目録 |
資料群名 |
解題 |
件数 |
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齋藤義資料(追加分) |
平成10年度、12年度収集資料の追加分である。寄贈者の父・義氏が、昭和初期に医業を営む傍ら収集した郷土関係の資料および昭和前期以前の齋藤家に関する家資料からなる資料群である。大正時代に海軍志願兵であった秀三郎氏の遺品箱には、履歴を示す書類や書簡のほか、海軍砲術学校の教科書や試験問題なども多く含まれている。郷土関係資料には、団琢磨・金子堅太郎らの福岡出身者、渡辺清・安場保和らの県知事経験者などの書簡が含まれている。また、齋藤医院で掲示されていた戦時期の戦意高揚のためのポスターなどもある。
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市場直次郎資料 |
寄贈者の父、市場直次郎氏が長年にわたって収集してきた郷土玩具コレクション。全国的な規模で収集されており、現在では入手困難なものが多く含まれる。直次郎氏は明治37(1904)年生まれ。近世文学や民俗学を研究し、絵馬などの信仰民具や郷土玩具にも造詣が深かった。戦前戦後を通して高等学校や大学で教鞭を執ったほか、佐賀県文化財保護審議会委員等も務めた。著書に『西日本民俗文化考説』『ふるさと扇面譜』『日本の民俗 佐賀』などがある。
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坂田立子資料 |
坂田家ははじめ日向高鍋(現宮崎県)の秋月氏に仕え、その後、寛永9(1632)年、坂田権太夫が200石で秋月藩黒田氏に抱えられ、馬廻役等を勤めた。その子、忠左衛門は寛永15(1638)年の島原の乱で討死している。資料の内容は、近世・近代文書類、及び武器類である。近世文書類には領知判物の他、系図、書状類を大量に含み、かつ書籍、摺物、家相図、役中手控・覚類、家政関係記録が残る。書状の中には、島原の乱で戦死した忠左衛門の、陣中からの父宛の約6mにも及ぶものがあり、彼の遺書として寄贈者宅では特に大切にされた。近代資料では書簡、証文類が中心をなす。武器類は、無銘の大身鑓、柄付の鑓の他、袖がらみ、弓である。柄付きの鑓は黒毛鞘をもち、かつての状況を保つ。
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周防憲男資料(追加分) |
平成7年度収集資料の追加分である。旧福岡藩士周防家は、福岡藩3代藩主黒田光之に御鷹方として召し抱えられ、後に馬廻組に加わり、幕末には150石で地行1番丁に屋敷を構え、大島、姫島定番等を勤めた。本資料は周防家に伝来した近世・近代文書、地図絵図、武家装束、刀剣、近代生活資料類。近世文書類では、領知判物類、鷹匠関係資料や役中覚類、参勤交代関係の記録、戊辰戦争従軍日記があり、絵図類では福岡城関係の絵図、幕末の軍備図等が含まれる。また戊辰戦争従軍の際の陣笠、韮山笠などの軍装類や、姫島定番時代に作成したことが墨書によって知られる将棋盤等、古文書に裏付けられた装束類、生活史・文化史的な道具類もある。近代では家関係の文書の他、寄贈者宅で使用された裁縫台や張り板、蒸籠、杵といった生活用具等も各種残っている。
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草野義輔資料 |
寄贈者の祖父、草野忠右衛門氏が着用していたものを中心とする着物類。大分県日田市の草野家は、日田では広瀬家と並ぶ旧い商家で、祖先は寛永18(1641)年に久留米市草野町から豆田に入り、元禄元(1688)年に現在の場所に屋敷を構えたという。製蝋を生業とし、商圏は京都・大阪まで広がっていた。屋号は「枡屋」。忠右衛門氏は明治22(1889)年生まれで、若い頃は東京で暮らし、その後家を継ぐために日田に戻った。本資料は羽織、長着、袴等が多く揃い、東京・日田双方の時期のものが混在する。
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菰田宗二郎資料 |
美術院国宝修理所の技師であった菰田宗二郎氏による仏像修理記録写真や修理設計書など。菰田氏は長年にわたり九州地方の仏像修理に携わっており、この中には九州に残る主な作品の解体状況や今日では見ることのできない墨書銘など、学術的価値の高い写真が多数含まれる。また、昭和31年の前原市千如寺の丈六千手観音像や翌年の太宰府観世音寺の仏像修理時の写真など、巨像の修理状況を窺わせる写真なども散見される。福岡および九州地方の彫刻作品を研究するための基礎的資料として貴重である。
