目録 |
資料群名 |
解題 |
件数 |
点数 |
1 |
櫛田祐一郎資料 |
旧福岡藩士の家に伝来した古文書群。櫛田氏は播磨の出身で、16世紀末には赤松氏、福島氏、垣見氏と主君を替えた。関ヶ原の合戦では西軍側の一員として垣見氏の居城である豊後国富来城を守備したが、黒田孝高の攻撃を受け敗退し、それを機に400石で黒田家に仕えた。その後、肥後加藤家への出奔、黒田家へ再出仕後の家名断絶等を経験したが、江戸時代後期には再興し、そのまま明治維新を迎えた。内容は、「黒田家譜」の写本の他、由緒・系図類、所領関係、書状、武術関係である。なお当家は福岡藩儒として朝鮮通信使の接待役を勤めた櫛田家(貝原益軒に師事した櫛田琴山が初代)の本家に当たる。同家の文書については『福岡県近世文書目録』第4集(福岡県文化会館 1975年)がある。
|
98 |
118 |
2 |
佃郁子資料 |
明治時代から昭和前期の紙幣・貨幣、東京オリンピックや天皇在位50周年記念などの記念コインなど。いずれも、特に意識的に収集していたものではなく、寄贈者の父が残していたものや、寄贈者が使わずにとっておいたものなど。
|
45 |
159 |
3 |
赤松元興資料(追加分) |
平成4年度、9年度収集資料の追加分である。福岡市内を走っていた路面電車の交通調査表や収入印紙、郵便切手など。郵便切手は明治時代から昭和前期のものの他、昭和20年代のもの、タイなど外国の郵便切手も含む。いずれも寄贈者宅に保管されていたものだが、収集の経緯などは不明。
|
32 |
443 |
4 |
松尾茂雄資料 |
大正時代から昭和初期の福博の名所絵はがきなど。都府楼の絵はがきを1枚含むが、その他は、いずれも西公園、東公園、九州帝国大学などの当時の代表的な福岡の名所を写した絵はがき。寄贈者宅に保管されていたものだが、収集の経緯などは不明。
|
27 |
27 |
5 |
池田タカノ資料 |
個人的な祈願では、かつては自ら小絵馬を作っていたが、戦後になると絵馬屋などで購入した既製品を用いることがもっぱらとなった。福岡では、俗に博多小絵馬と呼ばれる鳥居状の形をしたものが多く使われた。現在もこの博多小絵馬の制作をおこなっているのが寄贈者である。寄贈者は大正6(1917)年生まれで、絵馬を描きはじめて40年以上になるという。きっかけは、祖母とともにいつもお参りしていた崇福寺前の絵馬屋さんからの勧めだったという。父が副業で絵馬師をしていて、本人も絵が好きだったことから絵馬の制作に携わり、以来、年間1,000枚以上の絵馬を作り続けてきた。現在は2人の娘と共に制作を続けている。
|
26 |
26 |
6 |
餘田幸夫資料 |
平成4年度寄託の寄贈への切り替え。寄贈者の夫が保管していた明治期の曲淵村の字図や名寄帳などである。
|
19 |
24 |
7 |
藤野大助資料 |
寄贈者の自宅に保管されていた郵便貯金通帳や保険証券、証券保管証などである。いずれも寄贈者とその家族のものである。通帳は戦時債券の購入を目的とした積立のもので、この積立により15円の戦時貯蓄債券1枚と、戦時報国債券の5円券1枚、10円券2枚の、4枚の戦時債券が購入されたことが証券保管証によってわかる。
|
17 |
24 |
8 |
蒲池敬造資料 |
寄贈者の父が収集し、保管していた昭和16(1941)年8月から11月までの新聞11部。読売新聞5部、同夕刊3部、大阪毎日新聞1部、東京日日新聞1部、国民新聞夕刊1部と、複数紙にわたっており、意図的に収集・保管されたことが窺われる。
|
11 |
11 |
9 |
嶋井安生資料 |
博多の豪商嶋井家に伝来した歴代当主の肖像画。戦国期から織豊期にかけて活躍した嶋井宗室(?~1615)をはじめ、養嗣子の8代信吉(蘭谷道室)、9代正則(花詠宗吟)、14代久左衛門(蘭翁芳室)、16代茂好(晩斎宗節)、17代茂昭(鶴洲宗夢)、18代茂軏(西来宗禅)、19代茂崔(徳林宗哲)、22代安嬉(融巌儀達)、23代安之助(大道長安)、10人の肖像画が残る。本資料は平成8年度寄託「嶋井家資料」の一部を寄贈へ切り替えたものである。
|
10 |
10 |
10 |
野芥於古能地蔵尊史跡保存会資料 |
