目録 |
資料群名 |
解題 |
件数 |
点数 |
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鯉田博資料(追加分) |
平成11年度収集資料の追加分。博氏(大正5・1916年生まれ)の父・謙二氏(明治20・1887年生まれ、旅順の関東軍の軍楽隊を退官後、満州病院に勤務)が収集した絵はがきなど。寄贈者は、博氏の長男。哈爾浜、長春、奉天、京城、撫順などの絵はがきが中心。長春高等女学校、長春商業学校、旅順第一尋常高等小学校などの絵はがきも含む。また、少年向け雑誌の付録絵はがきも含まれており、出版文化や市民生活の資料としても興味深い。
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波多野聖雄資料 |
資料は九州帝国大学教授中山平次郎、郷土史家木下讃太郎、高野孤鹿、そして寄贈者によって採集され、寄贈者が住職を務められる大圓寺(福岡市中央区唐人町)に持ち込まれた古瓦である。大正初めから昭和30年代にかけて主に現在の福岡市、太宰府市内で採集されたもので、その後調査されることなく破壊された瓦窯跡資料なども含まれる。中山平次郎採集資料の一部は『考古学雑誌』に掲載され、北部九州における古瓦研究の端緒となり、大宰府、鴻臚館研究の基礎資料とされてきた学史的にも貴重なものである。寄贈資料には他にも土器、石器等多彩な採集品があり、これらは次年度目録に掲載予定である。
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鷹取龍生資料 |
福岡藩医鷹取家に伝来した古文書、絵画類。鷹取家は播磨国出身で、織豊期の当主鷹取秀次が備前国岡山に住み、宇喜多秀家に仕えた。関ヶ原合戦後、秀次は黒田長政から仕官の誘いを受けたが断り、代わりに2人の息子(聴松庵養巴、寿斎)が医術をもって黒田家に召し抱えられた。当家は聴松庵養巴の家系で歴代当主は養巴を名乗り、福岡藩に本道医(内科医)として仕え、聴松庵養巴の息子・雲松庵養巴の代には知行高400石となった。また、幕末期の当主・惟寅は尊王嬢夷活動に身を投じ、慶応元(1865)年の乙丑の獄で加藤司書らとともに処分された人物として知られる。
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4 |
小金丸種尚資料 |
筑前国裏糟屋郡上和白村(現・福岡市東区)の庄屋役などを務めた小金丸家に伝来した古文書群。小金丸氏は原田氏の支流にあたる家系。志摩郡小金丸(現・福岡県糸島市)に居住したことから小金丸氏を称した。当家の初代・小金丸虎政は、唐傍佐渡守虎秀の養子となり糟屋郡和白郷に住み、立花城主・戸次鑑連とその子・立花統虎に従い、家督を継いだ際に小金丸姓に復した。天正15(1587)年に立花統虎が筑後国柳川へ移った際に帰農し、その後の当主は上和白村の頭百姓、庄屋役などを務めた。なお、昭和47(1972)年度に福岡県文化会館(現・福岡県立図書館)が本資料群の調査を行い、『福岡県文化会館所蔵 福岡県近世文書目録』第3集(1973年)に目録が掲載されている。
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97 |
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篠原隆弘資料 |
寄贈者の生家に保管されていた資料群。おもな資料に荒神釜、棟上飾りの矢、神棚、仏壇などがある。荒神釜は、大正5(1916)年の陸軍大演習の際、家の近くの高台に御立所(ここを現在オノザッショと呼ぶ)が設けられた折、篠原家の井戸の水を使って茶をいれ天皇に差し上げたところ、下賜されたものだという伝承を持つ。棟上飾りの矢は、寄贈者の祖父にあたる篠原安右衛門が大工であったことから、棟梁として建てた家の棟上げ式に使用して保存していたものとみられ、福岡地域の建築儀礼用具として典型的な姿を見せる。
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前田盛幸資料(追加分) |
昭和59年度、平成7年度収集資料の追加分。内閣情報部編集のグラフ誌『写真週報』など。『FRONT』が対外的なプロパガンダ誌であったのに対し、『写真週報』は昭和13(1938)年に創刊された国内向けの広報誌。前線や占領地域の情報などのほか、銃後のくらしに関わるさまざまな情報が掲載された。『週報』とともに、戦時期の政府広報誌として重要な雑誌。
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7 |
野間吉夫収集資料(追加分) |
昭和60年度、平成13年度および17年度収集資料の追加分。故・野間吉夫氏が収集した民芸関連の資料で、その種類は多岐にわたる。個別の資料について詳細な入手経路は明らかでないが、同氏の著作等を参照することで特定可能と考えられるものも少なくない。
