平成22(2010)年度収集 収蔵品目録 28
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 西村長實・楢崎久矩資料(追加分) | 平成13・17年度寄贈の追加資料。筑前今宿で酒造業を営んできた西村家に伝来した資料群で、近世~近代文書、版本・刊本、酒造業に関わる道具類、同家の信仰に関する資料等からなる。 西村家は江戸中期から志摩郡谷村に居住しており、江戸後期には長次郎、長三が庄屋を務め、戦前には長臣が今宿村最後の村長を務めている。酒造業としては「松屋」という屋号で戦前まで「松乃玉」という酒を販売していた。 資料の内訳は近世資料が約109件(うち版本写本類が8割)、近代資料が約880件(明治期5割、大正期2割、昭和期3割)、民俗資料が62件である。近世では松原出仕や苗字名乗りを許可する文書等の家の由緒に関するもの、明治以降は書簡、冠婚葬祭関係、書籍類が多い。特に書籍の中では明治~戦前の教科書が目立つ。 酒造業関係としては、屋号が入った前掛や桶等が伝わる。 注目すべき資料としては、『今宿村是』(842)、「志摩郡今宿村全図」(884)、写真「福岡市合併記念」(623)、「紀元二千六百年式典参加関係資料」(144・145)、「亀井少琹関係資料」(1055)等がある。また、戦前の新聞附録や各地の観光地図類も豊富で、明治35年の福岡城内火薬庫爆発事件を知らせる「福岡二十四聯隊変災実況」(895)や昭和2年開催の「東亜博覧会鳥瞰図」(909)等、福岡に関する資料も散見される。 |
1085 | 2117 |
2 | 松村黎子資料 | 寄贈者の父・松村榮一(1911~1944)氏関係書簡などを中心とする資料群。同氏は八幡製鉄所に勤務していたが、支那事変勃発後に召集、ビルマ戦線で戦死した。寄贈者の母である松村ヨシ子氏が整理・保管していたもの。 本資料には、松村榮一氏の履歴書、死亡通知書や同氏が応召後、訓練中に自宅へ送った葉書や戦地から送った軍事郵便がある。また、榮一氏の弟・重隆氏に関する資料も含まれており、応召中の給与の支払いに関する勤務先とのやりとりが分かる資料や、戦後ソ連に抑留されていた時期にヨシ子氏にあてた葉書がある。 戦中・戦後のひとびとの暮らしを示すとともに、軍事郵便・抑留者用葉書といった特殊な郵便物としても重要な資料である。 |
112 | 122 |
3 | 納屋弘資料 | 旧福岡藩士納屋家に伝来した古文書。大坂商人だった納屋家は、初代年芳(小左衛門)が関ヶ原合戦で石田方に人質に取られそうになった黒田如水・長政の両夫人の脱出を手助けした功により、黒田家に100石で抱えられた。年芳の息子年永(与右衛門)は浪人となり、その子八郞兵衛は檜皮屋となるが、次の永貞(与兵衛、長慶)の代に3代藩主光之の掃除坊主となったことがきっかけで再興する。以後、芳春(勘次郎、慶入、10石3人扶持)-永芳(貞吉後与兵衛)-年貞(小兵治後与八郞)-永建(与八、貞吉、貞八、保介、13石3人扶持)と続き、永則(羊吉)の時に明治を迎えた。8代の永建は、御構物書、御側筒、大目付所下書、長崎御茶屋附、郡役所附等を歴任している。 資料は「御感書」として同家の重宝として扱われた黒田長政知行宛行状、栗山利安、母里友信、黒田直之、黒田利則らからの書状と、系譜類、近世中後期の褒状や呼出状、黒田家法要への参加に関する文書等からなる。 『福岡県史近世史料編福岡藩初期(上)』(西日本文化協会編、1982年)の解題も併せて参照されたい。 |
76 | 82 |