早良区野芥4丁目にある於古能地蔵は、縁切地蔵とも呼ばれる。伝説によれば和銅年間、重留(早良区)の土生長者の息子・兼縄が、長者原(粕屋町)の大城長者の娘・於古能姫と結婚することになった。ところが兼縄が出奔したため、父は使いを出して頓死と偽ったところ、この報せを聞いた於古能姫は野芥で自害してしまった。これを哀れんで建てられたのが、この地蔵だという。地蔵の石を削って飲み、同時に相手にも飲ませると、その悪縁を切ることができるといい、近年では、男女の縁のみならず、あらゆる悪縁を切るとして、各地から参拝者が訪れている。地蔵堂は昭和60(1985)年に火災に遭い、翌年再建した際、於古能地蔵尊史跡保存会が結成された。毎年8月24日の地蔵祭りの際には堂内に納められた一切の絵馬、祈願文を焚き上げている。
|
10 |
10 |
11 |
山喜多時世志資料 |
寄贈者の父で、画家の山喜多二郎太氏が描いたスケッチ。いずれも、二郎太氏が福岡に在住していた昭和初期に描かれたものと思われる。昭和2(1927)年に福岡市大濠周辺で開催された東亜勧業博覧会の会場を描いた1枚には、二郎太氏の手で「昭和二年四月東亜博にて 二郎太」とある。スケッチの裏面にそえられた説明文は寄贈者が記入したものである。
|
8 |
8 |
12 |
小西日出子資料 |
小西家は板付の農家で、一帯に居住する小西一族の本家筋にあたるという。資料はいずれも小西家が所蔵していたもので、什器類と勲章・徽章類である。什器類のうち松鶴図平盃・盃台は、婚礼に使用されたと思われるものであるが、少なくとも戦後は使われていない。高砂図会席膳は、法事などの際に使われていたものである。
|
7 |
16 |
13 |
豊嶋キヌヨ資料 |
寄贈者の祖父川井正進氏(明治2〈1869〉年9月生)が、娘勝子氏(寄贈者の母、大正元〈1912〉年生)のために用立てたもの。弁護士であった正進氏は長野県生まれ。明治30年頃久留米から福岡市大名町に移る。本資料の内、筑紫琴は大正の初めに久留米で購入したもの。購入時に、柳川藩の姫が使っていたものという伝承があったという。筑紫琴は、筑紫流筝曲に使われる琴で、近代俗琴の基となった流儀とされる。久留米を中心に流行した。袱紗は、勝子氏が昭和16(1941)年に豊嶋氏との婚礼に際して準備したもの。掛け袱紗には祝儀用と不祝儀用があり、出し袱紗もある。風呂敷はわざわざ染めたもの。キセルは、正進氏が使用していたものである。
|
6 |
6 |
14 |
林ツル子資料(追加分) |
平成14年度収集資料の追加分である。寄贈者や寄贈者の夫が収集し、自宅に保管していた絵はがきの一部。第3回国民体育大会記念(昭和23年)と題した絵はがきセット、関門海底国道トンネル開通(昭和33年)記念絵はがき、熊本大博覧会(昭和37年)の絵はがきなどからなる。
|
6 |
6 |
15 |
松井俊規資料 |
寄贈者の先祖で、江戸時代、城下町福岡の湊町で酒造業、金融業を営み、年行司として町政でも活躍した加瀬家の当主画像。加瀬家は戦国期には原田氏の家臣とされ、近世に入り早良郡で酒造業を営んでいた。17世紀後半に福岡に移住し、酒造業、金融業等で事業を拡大した。画像は加瀬家中興の祖とされる5代加瀬茂作(元実)、6代茂作(元春)、7代嘉兵衛(元将)およびお近代の当主金兵衛など4人のもので、羽織には加瀬家の定紋二つ酒甕紋がある。5代茂作(元実)は福岡藩の銀主として掛屋業務を拡大し、藩の御用商人としての地位を高めている。なお、加瀬家関係の古文書は、昭和60年度に安川巌収集資料として当館に寄託されている。
|
6 |
6 |
16 |
吉原美代子資料 |
資料は、寄贈者が母あるいは叔母から受け継いだ衣類・袱紗・秤である。寄贈者は吉原ナリの次女として生まれ、叔母であった吉原ハルの養女となったため、これらの資料がどちらから譲り受けたものであったかはっきりしないという。吉原家は、福岡下名島町(現・天神3丁目)に「洗粉屋」という屋号で店を開いていたが、戦前にはすでに洋品店であった。
|
6 |
6 |
17 |
吉原芳子資料 |