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門司道子資料 |
江戸時代の版行謡本。五番綴内組(よく知られた謡曲100番を5番ずつ1冊におさめる形式)20冊揃2組。寄贈者が知人より譲り受けたもの。刊行年度は天和元(1681)年と貞享2(1685)年。稀代の能好きとして知られた徳川綱吉治世下、謡本出版がピークを迎えようという時期の刊行。江戸時代の広範な謡曲の愛好と出版事業の盛行を示す資料である。
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塚本家資料(追加分) |
福岡藩医塚本家に伝来した書籍。昭和58、62年度、平成18年度寄贈の追加分。塚本家は長崎で医師をしていた道庵の時代に、福岡藩3代藩主・黒田光之の持病を治したことがきっかけで黒田家に仕える。近世を通じて外療科(外科)医の筆頭として300石から330石を領し、南蛮流の医術を導入し、歴代藩主らの治療に当たった。今回の資料群は、塚本家が収集していた近世の版本類で、外科医としての活動を窺わせるオランダ語の辞書、桂川甫周校訂『和蘭字彙』といった書籍や、日本で出版された四書五経の解説書等からなる。
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小川裕夫資料(追加分) |
平成18年度収集資料の追加分。明治後期から昭和前期の尋常小学校や高等小学校の教科書など、いずれも寄贈者宅で保管されていた資料群。明治政府は、明治16(1883)年に教科書認可制を導入し、明治19(1886)年には教科書検定制度を設けるにいたった。さらに、教科書疑獄事件(小学校教科書の採用をめぐる贈収賄事件)をきっかけに、明治36(1903)年には国定教科書制に踏み切った。この資料群の教科書は国定教科書時代のもの。また、当時の学習参考書も含まれている。
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德永芳江資料(追加分) |
平成18年度収集資料の追加分。寄贈者が生まれたときに作った着物類、および寄贈者の長女の初節供に贈られた雛飾り。寄贈者は昭和11(1936)年博多の生まれ。博多幼稚園、奈良屋国民学校に通った。着物は近親者から贈られた祝い着で、その多くは長女も幼少期に着用した。雛飾りは、昭和39(1964)年当時居住していた集合住宅に合わせて団地サイズで、高度経済成長期の住環境と節供飾りの関係をよく示している。
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帆足又十郎資料 |
寄贈者の亡父・又二郎氏(大正10・1921年生まれ)が復員時に持ち帰り、整理、保管していた戦時資料。千人針を施した肌着や近隣の神社の護符や五銭硬貨などをおさめたお守り袋など、出征に際して家族や知人から贈られたであろう品々のほか、認識票や双眼鏡、水筒など入隊後に支給されたものなどからなる。
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立石日出子資料 |
飯塚で雑貨店を営んでいた寄贈者の婚家にあった資料群。博多の商店の引札、明治期の錦絵などからなる。引札は、印刷された取扱商品から、寄贈者の婚家の雑貨店の取引先のものである可能性が高い。配布先が特定できる博多の商店の引札として貴重な資料である。
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岡玲子資料 |
寄贈者のために実父(福島県出身の軍人、昭和18・1943年に中国で戦死)が誂えた宮参り着物と、養父(大叔父にあたる)の勲章など。着物は当時実父の部隊があった岐阜で作ったものである。勲章が納められていた箱や勲記などは失われているが、胸に勲章をつけた養父の写真が残っている。満州国の勲章である「景雲章」や蒙古聯合自治政府の「肇建功労章」が含まれているのが珍しい。
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9 |
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清水駿一資料(追加分) |
旧福岡藩士清水家伝来の甲冑、陣笠、銃。平成4年度寄託からの切り替えで、平成3年、6年度寄贈資料の追加分である。今回の寄贈資料の大半は、寄贈者の祖父・駿太郎氏及びその父らが使用・収集したもの。銃は、幕末から明治初期にかけて日本に輸入されたスペンサー銃やミニエール銃等の洋式銃。兜には「慶応三卯初秋造之清水」と銘の入ったものも見られ、戊辰戦争との関連がうかがえる。駿太郎氏は明治34(1901)年に修猷館を卒業した後は教員として活躍し、昭和15(1940)年には玄洋社の役員も務めている人物。大正6(1917)年4月16日~大正10(1921)年6月4日までは沖縄県立那覇高校(当時の県立第二中学校)の校長を務め、首里高校(当時の県立第一中学校)校歌の作詞も手がけている。昭和16(1941)年5月19日、61歳で没した。
