平成18(2006)年度収集 収蔵品目録24
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 大和英二資料(追加分) | 平成13年度収集資料の追加分。戦前の国内各所の絵はがきや、寄贈者の曾祖父・伊三郎氏、祖父・徳太郎(明治12・1879年生まれ)氏関係の資料、大正13年~15年に発行された「日本交通分縣図」29点などを含む。いずれも寄贈者宅で保管されていた資料群。 | 352 | 495 |
2 | 塚本家資料(追加分) | 昭和58、62年度寄贈の追加分。福岡藩医塚本家に伝来した古文書、地図絵図、道具類。同家は長崎で医師をしていた道庵の時代に、福岡藩3代藩主黒田光之の持病を治したことがきっかけで黒田家に仕えた。近世を通じて外療科(外科)医の筆頭として300→330石を領し、海外の医術を積極的に導入し、歴代藩主らの治療に当たった。資料群は、(1)知行、(2)家譜・系図、(3)医術書、(4)書状類、(5)近代地図、(6)道具類、に分けられる。特に(3)はオランダの医術書等を塚本家の当主が写したものが見られ、当時の外科治療の実態がよく分かる。(4)は近世の私的な書状や近代以降に熊本鎮台や福岡県から塚本氏に宛てられた書簡等からなる。(5)は近代の当主が収集した日本各地の地形図や観光案内図。(6)は茶入と火鉢で、江戸時代から使用していたとの由緒を持つ。 | 476 | 483 |
3 | 茅野光久資料 | 寄贈者宅に保管されていた大正時代から昭和20年代製作のSPレコード。流行歌、浪花節、小唄、童謡などバラエティに富んだ内容である。福岡ゆかりのものとして、「小唄 博多節」「筑前琵琶 武士の本懐」「新民謡 博多情歌」「新民謡 炭坑節」などが含まれている。 | 87 | 88 |
4 | 中野正輝資料 | 寄贈者の祖父(明治30〈1897〉年生)が収集した近世の写本類。「武家事紀」と記された文庫に68冊を収める。資料の概要は、山鹿素行著作で、武家の伝記、儀礼、生活習俗、古文書等を収めた歴史書「武家事紀」、大内氏の菩提寺所蔵の系図を写した「大内系図」(文政11〈1828〉年写)、貝原益軒が著した筑前国の地誌「筑前国続風土記」(明和8〈1771〉年写)からなる。いずれも蔵書印などから旧蔵者名が判明、宗像市周辺に多い姓が見え、福間の名士であった寄贈者の祖父の交流関係が推測される。 | 69 | 69 |
5 | 長谷川常雄資料 | 寄贈者がチベット・ネパール方面に旅行した際に入手したチベット仏教の仏画(タンカ)46点と経典1点。いずれも制作時期は比較的新しいが、タンカの内訳は釈迦如来、六字観音などの如来や菩薩、ターラーや尊勝仏母などの女尊、ヴァジュラバイラヴァやチェチョクへールカなどの護法尊、パドマサンバヴァやミラレパなどの祖師、それにサンヴァラやへールカを中心とする曼荼羅など、バラエティに富んでいる。チベット仏教の代表的な尊像がほぼ網羅されている点で優れたコレクションといえる。 | 47 | 47 |
6 | 徳永英生資料 | 寄贈者の父・弘幾氏が、弟・達生氏と開業した徳永化学研究所関連の資料群。弘幾氏は、大正5(1916)年に九州薬学専門学校(現・熊本大学薬学部)卒業後、京都で研究をつづけ、大正14年に京都市に徳永化学研究所を開業し、のちに糟屋郡箱崎町(現・福岡市東区)に研究拠点を移した。戦前は化学染料の研究で、福岡県実業功労者表彰、帝国発明協会進歩賞を受け、戦後は醸造薬品に関する研究で、多くの特許を取得した。 | 32 | 32 |
7 | 周防憲男資料(追加分) | 平成7、14、16年度寄贈の追加分。旧福岡藩士周防家(馬廻組 150石)に伝わった、武具、書画類。周防家は3代藩主黒田光之に御鷹方として召し抱えられ、地行1番丁に屋敷を構え、大島、姫島定番などを勤めた家。これまで博物館は同家から、近世~近代文書、武具、刀剣、近代生活資料等の寄贈を受けている。今回の内容は、甲冑1領、鷹羽形の鞘を持つ槍、判物箱、歴代当主が使用した印鑑、二川相近作の宮本武蔵像、黒田長成の書等からなる。具足櫃、背旗、槍の鞘に周防家の家紋「並び鷹の羽」を用いており、同家の由緒を伝える。ただし、槍は憲男氏の父の代に、GHQに見つからないようにということで、柄の部分の大半を切断している。なお、この槍は幕末に活躍した肥後の刀工、延寿宣勝の作。判物箱は、既に当館に寄贈となっている、歴代の領知判物が収納されていた箱である。 | 31 | 38 |