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篠原サキ資料 |
寄贈者の母、田中ミネヨ氏の嫁入り道具。八女市福島京町の田中家は、戦前まで乾物商「播磨屋」を営んでいた。ミネヨ氏は明治28(1895)年、八女郡上広川村の酒造家である諸藤家の次女として生まれ、大正時代の初めごろ田中家へ嫁いだ。諸藤家は戦争末期に酒造りをやめるまで清酒「瑞穂」を生産していた。嫁入り道具の多くには女紋としての裏紋が施されており、娘への紋の継承がはっきりと見て取れる。また、盥は3代にわたって産湯に使われており、嫁入り道具がその後どういう意味づけをなされてきたかがわかる資料となっている。
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上原直繁資料 |
洋和漢薬種製造販売元「是韓堂山田屋」の資料。近世の看板類、製剤道具の一部、昭和30年代の製品とその原材料などがある。是韓堂山田屋は、寄贈者の先祖が文政年間に唐人町に開業した「薬種商」漢方薬製造販売元。製品には「中風薬」「山田ふり薬」「保臓円」「龍脳円」などがあった。明治時代以降は漢方だけではなく、西洋医学の薬も販売するようになった。当時の許可証には「洋和漢薬種販売」という名称があったという。山田屋は戦中の唐人町の大火を乗り越えて、昭和40年代まで存続した。
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光富勝彦資料 |
福岡藩の重臣久野家に仕えた光冨家伝来の近世・近代文書類。光冨氏は播州以来の武士で久野氏に属した。黒田如水が大友氏と戦った慶長5(1600)年の石垣原の合戦では久野家の若当主重義と共に戦死するなどしており、江戸時代を通じて久野家で重きをなしている。なお、武具類は平成11年に光冨勝義資料として寄贈されている。内容は、幕末に光冨氏の一族が江戸の剣豪島田虎之助に伝授を受けた際の記録や関連書状類のほか、和歌、漢詩類、近代の布達類や家関係の書類等である。既に寄贈者の親族等が仮整理を行っており、特に重要として残されてきた資料群である。
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10 |
旧上魚町呉服商店街2組町内会資料 |
町集会所に保管されていた資料群。山笠・能当番・松囃子関係の資料は、所謂「雷鳴事件」の顛末を示す資料のほか、明治中期から昭和初期を中心とする流の運営の様子がうかがえる。町内会関係の資料には、昭和10年代の町内会活動の記録が含まれ、戦時下の町内会活動の実際がうかがえる貴重な資料である。
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相場国次郎資料 |
寄贈者の父・虎喜氏(明治36・1903年生まれ)関係のものを中心とする資料群で、いずれも寄贈者宅で保存されていたものである。虎喜氏は、博多の足袋会社・丸二足袋で丁稚として働き始め、のちに独立して雑貨屋や仕立屋を営んだ。大正時代から昭和40年代頃までのアルバム2冊には300枚以上の写真が貼られており、山笠関係の写真や大正時代の博多の商家の丁稚の風俗をうかがうことができる写真など、貴重なものが多く含まれている。他に、虎喜氏が丸二足袋で働いていた当時の道具、国勢調査員を務めた際のバッヂなどもある。
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清沢又四郎資料 |
旧福岡藩士上野家に伝来した甲冑や陣羽織等の衣装、および近代の袱紗類。江戸時代後期の上野家は5石2人扶持を受けており、幕末の当主就賢(1812~1897)が、太宰府の五卿の世話、京都藩邸の庶務、木津川普請等、実務面で活躍している。その子弥太郎氏の娘徳子氏は清沢家に嫁し、その関係で、上野家にあった甲冑、装束類が清沢家に伝わった。袱紗は徳子氏が嫁入りの際に持参したもので、納められている箱には明治34(1901)年10月の墨書がある。兜は古風、伝統的な六十二間星兜で、しかも吹き返しに立葵の紋があり、陣羽織等に共通の梅鉢紋ではないため、明治以降に上野家が入手した可能性が大きいが、徳子氏の婿養子又四郎氏に、母の実家のものとして受け継がれ、保管されていた。なお、徳子氏の叔父春平氏は黒田家の家令を務めている。
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上魚町葛城地蔵尊保存会資料 |
