目録 |
資料群名 |
解題 |
件数 |
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樋口潤二資料(追加分) |
樋口氏は、久留米藩の大庄屋で、2代目以降は浪人格となった。本資料は享保年間から明治時代に至る主に樋口家の土地経営に関する古文書である。これらの資料は、明治時代になされた分類状態のままで寄贈され、古文書学を考える上でも貴重なものといえる。
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大賀寛資料 |
江戸時代初期の博多の豪商大賀宗九の嫡子要貞の家系(上大賀)に伝来した資料で、大賀宗九、要貞、如心の画像、要貞の「覚書」や「大賀家記録」などの古文書類、さらには昭和4(1929)年の大賀宗九三百年祭に関する記録類や書跡類、新聞などからなる。大賀氏は戦国時代には大友氏に仕え、黒田氏の筑前入国前後に豊前中津から博多に移り、初代藩主長政~3代光之時に朱印船貿易、長崎警備などに藩御用商人として活躍している。大賀家は他に宗九3男信貞(宗伯、下大賀家)の家系があり、特に宗伯の活動が知られているが、本資料は同時期の上大賀家一族全体の活動や、藩政史上の役割を知る上で貴重である。
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永尾喜幸資料 |
永尾氏が大分県日田市在住中に入手したものである。寺院から払い下げられた書籍類の一括資料で、真宗関係の仏教書を中心に、一部儒学書や往来物などが含まれる。時期的には江戸時代前中期にかけてのものが多く、この時期の仏教の教義に関してのまとまった資料となっている。江戸時代の北部九州の仏教文化などを研究する上で貴重な資料である。
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小倉ステーションホテル資料 |
昭和33(1958)年に小倉駅が新築移転したときに駅ビルの4~5階で開業した小倉ステーションホテルで使用されたカトラリー類である。福岡では、昭和11年に岩田屋百貨店が「ターミナルビル」という宣伝文句で営業を開始したが、駅ビルで営業したホテルとしては、小倉ステーションホテルが九州で最初である。
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周防憲男資料 |
周防家は福岡藩3代藩主黒田光之により召し抱えられ、馬廻組(150石)に属した。幕末・維新期には、大島や姫島の定番を勤め戊辰戦争にも従軍している。本資料は同家に伝わる武家の礼装(子供用)や、「御先手使番」を勤める際に使用した「金磨半月指物」および、明治初年に同家が入手した福岡城武具櫓の備付け木箱などを合わせて11件19点である。特に前述の木箱類の中には、蓋裏の墨書から武具櫓内の兜入れであった箱があり、しかも明治3(1870)年5月の「御改革」時に払い下げられたことが判明するなど、福岡藩の櫓に関する貴重な情報を提供してくれるものもある。なお、明治期に入っての黒田家と福岡県のつながりを示す資料も含まれている。
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山中榮ー資料 |
山中氏は山陰の戦国大名尼子氏に仕え、江戸時代に入り、福岡藩3代藩主黒田光之代に席田郡平尾村や那珂郡那珂村で合わせて100石を与えられて家臣となった(後に350石)。本資料は山中家に伝わる甲冑、刀剣や装束類、寛政期の当主幸勝などが描いた絵画類からなる。特に「大江山絵巻物」は上、中、下3巻合わせて50mにもおよぶ巻子となって残されている粉本である。奥書によれば、岡山藩池田家所蔵の絵巻を福岡藩御用絵師尾形氏が藩命により模写したものを、後年、尾形氏の弟子となった幸勝が写したものとあり、福岡藩の絵画史、あるいは家臣の文化活動を知る上で貴重なものである。
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橋爪君子資料 |
橋爪君子氏は大正3年生まれ。氏の実家である中島家は旧柳川藩士であった。23歳で結婚した際に嫁入りの調度品として揃えたものの一部が、この資料群である。守刀は君子氏が御尊父から結婚に際して譲り受けたものである。無銘であるが備前忠吉作と伝えられ、小柄には「天保四年起龍斎宗珉」の陰刻がある。重箱等にみられる「雪輸に三松」紋は中島家の女紋である。男紋は「三つ目」である。袱紗は氏自作の刺繍をもとに1年かけて製作したもの。地は白羽二重である。
守刀と袱紗が組になった婚礼調度品は、福岡県における旧武家の近代における婚礼を知る上で貴重な資料といえる。