8 | 荒井昌夫資料 | 寄贈者の両親や寄贈者自身にまつわる資料群。寄贈者の父・周夫氏は、警察官で、『福岡県碑誌 筑前之部』(昭和4・1929年)の編さん者。西川虎次郎や頭山満、武谷水城らの書跡や書簡などの『福岡県碑誌』編さんに関連する資料や、警察官時代の資料を含む。ほかに、寄贈者の母のアルバムや、寄贈者自身が撮影した昭和10年代の福岡市内の写真などを含む。いずれも、寄贈者宅で保管されていた資料。 | 31 | 32 |
9 | 井手道子資料(追加分) | 平成16年度寄贈の追加分。旧福岡藩士井手家伝来の近世、近代文書。井手氏は黒田職隆弟の友氏を祖とする。詳しい来歴については『平成16年度収集 収蔵品目録22』の解題部分を参照のこと。近世文書は、「図書殿」の内儀の件で「政所様」から書状が来たことを伝える井手友正宛黒田長政書状や、江戸時代後期に姫路の黒田職隆の墓所を改葬した際の記録「播磨古事」等、前回の寄贈後に発見された資料からなる。近代文書は寄贈者の父親である潔氏に関する文書が中心。内容は小学校から陸軍入隊迄の賞状や辞令類からなり、母親である喜佐子氏のものも若干含まれる。 | 40 | 44 |
10 | 波多江文子資料(追加分) | 平成5年度収集資料の追加分。寄贈者の実家である旧福岡藩士安永家の旧蔵品。資料の内容は、(1)道中日記、(2)江戸期~明治期の書籍、(3)新刻日本與地路程全図からなる。(1)は、福岡藩士安永又兵衛が、藩主継嗣黒田長知に従い文久3(1863)年9月に京都、明治2(1869)年正月に江戸へ行った際に記した日記。2曲1隻の屏風に仕立てられる。(2)の多くは漢籍で、黒田家譜等の写本も含まれる。貸借に関する書込が見られ、所有者が判明する本も何点かある。(3)は平成5年度に寄贈された江戸図をはじめとする絵図類から洩れていたもので、江戸で購入されたものと推測される。 | 28 | 67 |
11 | 中西毅蔵資料(追加分) |
平成6年度収集の追加分。中西家は博多織の製造、販売に携わってきた家であるが、後継者不在のため平成6年度に絵画、古文書、民俗資料等を寄贈いただいた。
今回寄贈の資料は風呂敷6点、袱紗13点で、いずれも寄蔵者宅に保管されていたものである。中西家の表紋は「細輸に中陰分銅」、裏紋が「丸に三つ橘」で、袱紗のうち紋の入ったものはいずれもどちらかの紋かそれに類するもので、中西家が作ったものと考えられる。ひとつ「五瓜に唐花」が含まれるが、これはいわゆる「木瓜紋」で、櫛田神社関連するものとみられる。風呂敷は上記の2種類の紋の他に「三つ銀杏」が見られるが、これはおそらく嫁が持参したいわゆる嫁入り風呂敷かと思われるが、詳細は不明。 |
19 | 19 |
12 | 小川裕夫資料 | 明治28(1896)年から大正7(1918)年に発行された高等小学校の教科書や一般書籍。いずれも寄贈者宅で保管されていた資料群。明治36年に国定教科書制が導入されたほか、学校制度がめまぐるしく変わった明治時代から大正時代の教科書である。寄贈された教科書には、使用者と思われる氏名が複数記入されたものもあり、当時の教科書事情をうかがうことのできる資料としても貴重である。 | 16 | 16 |