上魚町葛城地蔵尊保存会が、地蔵堂に隣接する町集会所に保管していた葛城地蔵尊関係の資料群。明治時代に住職もいない地蔵堂が存続を認められなくなる可能性があるのを危慎し、地蔵堂を廃仏にし(明治44年)、個人的に祀るという方法で、地蔵堂の存続を図った上魚町の事例がわかる資料群。昭和30年代に町内会と葛城地蔵尊保存会を分離させる過程の資料も含み、あいまいな形で町で共有されていた宗教的な施設が、維持され続けるに至った過程を知ることができる。
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加藤正秀資料 |
福岡藩大老三奈木黒田家の有力家臣であった加藤家に伝来した武具類。加藤氏は本姓荻本氏で、豊前国上毛郡成恒の出身。初代正興が黒田孝高(如水)に仕え、三奈木黒田氏初代の黒田一成の与力となり200石を与えられ、加藤を名乗ることを許された。その後の度々の加増で380石となって、家臣中最大の家となり、代々三奈木村に居住し留守居を勤めた。甲冑は、六角錐の上部を切り落とした形の突盃形の兜と、黒糸威胴丸具足で、実戦的な甲冑。革製陣羽織、背旗等が付属する。刀剣は、三奈木黒田家の定紋入のハバキを持つ刀(無銘)や、信国派の刀の他、黒田長政が考案し、筑前の刀工信国派によって造られた袋鑓がある。これら刀剣類は代々加藤家男子が成人後に相続したもの。他に近代の当主の軍隊勤務関係の資料としてサーベルの外装や、軍刀拵等もある。
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財団法人 亀陽文庫資料 |
福岡藩士庄野家伝来の刀剣・刀装具類。庄野氏の祖は豊前の地侍であった庄野半太夫で、黒田家に仕え朝鮮出兵などに従軍し、筑前入国時には初代福岡藩主長政から200石を与えられた。福岡藩の御手伝普請等に従事した他は、主として財政方を歴任し、元和年間には600石となり大坂御蔵奉行や江戸の元締め役に就任している。なお、その後の当主は、御傍筒頭、町奉行、御用方、御目付等を務めている。刀剣はいずれも無銘だが、拵、刀装類は、昆虫や植物などの大胆な意匠が見られる。ほとんどは中級武士が生活のなかで普段差しとして使用したことが窺える資料である。
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「黒田家・その歴史と名宝展」実行委員会資料 |
筑前福岡藩の家紋である黒餅紋、藤巴紋の入った漆器類。平成14年度の福岡市博物館特別展「黒田家・その歴史と名宝展」の出品資料として、実行委員会によって発見され保持されていたもの。内容は、おもに婚礼道具として調えられたと考えられる嗽(すすぎ)茶碗や湯桶等の身嗜みの用具と黒田家における儀式等のために揃えられた藤巴紋入の盃、椀、膳などの食器類からなる。飯、汁、菜などのそれぞれの用途で形が異なるなど、多くの種類を含む。この他に薬入れなどもある。
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林ツル子資料 |
寄贈者の夫・昌治氏(明治11・1878年生まれ)関係の写真類で、いずれも寄贈者宅に保存されていた資料である。昌治氏は、久留米出身。熊本の医学校を卒業して、三井本洞炭鉱(現・直方市、小竹町、赤池町)の病院に勤務、昭和初年に城西で開業した医師であった。明治30年代に福岡や久留米の写真館で撮影された名刺判写真のほか、大正時代の三井炭鉱の関係者、病院関係の写真などが含まれている。特に、アルバムに貼られた写真には撮影日などのクレジットがつけられており、貴重な資料である。
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三田村寿美子資料 |
太宰府亀井家と呼ばれた大壮の家系に伝わった、亀井南冥と曇栄、昭陽などの書跡、および大壮の肖像画。亀井大壮は亀井南冥の次男で、名は昇、雲来と号した。幼くして出家し、叔父曇栄の弟子となるが、その後、還俗して医業を学び、はじめ甘木、後に太宰府に開業、安政2(1855)年83才で没した。箱の中には寄贈者の母による箱書きや、かつて何らかの展示会に出品した際の覚え書き等も含まれ、貴重資料として伝えられてきたことが窺える。
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原田鉄次郎・繁子資料 |
昭和7(1932)年から16年にかけて発行された大型の書籍で、布張りの表紙に、写真が多数挿入されている。入手の経緯は不明であるが、いずれも発行時に購入され、寄贈者の自宅に保管されていたものと考えられる。
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宮徹男資料(追加分) |