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菰田正國資料 |
早良区四箇の農家に保管されていた駕籠や農具等。駕籠は幕末から明治にかけて使用されたと見られるもので、オキョーカゴ(御経駕籠)と呼ばれていた。葬儀の際などに、四箇の明法寺の僧侶を運んだ。明法寺で保管されていたものを貰い請け、保存していたもの。このほか掩駄という畜力による施肥用具など農具や、棟瓦としても利用されていた高取焼の土管など早良平野の農家の生活を知ることができる資料群である。
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田隅タネ資料(追加分) |
平成2年度寄贈資料の追加分。前回は寄贈者の亡夫の母方に伝来した中世の国人領主宝珠山氏、近世には原氏を名乗り福岡藩に仕えた武家の家文書88点の寄贈を受けている(詳細は『平成2年度収集 収蔵品目録8』を参照)。今回は、江戸時代の著名な画家や書家などの略歴を書き上げた『新撰和漢書画一覧』など近世の版本と伊勢暦の寄贈を受けた。
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由布碧資料 |
寄贈者の岳父、海軍大佐・堀江亥之吉(海軍兵学校37期、戦艦陸奥の砲術長)所用の刀1口、短刀1口と、寄贈者の妻の養母・由布キクより譲られた由布家伝来の短刀1口。
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石橋紀昭資料(追加分) |
平成9年度収集資料の追加分。寄贈者宅で保管されていた書跡2点。来歴などは不明。前回寄贈分の資料(明治期の東公園の競馬会に関する資料など)とともに、石橋家に伝わった資料の一部として収集した。
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内田敏彦資料 |
陶製の鏡餅と、昭和前期に発行された幕末以降の歴史をまとめた書籍『幕末・明治・大正 回顧八十年史」からなる資料群。陶製鏡餅は、代用品として発明されたもので、愛知県の瀬戸で製造されたもの。『回顧八十年史』は、第1輯から第14輯までの合冊で、幕末から明治40年代までが収録されている。写真などの図版が数多く収録されており、近代史関係の展示での活用が期待できる資料である。
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株式会社丸二商会資料 |
昭和40年代発売の電子式卓上計算機(いわゆる電卓)。寄贈者の丸二商会で、昭和50年代まで使用されていたもの。中小の事業所で電卓が導入され始めた頃の製品で、ちょうど電卓の価格が下がりだした時期の機種。大正時代から使われていた手回し式の計算器の製造が中止されたのが昭和40年代半ばであり、事務用品の過渡期の資料であるといえる。
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髙丘和人資料 |
東公園(福岡市博多区)にあった武徳殿の鴟尾1対。武徳殿の解体を請け負った会社が、寄贈者の父(株式会社髙丘組の先代社長)の知り合いで、その関係で譲り受けたものらしい。髙丘組の倉庫に保管されていた。東公園の武徳殿は、昭和3(1928)年の落成。その屋根は山中精錬所金属瓦部(現・山中産業株式会社)が施工した。昭和戦前期の福岡、博多の絵はがきにも登場し、当時は福岡の代表的な建築物だったが、外観の写真以外の関連資料はあまりなく、武徳殿に関わる資料として貴重である。
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朝日新聞社資料 |
板付遺跡水田面足跡複製品は、昭和55(1980)年に開催された「邪馬台国への道」展で展示されたもので樹脂製である。展覧会を主催した朝日新聞社事業本部西部企画事業チーム企画委員の方が保管していた。昭和53(1978)年、博多区板付遺跡から縄文時代晩期(弥生時代早期)の水田遺構が発見された。水田面は洪水によって堆積した粗砂で一面覆われ、これを取り除くと、人間の足跡が指先まで明瞭に残った状態で検出された。日本最古といえる水田の足跡であり、本資料は検出時の状況を理解する上で有効である。
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安部和子資料 |
