目録 |
資料群名 |
解題 |
件数 |
点数 |
1 |
宮崎安尚資料 |
筑前秋月藩の大身の家臣だった宮崎氏の、江戸時代後期から廃藩置県後の秋月の乱前後、さらには昭和初期にわたる資料。これらが1鎧櫃資料、2貴重本・掛幅類、3別置貴重資料、4木箱(武術関係)、5籐篭一、6籐篭二、7籐篭三、8別置一括資料、9木箱(近代絵画・書跡等)、に大まかに分割され収納されていた。1は武具甲冑・武家装束で、中心となる黒漆塗頭巾形兜・紺糸威桶側胴具足は、大身の武家の所用にふさわしい精巧な作りで、デザイン的にも珍しいもの。2は、専用の木箱に入れられた近世書籍の写本が中心で、「黒田続家譜」、「筑前国続風土記」がある。3は特に後世に別置されたもので、宮崎家の歴史に関わる編纂物、歴史研究など。5~7も後世に分割、仮整理されていたもので、一部に藩政期の当主の勤役記録を含むが、大半は、近世・近代の当主に関わる御用状、覚書、願書、書状、書簡類。特に5には宮崎家の各当主の勤役関係、6には明治10年(1877)の秋月の乱の主要人物の一人宮崎伊六の関係資料が多数含まれる。8は2~7の整理をうけなかった資料で、一括され収納されていた。内容は藩政期の記録、書状類のほかに江戸後期の風説書き、瓦版、地図などが含まれている。なお目録化に当たっては、元の資料の1~9の収納状況(鎧櫃、籐篭、木箱)を尊重し、しかも最初になされている資料の分割を生かしたが、1~9のそれぞれの中では、可能な限り分類・編年や配列替えをおこなっている。
|
864 |
992 |
2 |
田中秀夫資料 |
博多下祇園町(現博多区祇園町)は、山笠を出さない流に属する町である。そこでは山笠が始まる7月1日になると、組ごとに「祇園寄」と呼ばれる寄合いを行っていた。本資料は下祇園町三ノ組における昭和11年から昭和62年までの寄合いの様子や収支を記録した集会帳とその時に祀る「祗園宮」の掛軸ほか祭具一式からなる。集会帳の戦中・戦後の頁には、組の民俗行事にまで国家の統制が及んでいたことが記されており興味深い。なお、この「祇園寄」は昭和62年を最後に現在は行われていない。
|
9 |
13 |
3 |
柏村豊憲資料 |
明治期の百人一首と、防空頭巾などの戦時資料である。いずれも柏村家に保存されていたもの。ゲートル、鞄は豊憲氏の父義正氏が使用したもので、たすきも入営の折のものである。防空頭巾は柏村家で製作され、使用されたもので、小型のものは子供用である。また、海軍の軍服は豊憲氏の伯父西海正雄氏のものである。
|
8 |
10 |
4 |
河村道博資料 |
福岡藩士河村氏は慶長6年(1601)350石で初代藩主黒田長政に仕え、2代忠之の時、島原の障で戦功をあげ、その後も勘定奉行などを歴任、加増を受け、忠之の末期には5,000石の家老にまでなっている。その後分家(1,500石と500石)し幕末まで続いた。本資料は、河村氏(1,500石)の系譜や、中期の藩主からの知行宛行状のほか、島原の陣に使った鑓(銘「若州住人冬廣住」)、その他幕末期の手控え帳、明治になってからの黒田長知の礼状等がある。
|
7 |
7 |
5 |
石釜トビトビ資料 |
早良区石釜に伝承される1月14日の晩の行事トビトビで使用される藁細工。子どもたちがトビと呼ばれる藁製のかぶりものを身につけ、各戸を訪問し、餅等と藁細工を交換する。
|
4 |
8 |
6 |
稲員コレクション |
寄贈者の父で、愛刀家で知られる故稲員稔氏が蒐集したもの。筑前刀は守次の脇差と無銘ではあるが金剛兵衛作とされる刀(拵付き)、肥前刀は広行の刀(太刀拵付き)と無銘ではあるが兼広作とされる刀(拵付き)の九州鍛冶4口である。それぞれ保存状態はきわめて良く、中世及び近世の筑前の、そして近世の肥前の代表的な刀工の資料として貴重である。
|
4 |
4 |
7 |
柴田一郎資料 |
