平成21(2009)年度収集 収蔵品目録 27
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
---|---|---|---|---|
1 | 大内士郎資料(追加分) | 平成20年度寄贈の追加分。寄贈者が今山遺跡で長年採集してきた磨製石斧製作に関連する資料(石斧未製品、砥石、叩石等)および、今宿周辺・北部九州・南関東の遺跡で採集された考古資料である。 今山遺跡採集資料については、磨製石斧の各製作段階の未製品の他、製作に関連する砥石・叩石・剥片、生活用具である石錘を含んでいる。また今山遺跡周辺の今宿遺跡など昭和30年代に発掘調査を経ずに開発された遺跡からの出土資料なども含まれている。その他、太宰府周辺出土の瓦や北部九州の各遺跡から出土した資料、寄贈者が知人より入手した南関東の遺跡から採集された縄文土器・石器なども含まれる。 |
366 | 1260 |
2 | 一丸俊憲資料(追加分) | 平成4年度寄贈の追加分。筑前琵琶の創始者一丸智定を出した一丸家伝来の資料群。前回は琵琶と近世期の古文書が中心だったが、今回は9割以上が近代資料。全体の6割は上赤間町の一丸家伝来の資料、残りの4割は一丸家から宮崎の吉野家へ嫁いだ菊枝(旭菊)関係の資料で、筑前琵琶の楽譜、版木、撥、琵琶等からなる。 楽譜は大正期から昭和初期にかけて「橘筑前琵琶宗家」が出版した分が最も多い。これらは東京で出版されており、当時の筑前琵琶の隆盛を知ることが出来る。表紙には所蔵印がある場合もあり、使用者が特定できる。版木は護符に関するもので、盲僧という宗教者から筑前琵琶を演奏する芸能者へと変わっていく過程が窺える。古文書では、珍しいところでは、明治7(1874)年の赤間町上の地価明細帖や、大正9(1920)年の子供山笠買物帳がある。大量の撥は白木や漆塗りのもの、螺鈿細工のあるもの等多彩で、用途によって使い分けていたことを推測させる。撥用革ケースや琵琶携帯具等の周辺用具もいくつか見られる。 |
316 | 466 |
3 | 山﨑啓司資料 | 寄贈者の祖父・山﨑勝右衛門氏(昭和22年に63歳で死去)の遺品のタンスから発見された「読売ニュース焼付版」。昭和17(1942)年12月から19年10月まで(836号~1129号)の写真ニュースがほぼ揃っている。毎月15~16枚発行されていたニュースを、定期購読していたものである。公共の場所などで掲示されることが多い印刷された写真新聞に比べて、はがきサイズに焼きつけられたニュースは、写真もクリアである。 | 310 | 311 |
4 | 石村鸞子資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 中西家は中西久吉が天保11(1840)年に博多織元富屋の徒弟となって博多織業に関わり始めたとされる。久吉の三男金次郎(初代)は明治24(1891)年に中西博多織工場の跡を継ぎ、各地の織物技術を取り入れながら多くの技術開発を行った。 当資料群は金次郎の五女カメが使用した帯、袱紗、風呂敷、裁縫練習道具、装身具、化粧道具、重箱で構成される。カメが博多で菓子舗を営む石村善右に嫁いだ際の嫁入り道具も多く含まれる。 なお、本資料のほか、9、11、12、15、23、29、32、36番の資料は、中西家関連の資料である。 |
60 | 78 |
5 | 猪野隆平資料 | 福岡藩宝蔵院流槍術師範高田家旧蔵の槍と古文書。寄贈者の母方が高田家と縁戚関係(祖母の父が高田新左衛門和正)にあり、資料が伝来した。高田家は又兵衛吉次(1590~1671)を祖とし、その長男が久居藩、次男が福岡藩、三男が小倉藩にそれぞれ仕えた。福岡藩の安政期分限帳では、馬廻組、無足組、城代組を含めて10家の槍術師範が確認できるが、当高田新左衛門家(100石)は、高田平之丞家(300石)、井上家(210石)に次ぐ三番目の禄高。なお、寄贈者である猪野家は、初代作兵衛が三代藩主光之以来黒田家に仕えており、幕末で20石6人扶持の無足組。 資料は猪野家のものは無く、全て高田家に関するもの。十文字槍(信国)と直槍(無銘)、槍術関係の巻物、書状類からなる。寛文10(1670)年の「巴之書」が最も古く、安政6(1859)年の「十文字槍目録」が最も新しい。 |