昭和59年度、63年度、平成9年度、10年度収集資料の追加分である。太宰府天満宮境内の包丁塚関連の資料で、いずれも寄贈者が収集したものである。包丁塚は、昭和47(1972)年に、西日本鮨調理研究福寿会が創立20周年記念事業として建立したものである。日本で唯一料理の祖神をまつる高家神社(千葉県千倉町)の宮司が記した四条流の祖をまつる「四条公祭」の由緒書も含む。他に、「食」をテーマにした戯画も含まれる。
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小西信二資料 |
江戸時代後期の博多の文化人である奥村玉蘭(1761~1828)が、太宰府天満宮に寄進した絵馬堂の瓦4点。平成5年に同絵馬堂の瓦の葺き替えがなされた際に、寄贈者が記念として保管していたもの。玉蘭は博多中島町の醤油醸造を営む奥村家を生家とし、福岡藩の儒学者亀井南冥に学びその影響を受けた。家業を弟に譲った後は太宰府に「玉蘭堂」と称する草庵を建てて移り住み、太宰府の史跡を顕彰し、遺跡地を買い上げて天満宮に寄進している。瓦には「太宰府書画堂」、「文化年製」といった刻字があり、文化9(1812)年に、玉蘭が天満宮に絵馬堂(書画堂)を寄進したこととの関連が窺える。
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竹中宏幸資料 |
寄贈者の父・寅雄氏が撮影した写真(寄贈資料は複写写真)と昭和前期発行の公債証券からなる資料群である。いずれも寄贈者宅に保存されていた資料である。写真は、鎌倉と東京で撮影されたもので、福岡出身の首相である広田弘毅の夫人を写したスナップ写真も含まれ、撮影者・撮影場所・撮影時期・被写体がはっきりとしている点で、当時の風俗を知る資料としても貴重なものである。
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安藤良介資料(追加分) |
平成2・10・12年度収集資料の追加分である。明治26(1893)年の暦は福岡市御供所町(現博多区)の玉木政治が出版したもので、福岡市における近代初期の印刷事情を窺わせる資料である。また戦死通知は、昭和23(1948)年に福岡市若宮町(現中央区今泉・大名付近)の杠スイに宛て福岡市長が出したもので、3年前の昭和20年4月に陸軍中尉杠友亮が戦死していたことを、事後に伝えるものである。いずれも寄贈者が収集したものである。
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山崎宮市資料 |
福岡藩刀工信国派による十文字鑓(柄付き)と、相撲の矢倉模型。共に元西部ガス社長の故山崎宮市氏(昭和55年没)が所蔵していたもので、近年まで中央区荒戸の同氏旧宅に保管されていた。矢倉の模型は宮市氏が昭和30年後半頃、大相撲の本場所を福岡に誘致し、九州場所として開催することに尽力したため、当時の春日野親方(元横綱栃錦)から昭和40年に贈られたものである。
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草場隆資料 |
寄贈者の父が入手した軍刀という。中心(なかご)に切られた銘から、この軍刀は昭和17(1932)年に刀工森脇正孝によって鍛造され、さらに菊水紋と「湊川神社」とあることから、楠正成を祭神とする湊川神社(神戸市)において、海軍将校に供給するために鍛錬された菊水刀であることがわかる。
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柴田誠資料 |
福岡藩御用絵師衣笠氏の屏風6曲1隻。作者の探谷(嘉永5・1852~大正元・1912)は、衣笠家の第8代で、名を守正という。家督を継承するも明治維新となり、御用絵師の任を解かれて衣笠家最後の絵師となった。御用絵師解任後は、市中で没年まで画塾を開き、後進の指導にあたった。この画塾から郷土関係の代表的日本画家冨田渓仙が出ており、渓仙の最初の師としても名前を残している。この屏風絵は、蝦蟇仙人や鉄拐仙人など中国の群仙を描き、狩野派をおさめた探谷らしい筆致と構図をみせる。6曲1双屏風の向かって右隻と考えられるが、明治40年の墨書のある屏風箱が付随しており、箱は1隻用なので、これで完結している作品かもしれない。年記銘はないが、作風からして晩年のものと思われ、屏風箱の制作と近い時期の作と思われる。画面右下に「衣笠守正」の落款と、白文方印「衣笠探谷」がある。
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大音繁太資料 |
