築された「銅(あかがね)(赤銅)御殿(ごてん)」に住んだ。大正10(1921)年宮崎竜介(りゅうすけ)(宮崎滔天(とうてん)の子)のもとへ走った「世紀の恋」は有名。本資料は昭和29年に白蓮が来福した折、彌永氏のために詠んだものである。
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1 |
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54 |
大神茂弘資料(追加分) |
本資料は鎌倉時代初期の畠山重忠所用の大鎧をもとに、昭和15年に、福岡市出身の彫金家藤島三郎天波が制作したものである。藤島三郎は東京美術学校(現・東京芸術大学)で彫金を学び、彫金家加納夏雄の最晩年の弟子である。
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55 |
小川宇仙堂資料 |
太陽暦採用の記事が掲載されている新聞。東京日日新聞は明治5(1872)年2月に創刊された日刊紙で、当初は木版摺の1枚物であった。
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鬼倉壽資料 |
昭和2(1927)年、福岡市大濠(現在の中央区大濠公園)で開催された東亜勧業博覧会の会場全景写真である。福岡城大堀の西側を埋め立てて設けられた博覧会場の様子がよく窺える。同じ写真が、昭和3年12月に東亜勧業博覧会が発行した「東亜勧業博覧会誌」の口絵に掲載されている。
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1 |
1 |
57 |
喜多島眞資料(追加分) |
平成2年度収集資料の追加分である。軍配前立桃形兜に紺糸素掛威胴丸具足で、胴は前後に引きあわせる二枚胴形式の鋲留め桶側胴。喜多島家は福岡藩士で側筒方を勤めている。
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58 |
国武政喜資料 |
同氏が購入されたもので、12世紀後半に作られた中国龍泉窯製青磁碗である。平安時代末博多にはこれらの中国陶磁が多数輸入され、国内に流通した。完形品は墓の副葬品である場合が多く、本資料も福岡周辺で偶然発見されたものであろう。中世対外交流を示す資料である。
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59 |
坂本喜平次資料 |
漁村の荒神釜の上に飾る注連縄で、ススミテ、または、エビと称している。ススミテは海老の形の模倣と伝えられ、新しい船を購入する際に作り変える。
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60 |
重野敦子資料 |
本資料は江戸時代の柄鏡で、崖に打ちつける波と烏の図を陽鋳して、鏡背文様の傍らには、鏡師「松岡豊前守藤原正重」の名が刻まれている。江戸時代は、本資料のような鏡背全面に文様をほどこした柄鏡が広く使用された。
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柴田秀人資料 |
昭和3(1928)年の昭和天皇即位礼のために、主基斉田で収穫された米である。主基の国に選定された福岡県では早良郡脇山(現在の早良区脇山)の石津新一郎氏の所有田を斉田とし、精米3石、玄米5升を供納、残余米を関係者に配布した。柴田氏は、耕作従事者のひとりであった。
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砂田宏資料 |
本資料は「道具由緒書」で、文面から寛永15年の島原の乱で、備後国福山城主水野日向守の供となった横山與五郎が、その折に持参した鎖笄について記されている。もともとは、この鎖笄と一緒の保存されていたものと推測される。
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武田竹男資料 |
太宰府出身の近代の書画家吉嗣拝山の子の鼓山の作品(竹図と梅図および書跡)を2曲1双に仕立てた屏風。博多の祭礼の一つである松ばやしの際には町家に飾り往来の人々にみせたとされるもので、博多の町の文化に関わる資料でもある。
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野見山英治資料 |
木造菩薩形立像である。この像は岳父が入手されたそうであるが、中国の宋代末期から元代のころの像と思われる。わが国の仏像や仏画に与えた影響などを研究するうえの好資料である。
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橋本友美資料(追加分) |
橋本氏が購入した土産品の首人形である。「はかた首人形」という名称で販売されていたようであるが、現在この形式は博多人形では作られていない。類似の形式は津屋崎人形にある。
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66 |
樋口次三郎資料 |
柄鏡である。裏面に松に鶴の図と大きく「高砂」の文字そして「天下一松村因幡守藤原吉次」の陽刻が施される。
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藤野良雄資料 |
農家の荒神釜の上に飾る注連縄でススミテと称している。ススミテは伊勢海老の模倣と伝えられ、毎年年末には作り変えるものであった。同家で十数年絶えていたものを復元したもの。
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68 |
松永大和資料 |
薬や金などを計量する匁秤である。炭坑関係の仕事に用いられたものといわれる。
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宮崎糺資料 |
化学肥料を取扱っていた東京の十文字商会のポスターである。宮崎氏宅の古い金庫を解体した折に発見された。上下に金属製の縁が付けられており、壁にかけられていたと思われる。画面には世界各地の工場が描かれており、明治期の錦絵の背景に工場や煙突が描かれたこととの共通性も窺える。
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吉貝純一郎資料 |
「大黒天御道具贈記」と題された書付。この資料は明治40年に「博多松ばやし」の大黒天の当番を務めた洲崎流(現大黒流)下対馬小路から、翌年の当番洲崎流糀屋町へ諸道具を引継ぐ際に手交された目録である。
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