55 | 58 |
6 | 池田善朗資料 | 所蔵者が収集した昭和戦前期のSPレコード、および所蔵者撮影による8ミリフィルム。 SPレコードの内容は、博多にわかや筑前琵琶をはじめ、喜劇、落語、漫談、端唄、小唄、俚謡、流行歌、萬歳、童謡、浪花節、宗教歌となっている。昭和戦前期の大衆文化の状況を知ることができる資料である。 8ミリフィルムは昭和30年代後半に所蔵者が撮影したもので、福岡市内の国鉄・市電などの状況が記録されている。鉄道の様子を記録しようという意図のもと撮られたもので、映像資料として大変に貴重である。 |
52 | 52 |
7 | 三浦悦子資料 | 所蔵者は昭和3(1928)年に旧博多下西町の綿布問屋の娘として生まれた。民俗資料の多くは、生家である博多の松岡家で使われていたものを受け継いだもので、それに夫(旧博多御供所町出身)が使用した衣類が加わる。近代資料は、所蔵者が筑紫高等女学校在籍時の資料が多く含まれる。 戦前の博多の商家の生活の様子がうかがえる資料がそろい、また戦争末期の女学生の生活の様子を具体的にたどることができる資料である。所蔵者の証言とも併せて記録していくことで、活用が多方面に広がる可能性を持つ。 |
42 | 49 |
8 | 木村節夫資料(追加分) | 昭和61年度寄贈(油壺コレクション)の追加分。大正~昭和期を代表する博多人形師・小島与一とその弟子・九十九宏明が制作した人形、正月の干支置物など。1934年11月の日米野球を題材にした小島与一の「ベーブ・ルース」、そのほか寄贈者が幼時に使用したポッポ膳や節句人形、羽子板も含まれる。寄贈者の父・木村節夫氏は戦前に九州日報、戦後は西日本新聞で記者として勤務していた関係で博多人形師と交流があり、作品は人形師から誕生祝いなどとして贈られたものという。「金太郎」及び羽子板「鏡獅子」は寄贈者の誕生祝いとして送られたもの。 | 31 | 32 |
9 | 溝上理江子資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料群は中西金次郎(初代)の次女キヌが使用した衣類、袱紗、風呂敷等で構成される。キヌが福岡で質店を営む帆足又一郎に嫁いだ際の嫁入り道具も多く含まれる。 博多における商工業者、特に博多織元の生活の様子を知ることができる資料である。 |
28 | 28 |
10 | 中野君榮資料 | 寄贈者の母・神先民榮氏(昭和39年に83歳で死去)に関わる資料群。神先家は川上音二郎(1864~1911)を支援していた時期があり、それを恩に感じていた音二郎が、神先家が困窮した際に、神先家の娘・民榮氏を引き取って養育していた縁で、音二郎から神先家へ民榮氏の近況を伝える書簡などが残されたが、封筒が失われており、正確な年代を特定することができない。音二郎の葬儀の際に音二郎の妻・貞が送ったあいさつ状と香典返しと思われる博多織の袱紗も残されている。また、資料群には、成長して京都・先斗町で芸妓をしていた頃の民榮氏の写真なども含まれている。 | 25 | 26 |
11 | 安松奈津子資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料群は初代金次郎の次男二代金次郎の妻フサが使用した着物、帯等で構成される。フサは博多織元児島紀七郎の長女で、中西家に嫁いだ際の嫁入り道具も含まれる。 ウール製六花帯は、小戸野ユキが発明したもので、軽くて締めやすいのが特徴。昭和40年代に爆発的に売れた。 |
20 | 20 |
