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平成17(2005)年度収集 収蔵品目録23

【寄贈】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 松村緑資料  秋月藩士松村家(4人扶持14石→15石 無足)に伝来した、古文書・絵画・武具類。
 松村氏は豊前の出身で、中津で黒田孝高に従い、長政の筑前入国時には100石を与えられ、江戸屋敷に住した。その子勝成は初代秋月藩主黒田長興に仕え、御手廻頭を勤め、島原の陣で戦死した。その後の歴代当主は、御台所奉行、御館奉行、御手廻頭、黒崎御蔵奉行、大坂御蔵在番、勘定奉行等を歴任しており、幕末には、以心流剣術師範役を勤めた10代方成と11代美成を輩出している。 
 資料の概要は、(1)古文書(江戸中期~明治 武術関係が充実 戦前の嗣成氏の日記数冊有)、(2)書籍(江戸~明治の版本約150冊 漢籍が豊富)、(3)絵画(肖像画、11代美成による山水画が多数)、(4)武具(島原の陣で使用した螺鈿の鑓や積古用木刀)等からなり、幕末から明治にかけての資料がその大半を占める。
475 881
2 荒巻信子資料  福岡藩士荒巻家に伝来した古文書や肖像画、和歌短冊などを含む資料群。系図によれば荒巻氏は豊前国築城郡築城城主で、黒田氏には孝高(如水)の豊前入部以来、明治維新に至るまで仕えた。歴代当主は船方目付、武具櫓奉行、紙仕組奉行など藩政の実務を担う役職を勤めている。
 資料は、家の由緒に関する資料(系図・家譜)や武芸・文芸関係資料(槍術・剣術目録、和歌短冊)などからなる。江戸後期の当主忠次行厚は筑前国続風土記附録編纂の際に加藤一純の手伝役を命じられ、その子軍平行信は絵画を福岡藩御用絵師尾形洞谷、能を喜多流梅津源蔵に学ぶなど文化活動を盛んに行っており、それが資料群にも反映されている。また、行信が能楽師梅津只圓の弟(軍治行度)を養子にして跡を継がせており、梅津只圓関係の資料も含まれている。
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3 是松英光資料  筑前国志摩郡高田村(現福岡県前原市)庄屋是松家に伝来した近世・近代の文書と書籍。
 是松氏の本姓は安倍氏で、文明15年(1483)大友義右に従った是松新吾持宗を祖とする。戦国時代は大友氏に従っていたが、江戸時代に帰農し、持宗から数えて8代目の源四郎の代に志摩郡高田村の庄屋となった。明治期の当主は、志摩郡全村連合会議員、米金取扱委員、高田村村会議員等を歴任している。
 資料は、江戸時代後期から明治時代のものが多く、家系図をはじめとする家の由緒に関する資料や村明細帳などの村政関係文書、「筑前国続風土記」、「農業全書」などの写本類からなる。なかでも福岡城で能を見た時の記録「御能拝見記」や、幕府測量方来訪時の記録などは注目される。
81 87
4 井上行義資料  「際物師」井上行義氏とその夫人にまつわる資料が中心であるが、福岡最初のホテルである抱洋閣で使われていた什器類も含まれている。
 井上行義は、明治40年12月26日生まれ。箱崎小学校卒。祖父鶴吉(大正5年没)、父虎吉(昭和16年没)と3代にわたる際物師。際物師とは、季節の行事に使うあらゆる品物をつくる職人のことを指す。端午の節供の張り子の虎、博多祇園山笠の屋形飾り、博多提灯、博多羽子板、筥崎宮放生会御神幸の子ども武者行列の衣装なども作っていた。
 井上行義氏は、「最後の際物師」と呼ばれ、氏の他界後は際物師が福岡から消えた。本資料は、形見として保存されてきたものである。
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5 坪井次郎資料  福岡藩士坪井家に伝来した、古文書、武具類。
 寄贈者の父で大橋郵便局長を務めた次郎氏は勝田家より坪井家に養子に入った人物で、資料群には坪井・勝田両家に伝来したものが併存する。勝田家は浅太郎氏が当主だった明治期にセメント業で財を成し、冨田渓仙や広田弘毅を援助した家であり、寄贈者は浅次郎氏から数えると5代目にあたる。