大正9年(1920)の第1回国勢調査に関する辞令、メダル、記念章などである。一郎氏の父勘七氏が国勢調査員に任命された時のもので、一郎氏が保管していた。当時勘七氏は糟屋郡箱崎町(昭和15年<1940>福岡市に合併、現在の福岡市東区箱崎)に住んでおり、任命された国勢調査も箱崎町が対象であった。第1回国勢調査の資料であるとともに、福岡市合併前の箱崎町に関する資料としても貴重である。
|
4 |
4 |
8 |
井上正司資料 |
井上家に伝来した仏像及び銅製懸仏。仏像は木造普薩形坐像と木造十一面観音坐像で、像底や台座、光背に墨書銘が認められる。特に享保14年(1729)の修理銘には従来知られていなかった福岡仏師の名が記されており、近世の福岡仏師を知る上で参考となる。また、懸仏は中世の神仏習合の信仰形態を示す資料として貴重である。
|
3 |
3 |
9 |
柴田昭夫資料(追加分) |
平成7年度収集分の追加である。金属非常回収指導員の辞令と世界地図で、いずれも戦時期の市民生活に関する資料である。辞令は昭夫氏の父柴田吉次氏が指導員に任命された時のもので、昭夫氏が保管していた。地図は昭夫氏の叔父柴田一郎氏から昭夫氏が譲り受けていたものである。
|
2 |
2 |
10 |
嶋田克海資料 |
プロダイパーである嶋田氏が博多湾で潜水作業中に採集した資料2点である。1は、博多湾のベイサイドプレイス西南部の水深4mの海底で発見された。近世沖縄の荒焼壺に類例がある。2は、西公園の東に位置する福岡船泊の岸壁下の水深7mの砂層中で見つかった。博多湾は先史時代から現在に至るまで海上交通の拠点として機能してきた。今回の資料は、古代から近世にかけての交易の一端を知るうえで重要である。
|
2 |
2 |
11 |
久岡照文資料 |
中央区薬院で紙問屋を営む久岡氏が、紙の運搬に用いていた車力と手押し車。車カは福岡市大名で製作されたもの。また、手押し車は、紙や反物を運搬するのに使われる独特の形態のものである。
|
2 |
2 |
12 |
山崎千泰資料 |
江戸時代後期の福岡藩の国学者青柳種信(1766~1835)の子孫から寄贈された、種信とその妻土女(とめ)の墓誌。福岡市早良区祖原顕乗寺の墓地が改葬されたときに発見された。夫妻の埋葬された甕棺の石蓋で、天保6年(1835)、先になくなった土女のものは種信による履歴と和歌が刻まれ、同年12月になくなった種信のものは、子の種春の書いた履歴が刻まれている。文献資料で明らかにされている種信夫妻の死去時の様子が確認できる貴重な資料である。
|
2 |
2 |
13 |
柴田善六資料 |
西区西浦で昭和3年頃までおこなわれた旧暦正月14日の晩の行事ヨメジョの尻叩きで使われた祝い棒の復元。これを持った子どもたちが新嫁のいる家に押しかけ、祝い唄を歌った。
|
1 |
2 |
14 |
宗巧資料 |
西区西浦で製作・使用されたドンザ。漁民が着用した刺し子の着物である。巧氏の3世代前に作られたものと伝えられる。腰揚げのあることから、若年期に着用されたものとみられる。
|
1 |
1 |
15 |
濱地正明資料 |
正明氏の御尊父の初盆に際して製作されたもの。盆に祖霊等を迎えるために作られる盆棚の一形態で、糸島郡二丈町に分布する。これまでほとんど報告例がなく、貴重な資料である。
|
1 |
1 |
16 |
早舟美代子資料 |
西区西浦でおこなわれていた正月の飾りもの、幸木に使用した横木。早舟家の台所に懸けてあったもので、正月の間、ブリ・昆布・大根・スルメ・イワシが吊されるものであったという。
|
1 |
1 |
17 |
横山武雄資料(追加分) |
福岡藩3代藩主黒田光之の外孫である松寿院が5代藩主宣政に出した書状。松寿院は、光之の娘筑姫(宝厳院)と前橋藩主酒井忠挙との子で、名を房と言い、丸亀藩主京極高豊に嫁ぎ、京極高或を生んだ。「黒田新続家譜」等には、黒田光之の法事に親族として香典を贈る記事等が見られ、黒田家と親しく交際を続けている。この書状も宣政が叔父長清と共に彼女を訪ねる件に対する返事。昭和62年、平成5年収集分の追加資料であるが、それらの長府藩士関係の資料とは異なり、近代に入手したもの。
|
1 |
1 |