4 | 一鬼秀之助資料 | 寄贈者の祖父の弟である一鬼三郎(1880~1928)氏に関する資料。同氏は修猷館中学校を卒業後、長崎県で小学校教員となり、1921年に朝鮮・全羅南道に出向、同地でも教員(校長)をつとめた。 本資料は、明治39(1906)年から大正15(1926)年までに同氏が長崎県および朝鮮で受けた辞令・講習証書と、昭和3(1928)年の校長在職中の死去に対する弔辞を中心とする。この他、大正9(1920)年の第一回国勢調査や昭和3(1928)年の昭和天皇即位大礼の記念章が含まれる。辞令類は、明治後期から大正期における教員のキャリアを追うことができる貴重な資料である。 また、朝鮮語・朝鮮古代史などの講習の証明書は、朝鮮における教員の適応・養成実態を考える上で有益である。 |
71 | 73 |
5 | 高杉養次資料 | 高杉資料は、大正15(1926)年から昭和43(1968)年まで八幡製鉄株式会社に「技手」として勤務していた高杉養次(1908~1991)氏の関連資料が中心である。戦前期の辞令書や、戦前戦中戦後の「送風機・清浄機運転記録」などから養次氏が、同製鉄所の技術者として活躍したことが窺える。また、養次氏が記録した「送風機・清浄機運転記録」や「参考簿」などから、戦前・戦中・戦後期における八幡製鉄所の稼働の一端がわかり貴重である。 なお、本資料には、初代産業医科大学保健学部長を務めた高杉昌幸氏の関連資料が含まれる。 |
46 | 57 |
6 | 香西八十衛資料 | 寄贈者宅に保管されていた大正~昭和期の書籍・絵葉書。内容は主として福岡県・市と九州帝国大学に関連するものからなる。 福岡県・市関連では、昭和2(1927)年に開催された東亜勧業博覧会の事務局あるいは協賛会発行の書籍・絵葉書と、大崎周水堂発行の「福岡県絵はかき」3セットなどがある。これらの絵葉書が包紙とともに一括されたものは貴重である。 九州帝国大学関連としては、大正15(1926)年発行の要覧の他、医学部・工学部・農学部校舎のスケッチを絵葉書にしたものがある。これは、学部学科の記載から、およそ大正13(1924)年から昭和14(1939)年であると推定される。 |
27 | 27 |
7 | 寺澤晃藏資料 | 本資料は旧福岡藩家臣村上家に伝来した武器、武具甲冑類および武術書類で、所蔵者が近年村上家の子孫から譲られたもの。村上家は2代福岡藩主黒田忠之代からの家臣で、幕末・明治期には無足組で15石4人扶持、荒戸近辺に屋敷があった。内容は、武具類は、魅前立の六二間筋兜、紺糸威二枚胴の桶側胴、「三つ寄せ笠」定紋付の陣笠や、朱塗鎗柄の残る十文字鎗・銘「筑州住源信国作」など。武術書類は、幕末・明治期の当主・村上與八郎が天保~安政期に学んだ弓術、槍術、砲術、柔術、抜刀術の免許状や秘伝書で、明治期の二天一流の「五輪之書」写しも残されている。 | 26 | 27 |
8 | 柴戸家・五島山古墳出土資料 | 西区JR姪浜駅南方にかつて存在した五島山丘陵上の箱式石棺から、大正3年10月13日に発掘された一括資料である。大正6年、中山平次郎が「九州北部に於ける先史原史兩時代中間期間の遺物に就て」で紹介し、銅鏃が石鏃に近い形であることから「金石併用時代」の実例として用いられた。内部に朱を塗った箱式石棺より出土しているが、墳丘の形状は不明である。斜縁神獣鏡の型式と銅鏃の形状などから、五島山古墳は古墳時代前期の古墳とみられる。良好な一括資料であり、北部九州のみならず日本全体の古墳研究上でも重要な資料である。 発見者は柴戸善正氏で、資料は柴戸氏の妹・中村ナミ氏により旧福岡市歴史資料館に寄託され、平成2年から当館に寄託されていた。中村ナミ氏は寄贈者の祖母にあたる。 昭和16年4月9日に重要美術品の指定を受け、昭和60年3月7日に福岡市指定文化財に指定されている。 |
20 | 20 |