 資料の概要は、筑前の刀工である信国派の刀剣類、巨大な三日月形の使番指物、天保や嘉永期に発行された福岡藩の藩札等の福岡藩士としての由緒を示す資料と、冨田渓仙及び広田弘毅からの書翰や贈り物等、勝田家に関係する資料からなる。なお、渓仙から勝田家に贈られた書画は福岡市美術館に所蔵されている。
58 65
6 市村稔之資料  大正期以降、福岡市博多区千代で酒屋を営んでいた市村家に伝わった資料群。レジスターと七友会記録簿は、大正から昭和前期の福岡の商家の様子を伝える資料として貴重であり、とくに七友会記録簿は、福岡商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)の同級生の親睦会の記録で、昭和11年(1936)~18年まで書き綴られており、戦時下の庶民の記録としても興味深い内容である。また、SPレコードは、無声映画の解説や、映画の主題歌、流行歌など、当時の世相を反映する内容のものが多い。
 この他、福岡西方沖地震のため解体した東区千代の自宅の敷地内から出てきた地鎮具と思われる鉄球入りの壺3点と、結婚祝儀控や市村家の自宅新築関係などの近代文書が含まれている。
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7 松田又一資料(追加分)  平成元年度、3年度、5年度収集資料の追加分。
 福岡市西区西浦で使用された衣服、漁撈用具、造船用具ほかの資料である。衣服のうち、ドンザ身頃地は、途中で製作をやめたドンザの生地で、そのうち1点には刺し子が施されており、製作過程がよくわかる。錘の鋳型には網の錘用と、釣りの錘用が混在するが、漁具の自家生産の様子がうかがえる資料である。板図は船材の半端に引かれた船の設計図面で、西浦における造船の状況がわかるものとなっている。鯛網恵比須の軸箱は、肝心の掛け軸が失われているが、鯛網が盛んであった頃の漁業と信仰の関係を示す資料である。いずれも福岡市西区西浦で製作、使用されたもので、福岡市域の漁村の生活を示す。
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8 東哲郎資料  寄贈者の父・東哲郎氏の、海軍機関学校在学中および海軍将校時代に関する資料群。東氏は宮崎県出身。昭和16年(1941)12月に第54期として海軍機関学校(昭和19年10月、海軍兵学校に統合され同校舞鶴分校になる)に入学、昭和19年3月に卒業し、海軍少尉候補生となった。海軍機関学校在学中の制服、卒業記念のアルバム、戦後発行された同期会の会誌なども含む。 34 36
9 大村博通資料  明治時代の名刺判写真、戦時資料、戦後の真空管ラジオ、8ミリカメラなどからなる資料群。いずれも寄贈者宅で保管されていたもの。戦時資料には、寄贈者が乗務していた潜水艦で使用していた印鑑入れ、戦友の形見の品などが含まれる。また、昭和15年(1940)に満州で開催された紀元2,600年式典に大阪の青年団代表として赴いた際に入手した撫順土産の石炭製花瓶もある。 34 34
10 古田鷹治資料(追加分)  平成15年度、16年度収集資料の追加分。博多仁和加の半面、および福岡の絵葉書である。
 仁和加面は、野田末吉、石田清高という博多仁和加の歴史の中でも重要な人物が自作・使用したものに、寄贈者の自作面を加えたものである。特に野田末吉作の面は、昭和初年、博多仁和加の第一人者生田徳兵衛らと共にアメリカで仁和加を披露した時のもの。生田とコンビを組んで行った二人羽織は、今でも語り種だという。石田清高は博多仁和加とともにオッペケペ一節を受け継ぐことでも知られた人物。寄贈者は、博多仁和加振興会会長。
 絵葉書は大嘗祭記念、陸軍への飛行機献納記念などニュース性の強いもののほか、昭和の大嘗祭の際の主基斎田の記念陳列館の絵葉書、日本赤十字社福岡支部の絵葉書など多様である。
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11 アサヒビール株式会社博多工場資料  アサヒビール株式会社博多工場の敷地内にある東光寺剣塚古墳から出土した遺物である。古墳は1924~1925年にアサヒビール株式会社の前身である大日本麦酒株式会社により工場用地として確保され、現在に至っている。今回の資料は古墳で採集されたもので、工場が保管し、ゲストハウスで展示していたものであった。