13 | 井手隆治資料 | 近世の仏教関係の版本、写本類。本資料群は下川端町にある寄贈者の実家の仏壇奥から発見されたもの。特に注目されるものとしては寛政21(1644)年に七里縫殿助から手に入れたという書き込みがある「御文(御文章)」。巻末に「釈良如(花押)」とあり、本書が西本願寺13世門主良如(1613~1662)によって江戸時代初期に刊行された、いわゆる良如開版の「御文」だということが分かる。その他では極楽浄土に関する重要な文章を集めた仏教書「往生要集」の版本(嘉永版)や良僧の事績を集めた書籍などがある。井手家は、当初「群島」、その後「高木」姓を名乗っており、篠栗町周辺に先祖の関係地があるという。 | 12 | 16 |
14 | 古田鷹治資料(追加分) | 平成15、16、17年度収集資料の追加分。軍用ズボン2点と、寄贈者のおばが営んでいた店で使用されていたかき氷用のガラス製の器。軍用ズボンの保存状態は非常に良いが使用者は不明。いずれも寄贈者宅で保管されていた資料。 | 4 | 5 |
15 | 宮川泰彦資料 |
福岡市西区玄界島で使用された手熔りと棹秤である。福岡西方沖地震の際に玄界島で被災した宮川氏の自宅にあったもの。
手熔りは小振りな瓦製で、正確な製作地は不明だが、玄界島で用いられていたことから博多で製作されたものではないかと思われる。棹秤はチキリと呼ぶ。玄界島では海でとったワカメやヒジキを干して出荷していたが、カマスに入れた干し海草の目方を量るときによく使っていたという。海草のほか、イワシやカナギなどの小魚を計ったり、芋などを計ったりもしていた。 |
3 | 3 |
16 | 田代肇資料 | 昭和2(1927)年に西公園下大堀埋立地(現・大濠公園、福岡市中央区)で開催された東亜勧業博覧会の絵はがきと、明治34(1901)年に操業開始した八幡製鉄所の絵はがき。いずれも、寄贈者の父が収集したもの。寄贈者宅で保管されていた。 | 3 | 3 |
17 | 赤松元興資料(追加分) | 平成4、9、15、17年度収集資料の追加分。福岡市営地下鉄の開業記念乗車券と、昭和60(1985)年の国勢調査の際に調査員が使用した水性ボールペン。いずれも寄贈者が入手し、自宅で保管していた資料群。地下鉄開業記念乗車券は、昭和56年7月に室見-天神間で、地下鉄1号線が部分開業した際のもの。国勢調査のボールペンは、平成17年度に寄贈をされた資料と同一群をなす資料である。 | 2 | 11 |
18 | 岡崎円秀資料 |
寄贈者は、博多の日蓮宗寺院本興寺の住職。寄贈者が収集した中世文書1紙、絵画1隻からなる。
中世文書は、1紙の表裏に2通の文書を写す。断簡で前後を欠くが、両面ともに伊勢神宮に関する内容。伊勢検非違使神服連某解案は、伊勢神宮領における寺家と作人との相論について、伊勢検非違使神服連某が使として寺家の主張を是とする報告を行ったもの。大神宮神事次第案は、伊勢神宮の1年間の神事祭礼を列挙した記録であるが、正月の一部が残存する。本文書は、寄贈者が昭和48・49年頃、かつて千代町にあった山内書房から購入。購入時には本紙に接続するもう1紙(1面に建治2年6月日付磯部土與子申状、他面に大神宮神事次第の後半を記す)があったが、現在は所在不明。『鎌倉遺文』17巻13187・13188号に岡崎円秀氏所蔵文書として収録されるが、13188号には現在失われた大神宮神事次第の続きの部分も収められている。 「伊勢物語東下り図屏風」は、福岡藩御用絵師衣笠家の第8代探谷(嘉永5・1852~大正元・1912)の作品。探谷は、若くして衣笠家の家督を継承するも明治維新となり、御用絵師の任を解かれて市中で画塾を開き、その門下から郷土の日本画家富田渓仙が出ている。図は衣笠家が得意としたやまと絵の代表的画題である『伊勢物語』から「東下り」の場面を描いたもの。同様の構図作品が第2代守弘にもあり、代々伝えた粉本などから明治後半期に制作したものと考えられる。 |
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19 | 西川勝資料 |
寄贈者の父親が昭和30年頃に長崎県西彼杵在住の時に手に入れたもの。西彼杵半島には滑石の露頭が多数分布し、石鍋の生産遺跡も分布している。本資料もこのような遺跡からの採集品であろう。