12 | 末次栄子資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料群は主として初代金次郎の次男二代金次郎の妻フサおよび所蔵者が使用した着物、帯、装身具、布団、袱紗等で構成される。フサは博多織元児島紀七郎の長女で、中西家に嫁いだ際の嫁入り道具も含まれる。 肖像画は所蔵者の義父末次三男で、初代金次郎の四男金作が発明した電気紋織技術によって製作されたもの。金作はこの発明によって恩賜発明賞、朝日賞を受賞している。 |
17 | 18 |
13 | 木村和男資料 | 寄贈者の収集資料。資料は近世の絵画、古文書・書籍類。絵画資料は、福岡藩に関連する御用絵師の資料。古文書・書籍類は、黒田光之や綱政など歴代藩主発給の書状写のほか、狩野派の絵師に関連する書状などが含まれている。 | 15 | 22 |
14 | 柴藤清吉資料(追加分) | 博多町人柴藤家に伝来した掛軸、什器類。平成18年度寄贈資料の追加分である。柴藤家については、『平成18年度収集収蔵品目録24』(福岡市博物館、2009年)の口絵および資料解題を参照。 資料の内容は、皇大神宮・八幡宮・春日宮の神託という形で神道の教義を説いた三社託宣(亀井暘洲筆)や円光大師像(法然上人)など信仰に関わる資料、吸物膳と平膳などの什器類で、これらが一括で行李に収められていた。信仰の場で使用された一連の資料と考えられる。また、「謎秀逸之巻」は、博多言葉を使った謎掛け遊びである「博多謎々」を書き残したものである。 |
14 | 29 |
15 | 生島ハナ資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料群は初代金次郎の四女ハナが使用した衣類ほか、生島家への嫁入りに際して準備した袱紗が嫁ぎ先の長崎では通常使われておらず、改めて掛け軸に転用したもの、また手製の手芸品等で構成される。 |
11 | 11 |
16 | 松田又一資料(追加分) | 平成元年度、平成3年度、平成5年度、平成17年度の追加分。 本資料は福岡市西区西浦で使用された船大工道具。鋸、鉋、鑿、錐、曲尺といった木造船製作に必要な道具類のほか、船を守護する船霊として納められる人形が含まれる。船霊習俗には玄界灘沿岸の各漁村においても違いがあり、西浦ではこうした人形を、船の中心にあたる帆柱のつけ根に納めるが、奈多で入れるのは少女の髪で、志賀島ではそうした御神入れはしなかったという。福岡周辺の木造船造船技術のありようを知ることができる資料である。 |
9 | 9 |
17 | 松田房徳資料 | 筑前臼井村長源寺(嘉麻市下臼井)の住職・宝雲(?~1847)、豊後玖珠郡戸畑村萬福寺(大分県玖珠町戸畑)の住職・南渓(?~1864)、筑前の儒学者・臼井茗圃(明治中頃没)などの書跡掛幅、および筑前の歌人・大隈言道(1798~1868)の和歌短冊。宝雲と南渓は浄土真宗本願寺派の学僧で共に本山の勧学として活躍し、当時盛んであった平田篤胤らの仏教排斥論に対抗した。資料は京都・本願寺で出会った摂津・瑛光寺の霊山上人の徳を讃えるものを含み、いずれも年記から天保年間(1830~1844)に同じ環境の中で制作されたことがわかる。大隈言道は幕末の福岡を代表する歌人で、短冊はいずれも歌集を出版するために大坂に滞在していた晩年のもの。寄贈者の家は明治期に石炭・米などを商った丸亀の商家で、資料は家財の整理をしていて見つかったものという。 | 6 | 6 |
18 | 森田愛子資料(追加分) | 福岡市中央区警固で使用された家庭用製麺機と、同地で販売されていた花火。 所蔵者の生家は、上人橋通りでよろず屋を営んでおり、戦時中にはその土間でうどんをつくっていたという。製麺機はその時に使用していたもの。商店であったため戦争中も小麦粉が手に入っていたという。戦後はほとんど使わなくなった。 花火は生家で売っていたもの。ねずみ花火の値段が五十銭となっていることから、昭和28年以前のものであろうと考えられる。戦中、戦後の町のくらしを知るのに好適な資料である。所蔵者からは、平成7年度に日の丸の小旗の寄贈を受けており、昭和前期の生活資料の拡充の点からも有意義である。 |