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進籐ハツノ資料(追加分) |
昭和61年度収集(寄贈)進籐ハツノ資料の追加分。進籐家は昭和初年まで東中洲で料亭「雪の家」を営んでおり、今回の収集分も戦前の博多の市民生活・文化が窺える資料が含まれる。また、戦中戦後の代用品として、旧軍の落下傘の絹紐を使用した薬籠も含まれており貴重である。
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松垣康生資料 |
川島浪速(1865~1949)
・芳子(1906~48)関係の資料である。松垣氏の父松垣忠国氏が川島芳子の治療にたずさわった関係で、松垣家に伝わった。芳子は、清朝王族粛親王の娘で、大正2(1913)年粛親王と親交のあった浪速に伴われて来日し、その養女として日本の教育を受けた。その後、上海事変前後に中国側情報の収集などに活躍し、男装の麗人・東洋のマタハリなどの異名を得たが、終戦後、漢奸の名のもとに死刑判決を受け、昭和23(1948)年に銃殺された。
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小宮博康資料 |
昭和2(1927)年の東亜勧業博覧会の絵葉書と昭和9年の福岡県勢要覧など福岡県の近代化に関する資料である。また、雑誌「みなと」は昭和21年頃の引揚の様子も知ることもできる貴重な資料である。
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瀧一郎資料 |
日本の陸軍で使用した水筒や日本の海軍の軍用食器など、太平洋戦争期の軍隊生活の様子を窺わせる資料である。いずれも瀧氏が収集し、保管していたものの一部である。
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柴田昭夫資料 |
日中戦争期の出征兵士の誓詞や、大政翼賛会のバッヂ、紙芝居など、日中戦争・太平洋戦争期の生活の様子が窺える資料である。一方誓詞は柴田氏の母カネ氏の前夫一義氏が書き遺したものである。
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三宅五郎資料 |
三宅家伝来の刀剣4口である。三宅五郎氏は黒田二十四騎の一人の三宅若狭家義の末裔で、4口のうち短刀(銘「清光」)が、『黒田家臣伝 下』の「三宅若狭伝」の項に書かれている「慶長五年豊後陣の時も、すぐれて働きければ、加水感じ賜ひ、賞美として清光の刀を賜りける」に相当するか否か、今後の研究待ちである。
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田中幸枝資料 |
ご本人がお茶の先生である関係で、妹さんから贈られた品物など。瀬戸天目碗、櫛、簪である。天目碗は中国南部のものを模倣した中世の国産品で、明黄灰色の胎土に深みのある鉄釉をかける。櫛と簪はともに鼈甲製で、近世のものである。
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安達健資料 |
昭和初期に安達家で使用された電気ストープと産着である。産着は昭和11(1936)年生まれの健氏が着用したもので、男児の成長を祈って兜の図柄が染められている。
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上瀉口武資料 |
元岡訓練所(大日本飛行協会福岡飛行訓練所)に関する資料である。元岡訓練所に在籍した昭和18(1943)年6月から20年1月までの間に上瀉口氏が撮影した写真と入手した飛行機のプロペラ(部分)である。元岡訓練所(福岡市西区大字今出)は、昭和16年に開設され、大学・高等専門学校の学生・生徒を対象に、在学中に飛行訓練を行った。戦時期の学生・生徒の動員の様子を具体的に示す貴重な資料である。
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田代稔資料 |
田代氏が復員したときの復員証明書と運賃割引証である。田代氏は中国大陸で終戦を迎え、昭和20(1945)年暮に広島県宇品港に上陸した。いずれも終戦時の復員・引揚の状況を知ることができる資料である。
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野田一誠資料 |
大正9(1920)年の九州日報と昭和初期の鉄カブトである。いずれも野田家に保管されていたもの。鉄カブトは満州事変で戦死した日本軍の将校のもので、野田氏の親戚が中国で入手した。