資料は鍋身の未製品3点である。うち2点は4ヶ所に把手が付く形式で、製作途中で割れたため廃棄されたとみられる。残り1点は円盤形に加工されている。 滑石製石鍋は平安末~中世に広く普及し、非常に貴重なものとされた。博多遺跡群など市内の中世の遺跡からも多数出土している。中世・博多の食文化や流通、当時の手工業技術を考える上で非常に重要な資料である。 |
1 | 3 |
20 | 荒巻セツ子資料 | 寄贈者が骨董店で対馬の仕事着として購入したもの。接ぎ合わせの様子、小さな仕立て寸法、特徴的な鉄砲袖から、対馬南端の豆酘で着用されていたハギトージンと判断することができる。ハギトージンは豆酘で娘たちが着用した労働着で、絣や縞の木綿を接ぎ合わせた身頃と細い鉄砲袖が特徴である。秋から春にかけて山仕事、海仕事をするときに使用した。 | 1 | 1 |
21 | 置鮎正弘資料 | 能面の「鷲鼻悪尉」を象った陶製の面。実物に見紛う精巧な表現や、面の裏に「宗七」の印が押されていることから、近世の博多で生産された宗七焼であることがわかる。作者の正木宗七は瓦師出身の陶工で6代にわたって続いたといわれる。その作品は茶道具、香炉、仏像、面、床の間の置物といった高級品が多く、特に「柚子肌錆地焼」と称する技法を用いた作品は陶器でありながら鉄錆地のザラザラした風合いをよく再現しており、工芸的にも高く評価できる。本作品は伝来や制作時期が不明ではあるが、印の形や作風などから文化・文政期に活躍した4代幸弘の手になる可能性が高い。 | 1 | 1 |
22 | 小川正彦資料 | 寄贈者が知人から譲り受けた、麦藁製の帽子をヘルメット風に加工した製品。帽子の内側のラベルに住所「イヨ郡中町下吾川」(現・愛媛県伊予市)と氏名が記されていたため、寄贈者は、伊予市役所を通じて、本人またはその遺族へ返そうとしたが、本人は既に死去、遺族の所在は分からなかった。ラベルから、昭和18(1943)年に製造され、昭和21年に配給された品であることが分かる。 | 1 | 1 |
23 | 木村栄文資料 | 寄贈者が、RKB毎日放送のディレクターとしてドキュメンタリー番組「日出づる国の密使/明石元二郎とコンニ・シリアクス」(平成4〈1992〉年)を制作した際、ロケで訪れたフィンランド中部ヤコブスタードの博物館から譲り受けた銃。明石元二郎(1864~1919)は、福岡出身で、日露戦争中、ロシア革命支援工作を画策した陸軍軍人。当時ロシア領であったフィンランドの独立派へ、ヤコブスタード沖でライフル銃などを提供した。 | 1 | 1 |
24 | 柴藤清吉資料 | 江戸時代後期の博多町人柴藤増次夫妻の肖像画。画像は増次本人が描き、亀井昭陽の次男暘洲が賛文を記している。柴藤増次は、文化6(1809)年に福岡藩の革座請主となった人物。以降、革座の経営を一手に担い、大坂の皮革問屋から多額の借銀を抱えていた革座経営の立て直しを図った。天保6(1835)年、福岡藩の天保改革実施によって革座は増次の手を一旦離れたが、革座経営に関する記録(九州大学経済学部所蔵)を増次は残しており、『筑前国革座記録』(福岡部落史研究会、1981~84年)として活字化されている。 | 1 | 1 |
25 | 常松喜代資料(追加分) | 平成10年度収集資料の追加分。寄贈者宅に伝わる大黒図の由緒を記した書付。この書付は、福岡藩革座請主の柴藤増次(詳細は柴藤清吉資料の解題を参照)が記したもので、大黒図は大坂町人鴻池善五郎が描いたものであること、文化8(1811)年に増次が革座一件で大坂に滞在中、福岡藩士で大坂蔵屋敷詰銀方であった戸田新七の屋敷で入手したことが記されている。 | 1 | 1 |
26 | 徳永芳江資料 | 寄贈者が昭和20(1945)年頃使用していた手作りのリュックサック。昭和20年当時、寄贈者は奈良屋国民学校(現・博多小学校、福岡市博多区)の生徒で、昭和20年6月19日の福岡大空襲で被災、縁故を頼って疎開した。寄贈資料のリュックサックは、疎開の際にも使用したもの。 | 1 | 1 |
27 | 中村英司資料 |
黒漆塗日根野頭形兜・黒漆塗二枚仏胴具足1領。