5 | 24 |
19 | 荒巻セツ子資料(追加分) | 平成18年度収集の追加分。寄贈者(大正9年、津屋崎生まれ)が、香椎高等女学校卒業後、八幡(北九州市)で裁縫修業をし、福岡市立授産所で和裁の教員をしていた頃に使用していたノートや、昭和20年代のまだプラスチック製品が珍しかった頃の蓋付き椀(5客組)など。福岡市立授産所は、昭和5(1930)年の開所。低所得者を対象に、和裁・洋裁・編み物などの職業訓練を行い、生徒は、技術を習得しながら、工賃を得ることができるシステムだったという。寄贈者は、結婚により退職するまで教員をつとめた。 | 5 | 9 |
20 | 殿上正光資料 | 所蔵者の父・正見氏が警察官として台湾に赴任した際に入手した衣類、魚籠と、殿上家に伝わる船箪笥。 台湾の衣類はタオ(ヤミ)族の籐製帽子、芭蕉製ベスト、樹皮製短甲。いずれも丁寧なつくりで、入手時期から大正時代以前の製作と推定される。昭和初期に撮影された同家所蔵の写真などにはこれらの衣類を身につけた人の姿が記録されている。魚籠はアミ族のもので、煤竹を用いた丁寧なつくりである。植民地下の台湾にて使われたものと考えられる。 船箪笥は、かつて姪浜住吉神社の神職を務めていた同家に伝わるもの。来歴が不明だが、同社への奉納品の一つであったとも考えられる。 |
5 | 5 |
21 | 石田貞利資料 | 博多旧下洲崎町の大工職石田家に伝わった法被類。新築修築に際して、棟梁が身につける法被と、博多祇園山笠の当番法被からなる。寄贈者の父・貞利氏(昭和10年生)が祖父・茂氏(明治35年生)のものとして保管していたもの。 建築関係の法被には、新三浦、福新楼、筥崎宮のものがある。新三浦は石城町に明治43(1910)年に創業、福新楼は明治37(1904)年に東中洲「小島屋」として創業し、大正10(1921)年に「福新楼」と改称、筥崎宮の法被には「重要文化財筥崎宮拝殿楼門修理」と染められており、昭和31(1956)年の国庫補助での修理で使用されたものと考えられる。これらの法被の使用者は寄贈者の祖父ということになろう。ただ、新三浦の法被が創建時のものであれば、曾祖父・増之助氏の使用の可能性もある。 なお、博多祇園山笠当番法被については、東町流(現東流)旧上浜口町のものであり、石田家が属す洲崎流(現大黒流)町内ではないため、使用者は不明。 |
4 | 4 |
22 | 加藤明道資料(追加分) | 平成4年、6年、11年度寄贈の追加分。同家からは平成4年に中国器物図屏風、6年に信國の脇差、11年に百万塔(レプリカ)の寄贈を受けている。今回の資料も上記の資料群と同じく、医師であった寄贈者の父親が収集したもの。鎧は、首から肩廻りを守る満智羅(まんちら)や覆輪の様子を見る限り、かなり上等な造り。寄贈者の父はこの甲冑を当時治療に当たっていた患者から譲り受けたという話だが、それ以前の伝来は不詳。銅鑼は「第八隣組」云々の紙が貼られており、戦時中の空襲時に使用された可能性がある、というもの。 | 4 | 4 |
23 | 中西金三郎資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料群は初代金次郎の五女カメの製作による袱紗と、初代金次郎が製作した博多祇園山笠高旗・差し旗(しなえ)で構成される。 高旗・差し旗(しなえ)を収めた箱には「明治二十二年」の銘がある。この年は旧片土居町が山笠の当番町を務めるにあたって製作されたものとみられる。 |
3 | 4 |
24 | 重松一資料(追加分) | 平成10年度、11年度収集の追加分。寄贈者が、昭和19(1944)年に出征した際に身につけていた認識票と、慰霊団の一員としてミャンマーへ赴いた際に使用した輪袈裟。寄贈者が属していたのは西部48部隊。当時、中国・雲南省にいた第56師団(通称:龍師団)に入る予定が変更になり、ビルマの第18師団(通称:菊師団)歩兵56連隊に転属となった。ビルマの第18師団は、31,000人余りの兵力があったが、激しい戦闘、補給路を断たれたための窮乏などにより、20,000人以上が戦死したとされる。 | 3 | 3 |