9 | 原田久男資料 | 本資料は、寄贈者が戦前・戦後にかけて使用し、寄贈者宅に保管されていたもので、カメラ関係資料と国語読本などからなる。 本資料中の小型カメラ「マイクロ」は、三和商会から1939(昭和14)年に発売された、14×14㎜判のフィルム(「ミゼットフィルム」)を使用する写真機である。2年前(1937年)に美篶商会から発売された「ミゼット」とともに、戦前期の小型カメラ人気を競った。ミゼットフィルムを使用した小型カメラは「豆カメラ」と呼ばれ、戦後には輸出品となるなど、戦前から戦後にかけて流行した。本資料は、日本におけるカメラの歴史を考える上で貴重である。 |
19 | 25 |
10 | 藤井靖司資料(追加分) | 平成2年度、平成3年度、平成4年度、平成17年度寄贈の追加分。 毎年5月3日・4日に開催される福岡市民の祭り「博多どんたく港まつり」に参加する博多松ばやしは、「参加団体名簿」によれば、参加番号は100(参加番号100番からはじまる)で、どんたく隊名称は「博多松囃子振興会」となっている。同まつりの際のプログラムである「博多松ばやし道順」が、ほぼ20年分揃っており、関係者以外にはあまり出回らない印刷物でもあることから、貴重な資料である。 平成時代の博多松ばやしの一端を示す資料である。 |
19 | 20 |
11 | 原清資料 | 本資料は、寄贈者が趣味で使用していた8ミリ関係の機材などからなる資料群である。富士フイルムが開発した個人向けムービーフィルムである「シングル8」に関連した機材を主とする。 カメラ、ライトの他、編集機、映写機、スクリーン等、8ミリフィルム関係の機材一式が揃っている。いずれも昭和40年代から50年代にかけて発売された製品である。また、8ミリ映画5件を含む。 戦後における人びとのくらしを示す資料として、今後の活用が期待できる。 |
16 | 18 |
12 | 小西俊之資料 | 本資料は、寄贈者が自宅近くの古紙回収所で拾得した雑誌「オール博多」で、創刊号(第1巻1号)から第1巻12号(1936年12月発行)までがある。この中には、博多築港記念大博覧会を特集した第5号などが含まれる。 「オール博多」は、昭和11(1936)年に創刊された月刊誌である。売価は20銭であった。発行所のオール博多社は、警察官(高等警察)であった田上文次郎が退職後、雑誌発行のため創設した。表紙は博多の人気芸者、カフェの女給、女将の写真の原色版印刷であり、内容は政治的な話題から福岡に関係する人物の風聞・噂話、博多・中洲の店舗紹介、文芸欄におよぶ。当時の福岡・博多の風俗を知る上で貴重な資料である。 |
12 | 12 |
13 | 田隅タネ資料(追加分) | 平成2年度、及び平成19年度に寄贈された田隅タネ資料の追加分で、武家の刀剣や近代の日常用品など。田隅家は、旧福岡藩士で安政期の切扶持高4人13石、江戸時代後期に田隅六左衛門(信輝)が新規召し抱えとなった。その際に、刀一振を無銘ながら、仕官の記念的な家宝として残した。さらに明治10(1877)年の福岡の変の際に、当時の当主六七郎が、所持刀剣のうち家宝である「正」の刀は家に残し、「副」の刀と「正」の脇差しを持って急ぎ出陣、戦死した、というもので、六七郎の遺品としても伝来した。第二次大戦中に軍刀として使用されたため、軍刀装となっている。このほか、アルコール製のランプなども残されている。 | 9 | 9 |
14 | 下石釜弁財天堂資料 | 早良区石釜にある浄土真宗明光寺境内の弁財天堂に安置されていた弁財天像。『金光明最勝王経』に説かれる八臂の弁財天像で、頭頂に人頭蛇身の宇賀神があらわされる。台座裏には文政11(1828)年に博多鰮町下の仏師大塚武平慶般の墨書があり作者が判明する。大塚慶般は近世の福岡で活動した福岡東名嶋町の仏師佐田文蔵慶始の子で最初は慶始と共に活動しているが、後に博多鰮町に分家して大塚姓を名乗っている。なお、本像を安置していた弁財天堂(平成22年に解体)の棟札3枚と鈴1点が付属し、このうち文化13(1816)年の棟札には当時の庄屋など関係者の名が記される。 | 5 | 5 |