 東光寺剣塚古墳は6世紀中頃に造られた全長約75mの前方後円墳であり、当時の福岡平野の首長の古墳であったと考えられる。また、3重の周溝をもち、石室が肥後地域に関連のある構造の横穴式石室であるなど、福岡平野には珍しい要素を多数有する古墳である。また、本資料のような人物埴輪や馬形埴輸は福岡市域では類例のほとんどないものであり、地域の古墳文化を語る上で欠かせない資料である。
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12 渡邉久枝資料  寄贈者の亡夫・鬼倉陽祐氏に関する資料群。いずれも寄贈者宅に保管されていたもの。鬼倉氏は、明治44年(1911)生まれ、住吉尋常小学校・春吉尋常小学校、中学修猷館、福岡高等学校を経て、昭和12年(1937)に九州帝国大学医学部を卒業。昭和14年に召集され、軍医として従軍、昭和19年ニューギニアで戦死。在学中の成績表や卒業証書、戦地から妻・久枝氏あてに送られた近況を知らせる書簡などが含まれる。 27 27
13 瀧一郎資料(追加分)  平成7年度、13年度収集資料の追加分。戦時資料の収集家である寄贈者が収集した資料。特別報国債券・戦時報国債券・戦時貯蓄債券、乙種飛行予科練習生用平面三角法教科書、灯火管制用の電球などの戦時資料、清酒のラベル、洗い粉のパッケージなど市民生活に関わる商品関連の資料などからなる。 25 31
14 岩田和子資料  寄贈者宅で保管されていた絵葉書と寄贈者宅の庭に埋まっていた古墳時代の飯蛸壺。飯蛸壺は、寄贈者が昭和40年代に自宅を建替えた際、当地より出土した。絵葉書は、大正5年(1916) 11月の陸軍特別大演習記念の絵葉書(20点)、昭和3年(1928) の大嘗祭の際の脇山村の主基斎田記念絵葉書(2点)など。大正5年の陸軍特別大演習では、その前年に新築落成したばかりの福岡県庁に大本営が置かれた。 25 25
15 山本儀七郎資料(追加分)  西新の材木商山本家に伝えられた資料。昭和63年に寄贈された資料群と一連のもの。大正~昭和初期と推定される袱紗・風呂敷などの贈答用具が中心であるが、なかには「丸に十字」の家紋の入った近世の鏡台や、文久元年の記銘のある慢幕などもある。 20 20
16 藤井靖司資料(追加分)  平成2年度、3年度、4年度収集資料の追加分。いずれも寄贈者宅で保管されていたもの。明治12年(1879)の地券は、西門町(現・博多区上呉服町)の共有財産となっていた土地のものである。福岡県襖表具工事統制組合から組合理事にあてられた感謝状、写真用品関連の資料、昭和中期頃のものと思われる東京と京都のパス会社が発行した観光案内などからなる。 17 18
17 真鍋儀平資料  川端中央商店街で呉服店を営む寄贈者宅で保管されていた資料群。明治時代の共進会などでの賞状、平成元年(1989)の福岡市制百周年記念の博多松ばやしで使用した傘鉾の幕などからなる。賞状の中には、明治20年(1887)の第5回九州沖縄八県連合共進会、明治43年の第13回九州沖縄八県連合共進会という福岡で開催された共進会のものも含まれており、福岡市の歴史に関わる資料として、また、博覧会・共進会関係の資料として貴重である。 13 18
18 隈本重(あつし)資料  資料は寄贈者の父親が採集されたもので、自宅で保管されていた。出土の場所・日時等の詳細は不明であるが、軒瓦の形状や組み合わせから鴻臚館跡から出土したものと推測される。
 8世紀代のいわゆる鴻臚館式の複弁八葉蓮華文軒丸瓦3点・均正唐草文軒平瓦5点は大宰府を中心とした筑前国内でも標準的な型式のものである。10世紀中葉以降に藤原純友の乱による焼失で再興した際の所用瓦、もしくはその流れを組む単弁十六葉蓮華文軒丸瓦1点・均整唐草文軒平瓦3点はその文様に新羅・高麗の影響を受けている。
 鴻臚館跡が本格的に調査されるようになって20年を迎えた。調査以前から瓦や陶磁器片など表面採集されたものが当館所蔵高野孤鹿資料など数件あり、鴻臚館研究の基礎資料となっている。鴻臚館跡の発掘調査の進展とともに建物群の変遷が徐々に明らかになっている。本資料は瓦当部の残りが良く、所用瓦の変遷をたどる上で重要なものである。