25 | 西新公民館資料 | 頭山満関係の複写写真。西新公民館が、頭山満の生家跡地付近にあるため、複写写真を作成したものと思われるが、いつ、誰が、何のために複写写真を作成したのか、詳細は不明である。頭山夫妻と西新小学校の教員との集合写真と、紅葉八幡宮跡地での頭山満を写した写真は、特に西新公民館のある校区と頭山満との密接な関係を示す資料といえる。なお、紅葉八幡宮跡地は百道松原、現在の西新パレス(福岡市早良区西新)一帯で、西新公民館の隣接地である。大正2(1913)年に現在地(福岡市早良区高取)に遷座した。 | 3 | 3 |
26 | 伊藤信博資料 | 20年ほど前に、所蔵者が妻のおじ(門司在住)から譲り受けたという銀秤と手動按摩器。 銀秤は、棹、皿ともに金属製。手動按摩器の内部構造の詳細は不明だが、筐体は木製。胴部についたハンドルを回転させて、振動を起こす。 |
2 | 2 |
27 | 小林茂春資料(追加分) | 江戸時代の博多と筑前を描いた図。平成9年寄託資料の寄贈への切り替え。平成10年度、11年度寄贈の追加分。寄贈者の小林家は江戸期から博多東町流北船町居住で商家を営んでいた。明治前半に建てられたという家屋は博多の伝統的な町屋建築として、かつて福岡市文化課の調査を受けたこともあった。しかし、老朽化にともない平成9年に解体され、所蔵品の多くが当館に運び込まれた。なお、これまで寄贈を受けたものの多くは近現代資料である。博多図は、南を上にして表装され、東西は実際の縮尺よりも横長。東は崇福寺、西は中洲、北は浜新町流の4町、南は房州堀跡までの範囲を描く。中嶋町北に「御船江」とある舟入がある点(「新御船入」は寛政3〈1791〉年に出来る)、中嶋町付近に元禄3(1690)年の町数・人数の情報がある点、中洲の橋の数が少ない点等から、18世紀頃の博多を描いたものと推測される。筑前国図は博多で刷られたもので、比較的よく知られた図。 | 2 | 2 |
28 | 竹中宏幸資料(追加分) | 平成14年度収集の追加分。寄贈者の祖母が、広田弘毅(1878~1948)の妻(静子)と従姉妹であった関係で、竹中家に伝わった広田弘毅の書。「興亜」の額には、裏に首相官邸から出された封筒が貼り付けられており、広田が第32代内閣総理大臣であった昭和11(1936)年に竹中家へ送られたものと推察される。掛幅には「廓然大公物来順応」と書かれているが、これは、広田弘毅の座右の銘であったといわれている。 | 2 | 2 |
29 | 田中岱子資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料群は金次郎の六男十二夫が製作した帯地と扇子で構成される。博多祇園山笠を描いた図柄は、関取しこ名入り帯地(溝上理江子資料)を参考にして作られた。 |
2 | 2 |
30 | 村尾俊郎資料 | 寛永11(1634)年3月15日に福岡藩二代藩主黒田忠之(1602~1654)が家臣の村尾蔵人(~1659)に発給した知行充行状と知行目録。所蔵者宅で蔵を整理した際に発見されたもの。内容は、嘉麻郡下臼井村(現嘉麻市)・下三緒村・立岩村(現飯塚市)の内1500石の知行地を与える、としたもの。村尾蔵人(三右衛門、友時、万治2年6月7日没、墓所=安國寺、戒名=古松貞也居士)は、「元和分限帳」で知行高300石とある他は、他の分限帳では見当たらない。村尾姓自体も「寛文分限帳」以降見られなくなり、福岡藩から去ったと推測される。近世初期の文書では、福岡城築城をはじめとする普請関係(『福岡県史近世史料編福岡藩初期』673・689・700・703・1250号)、大坂参陣(同281号)、長政逝去(同695号)、島原の陣の戦後処理(同243号)等で名前を確認できる。長政に近い立場にいた人物のようで、遺言で2000石への加増を約束されている(『黒田家文書』第2巻70号)とともに、遺品として「古心の道号」の軸を受け取っている(同72号)。そして、長政が亡くなった際には、遺骸を京都から福岡へ移送する役目も務めている(「黒田家譜」)。しかし、忠之の代になってからは、長政から拝領した茶壺を召し上げられたり(『福岡県史福岡藩初期』1199号)、知行を遺言より500石少なく押さえられていたりすることから、長政時代と比べれば不遇な扱いを受けていたようである。 | 2 | 2 |