金の鉢巻きを飾りに持つ烏帽子形兜と、緑革威の二枚胴具足。籠手などの小具足と櫃が付属する。福岡藩の家老・中老であった大音家に伝来した甲冑であるが、江戸期から伝来した品ではなく、近代に同家ゆかりの家から入手したものとされる。現在伝わっている話によると、もとは大音家の家臣の家のものではなかったかとされる。大音家は、慶応期には4,500石の中老で福岡城内に屋敷を持ち、宗像郡の預りとなっていた。その子孫の寄贈者のもとには、古文書、画像、福岡藩主よりの拝領兜などが伝わっている。
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藤田弘資料 |
福岡藩祖、黒田如水(孝高)が自分の茶室の壁にかけたとされ、如水の茶における精神を示すものとされてきた書「茶堂定」の写し。「茶堂之記」とも呼ばれる。慶長4(1599)年に書かれたとされる同書は、「黒田家譜」などに如水の文化的な遺事として紹介されているため、近世以降、茶道愛好家などにより転写され、茶道の教本、あるいは茶掛けとして、世に広まった。
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中村正人資料(追加分) |
平成2年度及び5年度収集資料の追加分である。江戸時代後期の福岡の商家に生まれた、歌人・大隈言道旧居「ささのや」の写真入り絵葉書。戦前の発行であるが、寄贈者の先祖が大隈言道の和歌の弟子であった事から、収集し保持していた。言道は、古今集的な歌風から出発しつつ、地元福岡に密着し、身近な対象物を詠み込んだ独自の歌風を展開させた人物。門人には野村望東尼等がいる。晩年には上方に滞在して歌風を広めようとし、文久3(1863)年には「草径集」などを出版する。慶応3(1867)年に帰国、翌明治元年に「ささのや」で死去した。現在この旧居は取り壊され、公園となっている。
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長尾徳三郎資料(追加分) |
平成6年度収集資料の追加分である。江戸時代、旧博多店屋町下の年齢別集団である「若者中」が、共有具の収納に使用した長櫃である。山笠の台幕や、放生会の幕だしで使用する、町名の入った幔幕を入れていたと思われる。店屋町下は、現在の博多区店屋町にあたり、当時は魚町流(現福神流)に属していた町である。櫃外には、店屋町下若者中の墨書、櫃蓋裏に、慶応5(1852)年5月 店屋町下若者中9名の墨書がある。また、櫃の実の内側にも、文久元(1861)年6月として4名の若者中の名前が連記されている。蓋表には「幕箱」と墨書がある。旧博多の各町は、子ども、若者、中年、年寄という構成年齢別集団からなっていた。そのなかでも、若者組は山笠・松囃子などの実働隊としての役割を持っていた。彼らは、多くの共有具を所有するのが普通であったが、その多くは戦災によって失われている。
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吉井利雄資料(追加分) |
平成4年度収集資料の追加分である。少年団の記録(旧上魚町関係資料)の記載から、昭和15(1940)年5月19日に、紀元2,600年奉祝のため東公園へ行き撮影した記念写真と推定される。当時、尋常小学校5年生であった寄贈者も参加している。旧上魚町呉服商店街2組町内会資料の中の「博多上魚町少年団記録」に記された上魚町少年団(昭和13年10月創立)の活動を裏付ける貴重な資料。「博多上魚町少年団記録」とともに、福岡の少年団の活動の実際を知ることのできる資料である。
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西村フジ子資料 |
「神風」と記された鉢巻きである。寄贈者の妹片山達子氏が所持していたもの。片山氏は、女学校卒業後の昭和19(1944)年4月から女子挺身隊の隊員として三菱重工業熊本航空機製作所に動員されており、同年の開戦記念日である12月8日に入手したものと考えられる。戦後も同人が保管していたが、没後、姉である寄贈者に遺品として譲られた品である。
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中村洋一資料 |
平成10年度に、映画チラシとともに寄贈された映画ポスターである。いずれも寄贈者が収集したものである。なお、チラシの目録は第17号および第18号に収録した。
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