15 | 戸川愛子資料 | 旧福岡藩士戸川家に伝来した肖像画類。戸川家は4代綱政の時に黒田家に仕え、追廻馬場付近に屋敷を構え、御馬方として、馬の調教等の仕事を代々務めた。「明治初年分限帳」によれば幕末で17石6人扶持。戸川家は他に料理人頭となった家があるが、こちらとの姻戚関係は未詳。明治の当主戸川直は明治18(1885)年に設立された士族授産事業のひとつ筑陽社の設立に参加し、副社長となっており、県会議員も務めている。明治以降の動向が分かる同家の資料は既に福岡県地域史研究所が収集しており、「戸川(博)文書」として312点の資料目録が公開されている。 資料の内容は、近世後期の戸川家当主信龍の肖像画3幅、黒田忠之像1幅、黒田長溥書1幅の計5点。肖像画はいずれも信龍の馬上像で2幅には賛がある。その賛によれば、文化9(1812)年、家老の加藤徳祐が奥州の八幡道直(留守家家臣ヵ)の馬を欲し、その調教を任された信龍が見事にその馬を乗りこなし、賞賛を受けたエピソードを題材にしていることが分かる。忠之像と長溥書は同家伝来の品ではなく、近代以降の収集品と伝える。 |
5 | 5 |
16 | 下山門東組西組念仏講資料 | 西区下山門で行われていた念仏講に関する資料群。下山門四丁目地内に構成されている組のうち東組・西組の記録である。名称は念仏講であるが、周期的な信仰行事はほとんどなく、実態は葬式組に近い。 念仏講は平成16年6月8日を最後に絶えたが、この記録により寛政8(1796)年以来の死亡者、参加者、徴収金等を知ることができる。また、「ジトリ」と呼ばれる墓穴掘りの、大正13(1924)年~昭和41(1966)年までの担当者、申し合わせ事項等も記録されている。福岡市域の葬儀及び講の仕組みに関する資料は少なく、その変遷を知るうえでも貴重な資料である。 |
4 | 4 |
17 | 松本安雄資料 | 南区和田の松本家で使用された生活、生産の用具類で、自宅納屋に収納されていたものの一部。 松本家は代々の農家で、寄贈者は分家して5代目という。金気の多い水を濾過して飲用可能にするための甕や、肥料として利用するため都市部の糞尿を集めた肥桶等は、福岡市南郊農家の生活環境や福博都市部との関係を示す貴重な資料である。 また同家は、農地を宅地化した場所に数十軒の貸家を所有しており、そこに設置されていた風呂桶からは、郊外の都市化の様子をうかがい知ることができる。 |
4 | 4 |
18 | 嶋英子資料 | 寄贈者の実家(久留米市)に伝来した女性用往来物と千字文。往来物は庶民の教養書として、近世後期以降多数出版されるが、これは内容から女性向けのもの。嫁入り時に覚えておいた方が良い知恵や手紙の書き方、姑との付き合い方等実用的な情報を収録する。表紙が欠けているため書名が分からないが、奥付から安永4(1775)年に高田政度(まさのり)という人物によって編纂されたものと分かる。高田は「女要福寿台」(安永3年刊)といった往来物も刊行しており、本書も何らかの関係があるものと推測される。千字文は漢字習得のために教材として選んだ字種の異なる千字からなる韻文集。一句が4字からなる250句で構成される。一字の重複もなく千字あるから名付けられた。真偽は不明だが、百済の王仁が「論語」と「千字文」を日本に伝えたという伝承が「古事記」にある。平安時代以降、漢字・習字の教科書に使用された、日本でも馴染みの深い書。 | 2 | 2 |