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19 竹園満夫資料  西浦の正月行事「十日恵比須」関係の資料。十日恵比須では、漁師を志す数えの16歳になった青年が、実際に恵比須神に扮する「恵比須祭り」という行事が行われてきた。男恵比須と女恵比須で1組となって、数組が西浦の漁村部を練り歩いた。
 この祭りには博多の山人形を飾った山笠が出ていた。戦後、山笠は手作りのダルマを乗せたりしながら山笠を続けるものの、人形を乗せることができなくなり一時中断。昭和36年に復活する。それから昭和50年まで続いたがここで山笠を曳くことを中止する。なお、現在は、この恵比須祭り自体も休止中である。
 本資料は、恵比須の装束一式と昭和9年、昭和40年代の恵比須祭りの写真がある。そこには、今はなき山笠の姿が記録されている。
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20 福岡ホニアラ会資料  福岡ホニアラ会がガダルカナルでの遺骨収集の際に拾得した日本兵の遺品。会の名称はガダルカナル島にあるソロモン諸島国の首都の名ホニアラによる。黒田長政の大水牛脇立兜をかたどった第124連隊の徽章を含む。この徽章は、昭和12年(1937) に福岡で編成された歩兵第124連隊が、昭和16年秋広州駐留時に制作した。大水牛脇立兜に「伏敵」の文字を入れた図案は、副官中山博二中尉(第124連隊戦友会初代会長 故人)が考案した。 9 9
21 上村陽一資料  福岡藩医上村家に伝わった肖像画、墨跡、門人帳、日記。上村家は10石3人扶持で、城代組に属し、本道医(内科医)を務めた家。なかでも小児科や産科を得意とし、肖像画にもある上村尚庵とその子米山を輩出した。
 尚庵(1751~1821)は上村昌山の3男として生まれ、医学を二宮養雄、古文辞学を亀井南冥に学ぶ。小児科・産科医として、江戸で7代藩主黒田治之の夫人らの侍医を務める。朝鮮人が領内に漂着した折には、文人としての才能も生かし、藍嶋で彼らの看病にあたる。肖像は石丸春牛の筆。米山(1789~1852) は尚庵の子。医学を鷹取碩庵に、経絡法を本草学者の内海蘭渓に学ぶ。吉嗣梅仙、戸次宜春(晃)、頼山陽らとも交流があり、江戸で奥医師を務める。風流を愛し、詩歌、山水画を嗜む。肖像は村田東圃の筆で、愛用の筆や衝立が描かれる。
 門人帳は年次から尚庵の父昌山のものと考えられる。弟子の範囲は筑前だけにとどまらず、筑後や豊後、肥前からも集まり、人数は35名を数える。
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22 松本和夫資料  寄贈者が製作したドンザ凧。ドンザ凧は、海で死んだ人を弔うために、丈長の浜着(ドンザ)の形に紙を切り抜いて、背に戒名や念仏を書きつけたもの。7代前にあたる先祖が寺にこうした凧を奉納したと伝えられ、父から作り方を伝えられた寄贈者が今もその製作を受け継いでいる。近年でも、遺族に頼まれてドンザ凧を作ることがあるが、たいてい飾り凧として仏間や応接間に飾るだけで、空に揚げることはないという。当館で開催した「ドンザ展」へ出品されたものである。 5 5
23 野間吉夫収集資料(追加分)  昭和60年度、平成13年度収集資料の追加分。故野間吉夫氏が収集した衣服である。対馬のハギトージン、一つ身の着物、壱岐のミノメーカケからなる。ハギトージンは対馬南端の豆酘にだけ見られる労働着で、細い鉄砲袖と、絣や縞の端切れを集め接ぎ合わせた布地に特徴がある。一つ身の着物は、1点が接ぎ合わせの布地を使ったもの、1点が水天宮を描いた絵絣を使ったもので、いずれも子供を守ろうとした意味があるという。ミノメーカケは壱岐の女性が着用した前掛けで、縁取りの色で既婚、未婚を区別する。 5 5
24 東林寺資料  昭和30年代後半に唐泊漁業協同組合(当時)が収集した漁師の仕事着・ドンザは、福岡県有形民俗文化財に指定されている。本資料群は、唐泊にある東林寺の住職であった故姫野典山氏が、漁協による収集の後、まだ各家に残されていたドンザを集め、保管していたものである。残念ながら、収集時のデータが残されておらず、どの家からもらい受けたものであるのかは不明であるが、いずれも、刺し子糸が身頃のほぼ全面に横刺しされる唐泊のドンザの特徴を持つ。 3 3