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林満喜雄資料 |
林家伝来の軍刀および仕込杖である。軍刀は無銘の昭和新刀であるが、革に包まれた拵に納められた陸軍の将校用である。戦時資料としても活用したい。
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森田愛子資料 |
森田氏が昭和12・13(1937・38)年頃使用した日の丸の小旗である。2本のうち1本はスフ製で、当時代用繊維として推賞されたスフの使用例でもある。木綿製のものには「警固校 五の六 森田愛子」とあり、警固小学校5年生時(昭和13年度)に使用されたことがわかる。
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梅澤直己資料 |
手書きで書き写した上、終戦後一部を墨で塗り潰した教科書である。奈良屋国民学校6年生だった梅澤氏が、昭和20
(1945)年の福岡大空襲被災後、疎開先で夏休みに書き写したもの。
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占部政彦資料 |
本資料は、福岡藩主黒田家から拝領したと伝えられるもの。保存状態がとても良く、後身ごろには刺繍で、黒田家の紋である藤巴紋が縫いつけられている。この資料は氏の祖母(故人)の実家光安家に伝来し、祖母の嫁入りの際に持参したもので、その4人の娘の共有のものであったところを、この度その一人を母にもつ氏が代表者となり寄贈したものである。
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大森邦明資料 |
東洋陶器小倉工場で製作された、昭和初期の子供用ランチ皿である。昭和19(1944)年大森氏誕生時に購入されたものであるが、図柄から、製造は太平洋戦争以前と思われる。
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河原田浩資料 |
明治43(1910)年に福岡で開催された第13回九州沖縄8県連合共進会の記念写真帖である。平助筆で有名な復古堂の河原田家に伝えられたものである。明治43年の共進会は、肥前堀埋立地(旧県庁周辺、現在のアクロス周辺)で開催された。復古堂も筆等を出品したと思われる。
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木村千代子資料 |
戦前に朝鮮半島で入手されたもの。俵壷。砲弾型の胴部に口が付き、胴部には格子目叩きを留める。同様の例は韓国南部の統一新羅時代にあり、また鴻臚館跡からも類似資料が出土しており、参考となる。
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中村彰作資料 |
百武万里(寛政6 (1794) ~安政元(1854))
は、長崎でシーボルトについてオランダ医学を学んだ。宗像郡福間村の医者の家に生まれ、後、博多市小路町に居を構えた。天保12年には、武谷元立等と共に、博多大浜で西洋医学による最初の人体解剖を行った。
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廣田次朗資料 |
板に四角のメダイ(メダル)を埋め込んだ板踏み絵と呼ばれる踏絵で、図柄はキリストの出産に際し、人間の原罪の拘束から解き放たれたマリア像を描いた「無原罪の聖母」である。廣田氏が昭和20(1945)年の秋頃に長崎市内の寺院から入手したものである。
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前田盛幸資料(追加分) |
昭和59年度収集分の追加である。盛幸氏の先代前田良三氏が戦前に着用していた羽織である。裏地に、上海での戦局をデザイン化した模様が描かれているが、その時期は特定できない。戦時期の資料として活用できるのはもちろんだが、デザイン的にも優れており、大正時代から昭和初期にかけてのモダンな雰囲気を伝える資料でもある。
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山本義太郎資料 |
敗戦後、博多港に引き揚げてきた人々を撮影した写真である。撮影者は山本氏。博多港は、昭和20年10月から22年4月まで海外引揚援助港に指定されていた。この間に博多港では約140万人の引き揚げと約50万人の送り出しが行われた。撮影者を特定できる博多港の引揚の写真としてたいへん貴重なものである。
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