31 | 大神皓資料 | 福博の名物男と称された「箱﨑ツンちゃん」こと大神常吉の肖像。大神常吉は安政元(1854)年箱崎生まれ。果物卸商を営む傍ら、県内各地の娘たちの氏名、年齢、特長などを調べ上げ、その一覧を番付にして発行し評判を取った。明治22(1889)年の「福岡県筑前国娘別品競」、明治27(1894)年の「福岡県娘別品競」が知られる。彼はこうした情報を生かし、社寺の大祭などに際して娘行列なるものを催し、福博の娘たちを従えて市中を練り歩いた。晩年は、娘番付に代わる娘写真帳を制作し、また若くして亡くなった娘たちの霊を慰めるため、市内入定寺に月痕花影の碑の建立をもくろむものの実現を見ぬまま大正13(1924)年に死去。この写真は娘写真帳制作に際して印刷されたものではないかとみられるが、詳細は不明である。 | 1 | 1 |
32 | 小河キヨ子資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料は中西博多織店製造の博多生絹(すずし)の着尺地。販売当時の箱を伴う。他の中西家関連資料とともに、博多織元による製品を知ることができる資料として貴重である。 |
1 | 1 |
33 | 桐山弘士資料 | 旧福岡藩士桐山家に伝来した羽織。桐山家は播州以来黒田家に仕えた大譜代。初代丹波丹斎は職隆・孝高・長政・忠之の4代にわたって仕え、黒田二十四騎の一人に数えられている。丹斎は長政の筑前入国後、中老として6000石を与えられ、山家宿の代官を勤め、在任中は毛利但馬と協力して冷水峠の開通等に尽力した。しかし、丹斎以降は分知され、600~200石で数家が分立し、明治維新を迎えた。寄贈者は分家した桐山家の内「市郎大夫家」(馬廻組500石)の子孫にあたる。この羽織は所蔵者の4代前の当主大三郎一麿(1856~1908)が使用したもの。大三郎は明治初年に福岡藩の勤王の志士伊藤清兵衛の名跡取立に際し、同家に養子に入るが、その後桐山家に復籍する。18歳で佐賀の乱の鎮圧に参加、その後は教員、巡査、農商務省の官吏等を務めた。羽織には桐山家本家の「井桁」紋を改変した「井桁に一の字」の紋が入る。 | 1 | 1 |
34 | 黒田雪惠資料 | 福岡藩筆頭家老三奈木黒田家に伝来した掻巻。後ろ身頃に三奈木黒田家の家紋である唐人笠紋が入る。三奈木黒田家は本姓加藤。荒木村重の家臣であった加藤重徳が幽閉中の黒田孝高の世話をしていた関係で、のちに重徳の息子一成が孝高に引き取られ、黒田長政と兄弟同然に育てられた。黒田姓を与えられた同家は、家臣団の中でも唯一幕末まで1万石以上を保ち、下座郡三奈木村(現・朝倉市三奈木)に居を構えたことから「三奈木黒田家」と呼ばれた。 三奈木黒田家の資料群は、昭和30(1955)年に古文書6000点余りが九州大学へ、昭和58(1983)年に、武具や什器類約350点が福岡市博物館へ運び込まれ、それぞれで収蔵・公開している。今回の掻巻は、九州大学へ資料を預けた一夫氏の弟良春氏の夫人が義母から譲り受けたもの。義母は松本家から黒田家に嫁いだ人物。 |
1 | 1 |
35 | 進藤一馬資料(追加分) | 昭和61年度、昭和62年度、平成6年度の追加分。 本資料は、福岡市西区玄界島で使用されたガラス製の浮標。およそ一尺五寸の寸法で、定置網等の大型漁網に使用されていたものとみられる。玄界島民が、福岡市長(第17代)をつとめた進藤一馬氏に贈ったものである。 |
1 | 1 |