寄贈者の家は、江戸時代、石見国邇摩郡静間村の枝郷和江浦(現島根県大田市静間町和江)の商家であったと伝える。本資料は商いを通じて手に入れたものと考えられる。和江浦は漁港、商港として栄え、当地の廻船は東北・北陸地方へ石見国周辺で生産された銑鉄を移出し、米などを買い付けて来たという。 |
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28 | 長谷川扶美子資料 | 昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲で被災した茶入。寄贈者の義父が、戦前、茶事などで使用していた高取焼の茶入(亀井味楽作)。空襲で自宅(橋口町、現・福岡市中央区)が被災し、焼け跡で発見された。その後、寄贈者宅で保管され、桐箱や蓋を補って茶事などで使用していた。福岡大空襲に直接関係する資料として貴重な品である。 | 1 | 1 |
【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 櫛田正巳資料 | 福岡藩の儒学者の家に伝来した古文書や典籍類。当家は唐人町の櫛田家(平成15年度寄贈 櫛田祐一郎資料)の分家にあたる。もともと播磨国の出身で、赤松家、福島家、垣見家等に従ってきたが、関ヶ原の戦いの後、黒田家に仕えるようになった。18世紀初頭に本家から分かれる。歴代当主では、貝原益軒の孫弟子で朝鮮通信使の応接に功績のあった分家初代の琴山と、修猷館訓導兼詩読に抜擢され、海外の事物に関する書を多数著した幕末の当主駿が著名。資料群は、儒学者としての広い交友関係を示す書状類や学問活動を示す漢籍類、近代の教育関係資料等で構成される。中でも貝原益軒、竹田定直、雨森芳洲らが琴山に宛てた書状や、朝鮮の歴史・地理・風俗を紹介した「朝鮮聞見録」は、『福岡県史』をはじめとした各書でこれまでも紹介されている資料である。 | 505 | 762 |
2 | 立花俊彦資料(追加分) | 平成8年度収集資料の追加分。寄託者の家は、「南方録」で知られる福岡藩士立花実山の伯父立花重興の家系。本資料群は、重興から数えて6代目の当主で茶人の立花有得(武義、文化6〈1809〉年~明治26〈1893〉年)の収集によるものと考えられる。資料の概要は、茶道関係の写本類が大部分を占め、なかでも平成8年度収集の立花寧拙本「南方録」(福岡市指定文化財)とともに存在が知られていた、「南方録 秘伝・追加」(寧拙筆)と「南方録 目乾・坤」(実山筆)は注目に値する。 | 84 | 90 |
3 | 波多野聖雄資料 | 愛宕山出土瓦経片は郷土史家高野孤鹿氏、飯盛山出土瓦経片・怡土城跡出土鬼瓦は同木下讃太郎氏、他の瓦経・石経片は西日本各地で出土したもので同浪花勇次郎氏から寄託者に寄贈されたものである。鬼瓦は北九州市北浦廃寺出土のものに酷似し、大宰府系鬼瓦の模倣である。水滴形の目や逆心葉形の鼻など脱化した憤怒相である。寄託者が住職を勤めている大圓寺に葺かれていた巴藤紋軒丸瓦には、「大圓寺庫裏 軒丸瓦 寛保元年(1741)五月九日上棟」の注記がある。 | 15 | 15 |
4 | 大歳神社資料(追加分) | 平成9年度寄託の追加分。江戸時代後期の五ヶ浦廻船の姿を伝える唐泊大歳神社の奉納絵馬。唐泊は筑前五ヶ浦(他は能古、今津、浜崎、宮浦)の1つで、1,700石積以下の大船を有して藩の蔵米その他の貨物を運送した。享保2(1717)年の記録では浦の船数は14艘。隣接する宮浦は漁場を抱えず廻船業のみであったが、唐泊浦では漁業も行われ、万治元(1658)年唐泊浦と西浦の漁場境が決められた。江戸時代後期にはしばしば火災が起きており、文政7(1824)年には、浦の116軒が焼失している。絵馬の奉納者は榎田伝吉。製作年は、「口政七口口月上旬(口は欠損部)」とあり、「政七」の下にわずかに見える干支の文字が「庚」と読めるため、安政7年(庚申)の可能性が高い。福岡市指定有形民俗文化財。 | 1 | 1 |