25 金堂好美資料(追加分)  昭和63年度、平成2年度、9年度収集資料の追加分。寄贈者が陸軍入隊中に所持し、復員後保管していた軍隊手帳、派遣先の病院勤務者の名簿などからなる。軍隊手帳は、昭和63年度寄贈分の紙箱に収められていたものである。寄贈者は、大正10年(1921)、筑紫郡春日村(現・春日市)生まれ。矢野自動車(福岡市)に勤務していた昭和17年(1942)に久留米の西部第49部隊に入隊。衛生兵として小倉陸軍病院、竹田陸軍病院などに勤務。 3 3
26 赤松元興資料(追加分)  平成4年度、9年度、15年度収集資料の追加分。寄贈者が、昭和60年(1985)の国勢調査の調査員をつとめた際に使用した、バッジ、鉛筆、鉛筆削り。いずれも総務庁統計課(当時)から支給されたもの。寄贈者宅で保管されていた。昭和60年は、10年ごとに実施される大規模調査の中間に行われる簡易調査の年であった。調査は昭和60年10月1日実施。集計・発表された人口は1億2,104万8,923人であった。 3 3
27 石田哲夫資料  西区大原の旧家で近代に使用された儀礼用のメゴ。福岡西方沖地震で被災した蔵のなかを整理している時に発見されたもの。
 寄贈者(大正14年生)の記憶によると、氏が5、6歳のとき(昭和5~6年頃)彼の祖父が、祝儀や法事があるときに、栄重に入れた赤飯や、お祝いの品などをこのメゴに入れて天秤棒で運んでいるのを見た、という。
 また、寄贈者の母ノプ氏(明治38年生)によると、自分は使ったことがないが、結納などに使われたと聞いていた、とのこと。これらの口承から、メゴの主な使用時代は大正から昭和となり、メゴ自体の製作時期は明治時代という推定ができる。
 なお当家は、糸島郡志摩町野北で庄屋を務めていた草野家との姻戚関係があり、野北の行商人シガが用いた独特のメゴであるホオズキメゴとの関連も考えられる。
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28 石橋善弘資料(追加分)  平成9年度収集の追加分。早良郡役所廃庁式記念の火鉢と仙涯作品集である『圓通禅師遺墨』(明治27年〈1894〉刊)。明治11年郡区町村編成法の制定によって、郡が行政単位として認められ、郡役所と郡長が置かれ、明治23年には郡制が公布された。大正10年(1921)に郡制廃止法が発布され、大正12年に郡会が、大正15年には郡長と郡役所が廃止された。火鉢は、この大正15年の郡役所廃止の際の記念品である。 2 3
29 厨冨美子資料  寄贈者の父が着用した海軍の軍服。寄贈者が保管していたもの。白い木綿製、長袖・長ズボンの上下である。長期間にわたり着用していたことがうかがえる資料である。昭和15年(1940) の規定で、階級章は上着の上襟につけることになっていたが、本資料では、下襟に襟章がつけられていた痕跡がある。南方ではシャツの襟を出すために階級章を下襟につけていた。 2 2
30 冨永忠資料  博多人形師で福岡県指定無形文化財保持者であった原田嘉平および小島与ーの作品。原田嘉平作「親とろ子とろ」は子供の遊びを題材にした愛らしい一品作。銘文や落款はないが作者の遺族の証言などから昭和初期に制作されたとみられ、原田嘉平の戦前の作風が窺える点で貴重である。小島与一作「山笠人形」は子供山笠を題材にした作品で、制作年代不詳ながら足裏に「與一」の落款がある。寄贈者の父は福岡県の産業会館に勤めていたが、これらの人形はその関係で入手したものという。 2 2
31 吉住靖子資料  本資料は、新築祝いに贈られた博多人形と博多で作られた嫁入り道具の盥からなる。
 博多人形は、昭和25年6月に工務店から建て主に贈られたもの。作者中西卯三郎は、名工白水六三郎の孫弟子にあたる博多人形師。寄贈者の夫が友人から貰い受け、人形供養に持参したところ、その場にいた博多人形師たちから「この人(卯三郎氏)の人形は少ないから貴重」と諭されたもの。