19 | 田中順子資料 | 寄贈者の実家(久山町猪野)に伝来した剣術書と脇差。同家はかつて大工をしており、福岡藩に関わる仕事もしていたという伝承を持つ。剣術極意書は細井藤四郎から松尾文蔵宛てで、剣術の極意を和歌に託して分かりやすく伝えたもの。細井は「安倍撃剣達者」として海妻甘蔵が「己百斎筆語」の中でその人となりを紹介している。禄高は200石、辞世は「口惜しやたゝみの上の野たれ死に太平すきし御代に生れて」。脇差は「加州住藤原家次」の銘があり、寛文期(17世紀中期)に活躍した加賀の刀工によるもの。 | 2 | 2 |
20 | 長田昌三資料 | 刀は、寄贈者の父長田藤次氏が従姉の婿で玄洋社社員・戸田順吉から譲り受けたもの。口伝によると、戸田順吉は、頭山満から本刀を譲り受けたという。脇差は寄贈者が刀の揃いと考え、刀剣商より購入したもの。銘文はともに「筑州住源信國重包」とあるが、脇差は筑前信国派4代で、筑前信国派のなかでもっとも優れた刀工と評される4代目重包の作、刀は江戸時代後期の筑前信国派9代重包の作である。 | 2 | 2 |
21 | 西田邦彦・深堀千鶴子資料 | チベット仏教の仏画(タンカ)2点。「四臂マハーカーラ」は日本の大黒天に相当する憤怒尊。通常六臂像が一般的であるが、本像は四臂である点が珍しい。「ツォンカパと二大弟子」はチベット仏教ゲルク派の祖ツォンカパ(1357~1419)を描いたもので、上部に釈迦・無量光・無量寿の三尊、下部に二大弟子と護法尊を配す。2幅とも正確な構図と緻密な筆致から専門の画工によって18世紀から19世紀にかけて制作されたとみられる。本資料は戦前大陸に赴任していた寄贈者(千鶴子氏)の父が終戦時愛媛県松山市に引き揚げる際に義弟から託されたもので、リュックサックに入れるため表装をはがして持ち帰ったため、現状は和表装となっている。西田邦彦氏は千鶴子氏の兄。 | 2 | 2 |
22 | 博多高砂連資料(追加分) | 平成10年度収集資料の追加分。 資料は旧博多矢倉門町で町の共有具を保管した長持と、高砂連の詰所・高砂会館の風呂の焚口に嵌められていた商標タイル。 矢倉門町の名は大友宗麟の家臣が楼門を築いた故事によるとされる。この長持が製作された大正8(1919)年時点では、矢倉門町はまだ祇園町字矢倉門で、これが公称町名になるのは昭和8(1933)年のことである。その後、昭和41年に一部が祇園町に、同44年には博多駅前二丁目となった。 旧町名時代の博多の共有具の実例として貴重である。 |
2 | 2 |
23 | 久野英子資料 | 旧福岡藩士で黒田二十四騎久野重勝を輩出した久野家に伝来した系図類。巻子になっている系図は大まかに「正統歴代之家系」「分出別家之系伝」「正統自家分派之系伝」の3種に分けられる。「正統」は家老を輩出した嫡流、「分出別家」は重勝孫で黒田一任弟である一重の次男次左衛門一則の系統、「正統自家分派」は一重の三男四兵衛一通の系統になる。寄贈者の家は「正統自家分派」にあたる。一通(一重三男)以降は、一至-一憲-一義-一徳-延吉-八十吉-英一郎(寄贈者夫)と続く。冒頭の記述によれば、一通の時代に分家に対して久野家の系図が分与され、一通の孫である元右衛門一憲(馬廻組100石)が今一度整理を行ったことが分かる。一憲は先祖調査に熱心だった人物のようで、もう1点の「久野家系伝記附録」では、先祖伝来の文書等を引用し、播磨時代からの久野家の歴史を考証している。 ちなみに、寄贈者は女性初のエベレスト登頂を成功させた登山隊の隊長でもある |
2 | 2 |
24 | 山田隆夫資料 | 福岡藩主黒田家の草創期を支えた家臣団を描いた黒田二十四騎図とその配置図。伝来はよく分かっていないが、寄贈者によれば、父か祖父の収集品であろうとのこと。寄贈者の母が書いたという二十四騎配置図は戦前の博多の地図の裏紙を利用しており、この頃までには同家にあったようである。 二十四騎図は当館ではこれまで20点余り収集してきているが、本図はこれらと比較した場合、福岡藩の調査を経て精密な図が完成する以前の素朴な雰囲気を持つ図であり、近世中期の二十四騎図の特徴がよく表れている。特に当館が平成15年度に収集した図(2003B994)に酷似しており、同系統の写本と思われる。詳しくは特別展図録『黒田長政と二十四騎』(福岡市博物館、2008年)116頁を参照のこと。 |