寄贈者は故・山内諫氏の娘で、本資料群は寄贈者が父から受け継いだものの一部である。諫氏(明治28〈1895〉~昭和57〈1982〉)は、博多織において独特の地位を築いた人で、手織りにその特徴があった。「その緻密で入念な織技から生まれる独特の風合いには他の追随を許さぬものがあり、博多織着尺の旗手として独自の世界を築いた」(『福岡県の工芸 伝統と現代』)とされる。昭和43年に県指定無形文化財技術保持者に認定。関連資料として、昭和58年に福岡市立歴史資料館に諫氏の妻・千枝氏から9件の博多織関係資料が寄贈され、のち当館に移管されている。
|
5 |
5 |
18 |
安藤良介資料(追加分) |
平成2、10、12、および14年度収集資料の追加分である。いずれも寄贈者が収集した近代資料。本資料の内、明治38(1905)年3月4日付の大阪毎日新聞には、福岡出身の演劇家川上音二郎の記事が掲載されている。また鉄カブトには「福岡市住吉」(現博多区)の住所が記載されており、戦時期に福岡で使用されたものであることがわかる。
|
4 |
4 |
19 |
奥村準二資料 |
江戸時代後期に博多年行司を務めた奥村家伝来の刀剣。同家は博多石堂町で醤油製造業を営み、代々次吉を名乗っていた。10代藩主黒田斉清の時代の当主次吉(千代吉)が苗字・帯刀を許され、筆頭家老三奈木黒田家の養女を妻とした。文化元(1804)年には、その子次吉(萬平)も年行司職に就任している。資料は年行司としての格式を示す脇指と短刀で、いずれも精巧な鍔、小柄、小刀が付属する。本年度寄託分の陣笠・陣羽織・旗等と一括される資料である。なお、「筑前名所図会」の作者奥村玉蘭は当家の本家筋から出た人物で、当館所蔵の関連資料には、奥村俊介氏から寄贈された玉蘭関係資料と、平成14年度に奥村博司資料として寄託された肖像画がある。
|
4 |
4 |
20 |
諫山市朗資料 |
寄贈者の父が収集した日本全図と武鑑。日本全図は嘉永2(1849)年の出版、撰は高柴英三雄、板元は「紅英堂」「蔦吉」の呼び名で幕末期に活躍した江戸の地本問屋蔦屋吉蔵。方位を示す記号、経度と緯度の表示等に近代地図の萌芽が見える。同図は東北大学・日本福祉大学・明治大学・岐阜県図書館等も所蔵する。武家の姓名・紋所・知行高・居城・家来の姓名などを記載した武鑑は寛政8(1796)年刊で、板元は須原屋茂兵衛。旧蔵者により実際に使用されていたことをうかがわせる加筆・訂正が何ヶ所もある。
|
2 |
2 |
21 |
白水宗邦資料 |
素焼きによる人体(原寸大)の骨格標本の一部。作者は大正・昭和期に活躍した博多人形師の白水熊次郎で、その2男で、博多人形師である寄贈者が所持していたもの。近代を代表する博多人形師であった小島与一、原田嘉平らは、大正3・4(1914・15)年に京都帝国大学福岡医科大学(後の九州大学)教授桜井恒次郎の指導により、解剖学の講義を受け、同時に解剖実習を行っている。この実習に白水熊次郎も名を連ねており、本資料はその際に制作したものと考えられる。博多人形は、人体解剖実習を機に写実的な表現を志向するようになり、玩具から美術品へとジャンル的に昇華を遂げたと評価されている。近代における博多人形の歴史を窺ううえで極めて貴重な資料である。本資料のうち、上腕骨・橈骨・尺骨はそれぞれ2つに折損している。また手の骨は基節骨より先が3本分失われている。
|
1 |
12 |
22 |
古田鷹治資料 |
筥崎宮で正月3日に行われる「玉競り」で使われる木製の玉を洗うためのタワシ。平年はこれを12束、閏年は13束つくるきまりになっている。2個の玉を、このタワシを数個ずつ使って油で洗う。
|
1 |
3 |
23 |
横山淳一資料 |
川上音二郎銅像台座の銘文の拓本。寄贈者が製作した。台座は円筒形のため、拓本は2枚にまたがっている。谷中霊園の中央通路の両脇には石碑や銅像などが集められており、「碑地」として霊園事務所が管理している。霊園事務所の記録によれば、大正3(1914)年5月に、音二郎の息子雷奇知に碑地の使用が許可されている。銅像は、明治44(1911)年11月に音二郎が死亡した後、高輪・泉岳寺に建てられたが、大正3年9月に谷中の現在地に移されたことが、この銘文からわかる。銅像本体と金属製のプレートは、昭和17(1942)年11月、金属供出の為に撤去され、現在は石製の台座のみが現地に建っている。
|
1 |
2 |
24 |
相原安津夫資料 |