 盥は、婚礼用3組盥のうちの1点。寄贈者の婚礼に際して、博多奈良屋町の料亭「まつのや」を経営していた親類から贈られたもの。寄贈者は、旧姓を市村といい本目録所収「6.市村稔之資料」の寄贈者の姉にあたる。市村資料所収の「婚礼控帳」にこの盥の記載がある。寄贈者の記憶によると、奈良屋町の親類が、この盥を歩いて届けに来てくれたという。
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32 吉原章資料  昭和18年(1943)3月10日(陸軍記念日)に発売された11枚組のレコード集『勝利の記録』。寄贈者の父が入手したものと思われるが、詳細は不明。寄贈者宅で保管されていた。
 1枚目「詔書奉読」、2枚目「大詔を拝し奉りて 上・下」は、昭和16年12月8日の録音。3枚目から11枚目は、大本営陸軍報道部監修の「大東亜戦争録音史 勝利の記録 一~十八」。戦時中に製作された音声資料として貴重である。
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33 西村長實・楢崎久矩資料(追加分)  平成13年度寄贈の追加分。筑前今宿で江戸時代中期から酒造業を営んだ西村家に伝わった「農業全書」。西村家の6代長三の時には、幕府測量方の伊能忠敬が本陣として止宿するなど、酒造家としての隆盛が窺える。また、寄贈者である西村長實氏の父長臣氏は福岡市に編入される前の今宿村で最後の村長を勤めた人物である。奥付には元禄10年(1699)7月板行とあるが、巻末の蔵書目録を見る限りでは享保期頃の再板である。板元は益軒関係を中心に地方の儒者の著作を多く出版している京都の柳枝軒茨城多左衛門。 1 8
34 平山敏治郎資料  筑前国芦屋出身の栄子という女性による北部九州旅日記。寄贈者は元成城大学文芸学部教授で、当館の元建設構想懇話会専門調査委員。本資料は寄贈者の収集品で、蔵書整理中に見つかったもの。
 内容は、栄子が友人ら10名程を連れだって、嘉永2年(1849)2月20日からの2ヶ月間、筑前、筑後、肥前、肥後4ヶ国の名所巡りをした際の旅日記である。栄子は伊藤常足に和歌を学んだと言われ、本文中でも旅先で詠んだ歌が随所にちりばめられている。なお、跋文は宮永保親(「筑紫遺愛集」の作者伊藤道保の子)が寄せている。
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35 岩倉孝允資料  江戸時代後期の節用集『江戸大節用海内蔵』1冊。
 節用集は室町時代末期に成立した、いろは引きの用語集、国語辞書である。江戸時代に入ると内容は幅広くなり、とくに18世紀以降になると、辞書に加え歴史年表や日本地図、大名名鑑などの付録が加えられ、教養書的な側面が強くなった。19世紀には辞書の語数も増加され、大部なものとなっていった。『江戸大節用海内蔵』はその極致と言えるものである。高井蘭山増輯・中村経年補輯、菊川英山画。宝永元年(1704)刊、天保4年(1833)増補、文久3年(1863)補刻。
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36 松尾誠司資料  電車ファンだった寄贈者が、昭和50年(1975) の路面電車・城南線廃止の際に応募し収集した電停の看板「城東橋」。福岡市内の寄贈者の実家で保管されていた。城南線は、昭和2年に九州水力電気が開業した路面電車の路線で、渡辺通1丁目(現・福岡市中央区)から西新(福岡市早良区)までを結んでいた。「城東橋」の電停は、「渡辺通一丁目」と「薬院大通」の間にあった。 1 1
37 株式会社広報資料  昭和56年(1981)に製造され、平成12年(2000)頃まで使用されていたリョービ製の電子制御写真植字機「レオンマックス-1型YS」(=写植機)本体と文字盤。大正13年(1924)に石井茂吉と森澤信夫が発明した和文写植機は、昭和4年に世界で初めて実用化された。写植機は、それ以前の活字による組版に比べ、飛躍的に自由度の高い組版を可能にした。1980年代には写植機は印刷会社には不可欠の設備であった。 1 1
38 石丸萬七資料(追加分)  平成10年度、12年度収集資料の追加分。寄贈者が入手し保管していた海軍用配食缶。平成12年度には、今回の収集資料より小さい配食缶の寄贈を受けている。ともに、復員後も自宅で炊事用具として使用した。寄贈者は昭和19年(1944)に佐世保で海軍に入営。 1 1