2 | 2 |
25 | 本野令子資料 | 本資料群は、本願寺8世蓮如の消息を、大永元(1521)年に孫の円如が80通選んで5帖に編集した「御文(御文章)」。5帖巻末に「文政九丙戌年十二月十三日書 廣如(花押)」とあり、西本願寺20世広如(1798~1871)によって刊行された、文政9(1826)年版の「御文(御文章)」であると分かる。 なお、本資料の来歴は不明であるが、旧鹿児島藩士の家系と伝わる寄贈者の自宅に伝来したものである。 |
1 | 5 |
26 | 占部博資料 | 占部家に代々伝来した井上周防守(之房)宛黒田長政掟書1通。内容は5ヵ条からなる掟書で、領内統治に関わるもの。特に年貢収納や給人による百姓の使役について具体的に定めている。同内容のものは、三奈木黒田家文書(九州大学付設記録資料館九州文化史資料部門所蔵)の中にあり、下座郡の支配に関する同年月日発給の掟として、既に翻刻紹介されている(『福岡県史 近世史料編 福岡藩初期(下)』1315号文書)。こちらと比較すると、占部家の掟書は前2ヵ条を欠いている。実際、5行目にかすれて分かりにくいが「simeon josui」のローマ字印が確認出来、前半部分があったことを推測させる。また、三奈木黒田家文書の方は宛名が「黒田美作守」となっており、「井上周防守」とする本掟書と対応する。 占部家は、中世以前は遠賀郡や宗像郡で勢力を持っていた武士だったといい、近世以降は遠賀郡内浦(うつら)村の庄屋を務めている。明治以降、同家は朝鮮半島に渡り、終戦時に引き揚げ、戦後は北九州市に移り住んだ。一族にはかつて井上之房の家臣だった家もあるといい、本文書との関係性をうかがわせる。 |
1 | 1 |
27 | 田北太三郎資料 | 旧博多上奥堂町(現御供所町)の大工職・田北家に保存されていた玉せせりの玉。材はクスで、田北太三郎氏が製作した台座が付属する。 同じ上奥堂町の田北本家にあったものを、太三郎氏の父・安次郎氏が本家の両親の面倒を見るようになった際に譲り受けたかとも伝えられるが、詳細は不明。 かつては、同氏宅の床の間に櫛田神社遷宮の際に使用した獅子頭(現、櫛田神社博多歴史館収蔵)と対で置かれ、榊を供え毎朝拝礼の対象になっていたという。 昭和39(1964)年に行われた調査(『博多山笠記録』として刊行)では、恵比須流から「田北さんの家にまだ玉があるかもしれない」という情報が出されており、本資料がそれに相当するとみられる。 |
1 | 1 |
28 | 田中生男資料 | 中央区平尾の県立福岡中央高等学校近くの高台にあった自転車卸業・高瀬清太氏宅の井戸に設置されていた手押しポンプ。昭和末頃まで使用されていたもの。現状の塗装は、その後寄贈者がおこなった。 本資料は、深い井戸から水を汲み上げるためのもので、真空チェンバーで強力に水を吸い上げる仕組みが採用され、浅井戸用手押しポンプに必須の呼び水を必要としない。昭和時代の日常生活の一端を示す資料である。 |
1 | 1 |
29 | 殿上正光資料(追加分) | 寄贈者の父・正見氏は植民地時代の台湾に警察官として赴任していた。資料は、その当時に入手したとみられるハンモックで、両端に木製の支持棒をもつタイプである。正光氏は、近年まで実際に使用を続け、同氏の子・孫もこのハンモックに乗ってきたという。 | 1 | 1 |