寄贈者宅に保管されてきた脇指。生ぶの中心には銘「近江守藤原継廣」が切られている。継廣は寛文頃(1661~73)に活躍した越前下坂派の刀工で、同派3代・康継の門人。初代・康継は中心に三ツ葉葵紋を切ることを許された徳川家康の抱工。2代目・康継の死後、江戸下坂派と越前下坂派に分かれたが、継廣は越前下坂派3代・康継に師事。江戸でも作刀した。福岡には黒田長政が近江から招いた筑前下坂派と、田中吉政がつれてきた筑後下坂派がある。郷土の刀工である下坂派を研究するのに、中央権力と結びついた江戸下坂派と大きな勢力をもった越前下坂派の存在は無視できない。江戸と越前に関係した継廣の脇指は、好資料である。
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奥田尊穂資料 |
美濃苗木藩に仕えた奥田家伝来の脇差1口。寄贈者の曾祖父・奥田正道氏は岐阜県恵那郡蛭川村(現・岐阜県中津川市蛭川)の初代村長を務めた。作者の国宗は、越中宇多派の刀工。国宗と称する刀工は、越中国砺波郡三日市村(現・富山県砺波市)に居住し、南北朝時代中期から江戸時代初期にかけて作例が見られる。
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笠富久夫資料 |
椅子の横に置いて暖を取る火鉢。初代福岡医科大学(現・九州大学医学部)第1外科部長、旧外科学第1講座初代教授・三宅速(はやり)氏の使用したもの。速氏は、徳島県生まれ。東京大学を出てドイツ留学からもどった明治43(1910)年に赴任。火鉢は赤坂門の自宅で教授の机の横に置いて使われたもの。最初の自宅は櫛田神社前で、その後赤坂門、芦屋、岡山と転居した。速氏は米軍の岡山空襲の焼夷弾によって昭和20(1945)年に他界。長男・博氏は4代目の第1外科教授。寄贈者の師。寄贈者は昭和35(1960)年7月に当時はめずらしい鉄筋コンクリートで医院を改築。昭和40(1965)年過ぎに、中高層に立て替え、階上を居住区とする。そこに博氏が同居し3年間くらいすごす。そのときに火鉢を譲り受けた。速氏は、来日するアインシュタインの下血の診断をし、船中で手術をしたことでも知られる。その御礼に来福したアインシュタインは、速氏の家を訪ねた。
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金子隆資料 |
終戦直後、洋画家・田川寛一(1900~1988)は金子洋裁学校(校長・金子テル子)で絵画を教えていた。この「福岡市鳥瞰」は、その時期に描いて展覧会に出品したが入賞しなかった作品である。しかし、この作品をたいそうに気に入った金子清氏(テル子氏の夫)が、譲り受けて現在まで保管していたもの。昭和22(1947)年8月に描き上げられたこの作品は、終戦直後の福岡博多を旧岩田屋デパートの屋上から鳥瞰した風景で、戦火で灰燼に帰した様子が窺える資料である。
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児島冨美子資料 |
福岡出身の首相・広田弘毅(1878~1948)の父・徳平の書跡。寄贈者の夫の祖父・児島善兵衛氏が、徳平氏と友人であった縁で、寄贈者宅に伝わったもの。徳平氏は、東公園(福岡市博多区)の亀山上皇像の建設にもたずさわった石工。
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藤田和生資料 |
藤田家は福岡藩3代藩主・黒田光之の時代から黒田家に仕えた家。延亨分限帳には藤田才兵衛清久が城代組13石4人扶持、文化分限帳では藤田喜内が同じく城代組13石4人扶持、明治初年分限帳では藤田重生が城代組14石4人扶持と見える(福岡地方史研究会編『福岡藩分限帳集成』海鳥社、1999年)。また、家系図によれば明和から寛政期(1764~1801)の当主であった藤田喜内義生が小呂島定番を勤めていたことが知れる。資料は「黒漆塗頭形兜・紺糸威胴丸具足」。兜は頭形であるが、中央に鎬が立てられ、通常頭形兜には見られない天辺の座が入るなど、典型的な頭形兜とは趣が異なる作例である。
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吉原秀一資料 |
博多織の壁張地。昭和11(1936)年完成の国会議事堂委員長室(両院協議室)の壁面に使用されたもので、織手のひとりであった寄贈者の祖父・諫氏がサンプルとして保存していたもの。昭和8(1933)年から2年半をかけて109m2の布が織られた。制作の指揮を執ったのは、当時福岡県工業試験場長であった野田俊郎。図案、紋紙を菅善三郎がデザインし、福岡県工業試験場の職工であった諫氏をリーダーに、牧俊八、清賀喜三郎、神谷誠らが織り上げた。諫氏は、博多織において独特の地位を築いた人で、手織りにその特徴があり、後に県指定無形文化財技術保持者にも認定された。
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