39 山木秀二資料  寄贈者が新京(現・中華人民共和国吉林省長春)在住時の友人から譲られた新京の市街地図の原図。寄贈者は山形県出身。昭和19年(1944)4月に新京工業大学に入学(昭和20年に卒業)し、この時、満州へ渡った。帰国は昭和21年7月。上陸前に能古島に一旦停泊、消毒の後箱崎松原に上陸した。 1 1
40 野坂恵一資料(追加分)  平成11年度収集資料の追加。本資料は、近代に作られた農具を、平成時代に当時の技術で再現して製作したもの。曳き緒は、牛の進む方向を操作するための縄で、車のハンドルのようなもの。結束部分には、シュロを編み込み、強度をあげる工夫がなされている。なお、全体の形状は注連縄のようになっているが、特に意味があるわけではない。しかし、多くの農家が、このような形式で、保管し、納屋などに掛けていた。収納を美しく見せる工夫である。 1 1

【購入】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 福岡藩大組大野家資料(追加分)  福岡藩士大野家(大組 1,000石)に伝来した古文書群。平成12年度購入の追加分。
 大野氏は伊予国の出身で、もと河野家の家臣。黒田家には中津時代に従った。江戸中期には奈多の干拓事業で著名な忠右衛門貞勝を輩出している。家紋は丸に上。
 古文書は、元禄期を上限とするが、天保から明治にかけての当主である貞正(大夢、退無、内記)-貞節(貞固)-貞之丞に関わるものが大半を占め、その内容は、主に幕末の日記、財用関係の覚書、西洋式軍備の導入に関わる記録、戊辰戦争の戦況報告等からなる。
 貞正は納戸頭、裏判役等を務め、天保期以降の藩政の中枢を担い、隠居後も再出仕を命じられるなど、藩内で重きをなした人物。貞節は京都守衛中に戊辰戦争に巻き込まれ、奥羽征討では福岡藩兵の隊長を務め、その活躍により戦後新政府から金300両を贈られている。貞之丞は戊辰戦争勃発時、若年にも関わらず、父と共に参戦することを藩に嘆願し許可されている。
 大野家文書は現在、福岡市総合図書館に122点(江戸中期の一紙物中心)、当館に136点(江戸中後期と明治、写本類中心)が収蔵されているが、本資料群はそれらを補完するものである。
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2 久留米つちやたび資料  大正11年(1922) から15年にかけてのつちやたび合名会社(現・月星化成株式会社)と日本足袋株式会社(現・株式会社アサヒコーポレーション)の地下足袋製造に関わる特許争いに関する資料ほか、昭和30年代の広報用資料などからなる。両社が大正11年に売り出した地下足袋は、履物史上の革命ともいわれ、労働用の履物としてまたたく間に普及した。 86 96
3 旧吉川観方コレクション  京都の日本画家で風俗研究家であった吉川観方(1894~1978)が蒐集した資料。内容は、近世・近代の絵画、工芸、書籍など多岐にわたる。本目録には、そのうち古文書類を収録する。なお、平成7年度目録に絵画、8年度目録に染織(小袖・小袖裂)、9年度目録に装身具類、10年度目録に金工(鏡・刀装具)、11年度目録に調度類、12年度目録および13年度目録に書跡(和歌・俳句短冊)、14年度目録は書籍、および15年度目録に書跡類を収録している。 249 272
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休館日

開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
※2024年7月26日~8月25日の金・土・日・祝日と8月12日~15日は20時まで開館(入館は19時30分まで)
休館日
毎週月曜日
(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
※2024年8月12日~15日は開館し、8月16日に休館
※年末年始の休館日は12月28日から1月4日まで

Facata(博物館だより)

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