30 | 友杉政子資料 | 本資料は、寄贈者の妹・井上(旧姓遠藤)好子氏の嫁ぎ先に伝わる立花小一郎(1861~1929)の掛軸である。井上夫妻に子どもがいなかったため、夫妻の死後寄贈者が譲り受けた。 立花小一郎は、旧三池藩家老の家に生まれ、陸軍士官学校(6期)・陸軍大学(5期)を卒業して陸軍軍人となった。日清・日露戦争、シベリア出兵に参加し、1923年予備役編入。最終階級は陸軍大将。同年男爵を授爵し、第10代福岡市長(大正13〈1924〉年8月~大正14〈1925〉年)・貴族院議員を歴任した。 |
1 | 1 |
31 | 成澤ヤス子資料 | 成澤ヤス子氏の母方の親戚が所有していた丸帯である。成澤氏が、かつて友人から譲り受けたものである。その友人とは、久留米絣の国武商店の娘だった。 この帯は福岡県内の商家の娘が使用していたことは明らかで、館蔵資料として該当する商店の引札もあり、近代の風俗資料として活用が期待できる資料である。 |
1 | 1 |
32 | 三島とき子資料 | 旧福岡藩士三島家に伝来した黒田長政三ヶ条法令写。三島家は、「明治初年分限帳」によれば、4代藩主綱政の代に黒田家に仕え、幕末で15石5人扶持、鳥飼に屋敷があった。寄贈者の祖父の兄昌太郎氏は碩学で知られており、金子堅太郎らと留学するはずであったが、訳あって断ったという言い伝えがある。 資料は元和3(1617)年に黒田長政が重臣6名に宛てたとされる「三ヶ条法令」の写し。寄贈者が叔父から先祖の遺品として受け継いだもの。「三ヶ条法令」自体は後世に創作された可能性が高い文書であることが指摘されているが、6代藩主継高以降、藩祖顕彰化の流れの中で、政治的に利用され流布していった、福岡藩政史上では重要な資料。本資料もそうした中の1点と考えられる。 |
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33 | 龍秋男資料 | 本資料は寄贈者の夫・秋男氏が収集した、江戸時代の火縄銃。秋男氏は戦後、筑後地域で仕事の傍ら美術品などを収集されており、その地域の各藩旧家臣の武家伝来品をもとめることもあったという。特徴としては、銃身が角筒で、床尾もふくらみがあるが、引き金をカバーする用心金はないが、点火のための機関部が健在で、引き金を引くと火ばさみが作動するなど、保存状態も良い。江戸時代の極めて実戦的、実用的な火縄銃の一つである。なお銃身には、近代に刻まれたと見られる、象眼も見られる。 | 1 | 1 |
【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 称名寺資料 | 明治~大正時代の福岡仏師・高田又四郎良慶(1847~1915)が制作した八宗の祖師像(最澄・空海・法然・親鸞・一遍・栄西・道元・日蓮)および釈迦如来像。本資料は明治45(1912)年に博多土居町にあった旧称名寺境内に建立された「博多大仏」に関連するもので、大仏の原型を担当した高田又四郎によって明治37年に制作されたもの。大正7年に称名寺が馬出に移転したため大仏とともに移され、現在まで大仏の台座内部に安置されてきた(ただし大仏は戦時の金属供出により消滅)。それぞれの本体および台座には明治37(1904)年に福岡呉服町の高田又四郎が弟子の慶次郎・徳次郎とともに制作した旨が記されている。 | 9 | 9 |
2 | 福岡空港騒音対策協議会資料 | 福岡空港対策協議会が、現地説明会等のために製作した、福岡空港周辺の航空写真をパネルにした資料群。いずれも、福岡市空港対策部空港対策課で保管していたもの。 この福岡空港周辺航空写真は、定期的に撮影されたものであり、原板の所在が不明なものも含まれており、貴重な資料である。とくに、平成2年8月分(番号2)は、空港周辺の騒音対策に関わる境界線も記入されておらず、航空写真として幅広い活用が期待される。 |
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