寄贈者の父が収集した明治末期の福岡県の地図で、寄贈者が保管していたもの。『大日本管轄分地図』は大阪市の後藤常太郎の著作を、同じ大阪市の中村由松(芳松)が発行した日本全国の分県地図で、早い地域では明治20年代から発行されていた。本資料はその福岡県版で、明治41(1908)年に発行されたものである。
|
1 |
1 |
25 |
加藤藤次郎資料 |
博多区御供所町、旧上桶屋町5番地で営業していた医薬品卸業・加藤美尚堂の屋根に掲げられていた看板。加藤美尚堂は戦前に寄贈者の父加藤藤次郎氏が設立し、戦後には同25番地に店舗を移転、昭和32(1899)年まで営業した。藤次郎氏はその後、福岡市議会議員を務めた。
|
1 |
1 |
26 |
久羽忠明資料 |
筑前国の郡村を描いた国絵図を屏風仕立にしたもの。各郡を黄・桃・紫等で色分けし、郡名は朱の長方形の枠内に記す。村名は小判形の円内に収め、枝郷はその周辺に「○○ノ内□□」の様に配置する。各街道は朱線で示し、村内を通る場合は村名に上書きする。地図の精度は高く、方角を表す東西南北の記号には近世後期の特徴が見える。村名は支配別で、無色=福岡藩、赤色=中津藩、青色=対馬藩、黄色=幕府領、口枠青色=秋月藩の様に色分けしており、その分布から文政元(1818)年以降の作成であることが分かる。
|
1 |
1 |
27 |
小島國義資料 |
アジア太平洋博覧会(会期:平成元年3月17日~9月3日)に際し、日本道路公団が発行したハイウェイカード。関門橋の全景写真に、博覧会のマスコットである太平くん・洋子ちゃんが印刷されたデザイン。寄贈者が購入し、使用後、捨てずに保管していた資料。
|
1 |
1 |
28 |
津野勝仁資料 |
福岡藩の幕末の歌人で、勤皇家でもあった野村望東尼の肖像写真。望東尼の姪が嫁いだ津野家に伝わったもの。『招月望東禅尼遺品目録』(福岡市立歴史資料館編 1973年)のあとがきによると、本資料は、戦前に望東尼の硝子写真から作られたネガによって焼き付けられた密着判の写真であることが分かる。硝子写真は戦後に廃棄されたが、それ以前に作られた写真は寄贈者の一族他に配られた。本資料はその中の1枚であり、寄贈者宅の仏壇に供えられていたものである。
|
1 |
1 |
29 |
西村フジ子資料(追加分) |
平成14年度収集資料の追加分である。寄贈者の自宅に保管されていた昭和18(1943)年11月発行の戦時貯蓄債券。寄贈者の夫は佐賀県諸富町の出身であったが、父が八幡製鉄所に勤務したため、この債券を購入した時期には北九州に居住していた。
|
1 |
1 |
30 |
野間吉夫収集資料(追加分) |
昭和60年度、平成2および13年度収集資料の追加分である。寄贈者の夫吉夫氏は明治41(1908)年、鹿児島生まれ。九州大学で村落社会学を学び、福岡日日新聞社編集局を経て、戦後、夕刊フクニチ新聞社に移り、昭和46(1971)年退職。日本民芸協会理事・福岡民芸協会会長を歴任。昭和58年死去。本資料は、カリマンタン島ヤン・ダヤク族の育児用背負い具(アバット)で、同氏の死後出版された『赤道を越えた遥かなる国-インドネシア-』の表紙、口絵に掲載されたもの。昭和52年9月12日にジャカルタの古物商から購入したことが確認できる。この種の育児用背負い具は、カリマンタン島に広く分布し、一般に、より地位の高い者ほど、多くの素材を使い、細かな細工の物を使用するといわれる。
|
1 |
1 |
31 |
水崎五兵衛資料 |
今津で江戸時代に廻船業を営んでいた寄贈者の家に伝来した船額。かつて廻船延寿丸の船室内の帆柱の基部に掲げられていたもの。筑前五ヶ浦(能古・浜崎・今津・宮浦・唐泊)廻船は、福岡藩年貢米の大坂への輸送を担い発展を遂げ、非常時には軍船としても徴用された。元禄3(1690)年作の本資料は現存するものとして最も古い部類に入り、かつ廻船の最盛期に製作されたものである。福岡市指定有形民俗文化財。
|
1 |
1 |
32 |
福岡市南区保健福祉センター資料 |
昭和50(1975)年に公開された映画「新幹線大爆破」のポスター。「新幹線大爆破」は、東京発博多行きの新幹線に仕掛けられた爆弾をめぐって犯人と捜査当局の対決を描いた映画。南区保健福祉センターの倉庫に保管されていたものだが、収集の経緯などは不明。
|
1 |
1 |