36 | 中西裕子資料 | 博多旧片土居町の博多織元であった中西家関連の資料。 当資料は初代金次郎の四男金作が発明した電気紋織技術によって製作されたもの。金作はこの発明によって恩賜発明賞、朝日賞を受賞しており、その受賞記念に製作されたものである。 |
1 | 1 |
37 | 大和豊治資料 | 奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石棺内より出土した経錦の復元品。 京都の川島織物が奈良県立橿原考古学研究所の依頼・指導をうけ、当時の素材・技術に基づいて製作したもので、橿原考古学研究所が所蔵しているものの他に、当時関係者に配布された裂地の一つを寄贈者が川島織物から譲り受けたものである。本資料は裂地が額装されている。原資料は遺骸を覆うように掛けられていたものとみられ、全面に亀甲文が施されている。藤ノ木古墳出土の経錦には亀甲文と菱繋ぎ文の2種類が確認されており、当該資料は亀甲文の経錦である。 |
1 | 1 |
38 | 吉野忠記資料(追加分) | 平成5年度寄贈の追加分。福岡藩士安永又兵衛の槍術他流試合の記録1冊。波多江文子資料(平成5・18年度寄贈)と元は一体であった資料。平成18年度寄贈波多江文子資料にある屏風仕立ての「上京日記」は、同じ安永又兵衛によるもの。又兵衛の師匠の井上兵左衛門は福岡藩の槍術師範役を勤めた人物。「安政分限帳」には220石で養巴町に屋敷を構えていたとある。槍術師範としては300石の高田家に次ぐ家。内容は、又兵衛が九州や周防・長門等の各藩で槍術の他流試合をした相手の名前を書き留めたもの。時期は安政7(1860=万延元年)年閏3月~4月にかけてで、対戦した場所は柳川、久留米、大村、島原、平戸、中津、長府等10ヶ所余り、記載された人数はのべ550名に及ぶ。 | 1 | 1 |
39 | 渡邉英典資料 | 東京・赤坂の黒田邸で執事をしていた、寄贈者の母方の伯父・溝口虎五郎氏より譲り受けた、金子堅太郎(1853~1942)の書。大日本帝国憲法発布(1889年2月11日)50年の節目の昭和13(1938)年に、金子が桃山御陵(明治天皇陵)に参拝した後、赤坂の黒田邸に立ち寄り、溝口氏の求めに応じて揮毫したもの。金子堅太郎は、井上毅・伊東巳代治らとともに、伊藤博文のもとで大日本帝国憲法の起草にあたった。資料中の「四人臣」とは憲法起草にあたったメンバーのことを指すのであろう。 | 1 | 1 |
【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
---|---|---|---|---|
1 | 崇福寺資料(追加分) | 平成16年度寄託の追加分。崇福寺に伝来した江戸時代の染織の荘厳具。内容は、大小の打敷、水引、戸帳、華蔓など。崇福寺は、福岡藩主・黒田家の菩提所の1つである。伝来の荘厳具は、裏面に墨書銘を有し、福岡藩主やその室などを供養する法要のために調製されたと判明する例を多く含む。材質には、繻珍や金襴・銀襴など荘厳具の裂地としてスタンダードな高級織物のほか、能装束に用いる唐織や女性の衣料に用いられる刺繍裂などが見られる。 江戸時代の荘厳具の染織品は、伝来例が少なく、また、墨書銘で調製の年代や経緯が判明することは、非常に重要である。 |
62 | 68 |
2 | 承天寺資料 | 承天寺所蔵の木造釈迦三尊像及び楊柳観音菩薩像2幅(甲本・乙本)。釈迦三尊像は面貌が穏やかで体躯がゆるやかな曲線から構成されるなど平安後期の様式的特徴を示す。ただし、額の中央で髪際線がたわみ衣文が緊密に刻まれるなど、新しい時代の要素も看取される。制作は鎌倉時代初期であろう。国指定重要文化財。2幅の楊柳観音像は『華厳経』入法界品にもとづき善財童子が観音菩薩を訪ねた場面を描いたもので、観音の透明なベールに描かれた透かし文様や金泥を用いた精緻かつ濃密な表現技法などから、いずれも朝鮮半島・高麗時代に制作されたとみられる。福岡市指定文化財。 | 24 | 29 |