平成23(2011)年度収集 収蔵品目録 29
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 野村健一資料 | 本資料は、寄贈者と夫・健一氏(故人)が、主に昭和20~30年代にかけて収集した郷土玩具である。郷土玩具は、全国的な範囲で収集されているが、特に九州や信州のものが多くみられる。これらは、それぞれが独身時代に訪れた旅先や通信販売で購入された。 二人は結婚後、子育てや家族の体調不良により、旅行する機会が減ったものの、子育てが一段落した後は、親子で旅行に行く機会が増えており、それにともない玩具の収集数も変化している。昭和時代の家族と旅行の関わり方の一例を示す資料といえる。 |
167 | 187 |
2 | 立石安次郎・伊平資料 | 立石家は博多・萱堂町(福岡市博多区奈良屋町)の商家(屋号は萱市)。寄贈資料は、近世から現代までの歴史資料と民俗資料に大別できる。 歴史資料では、萱堂町の地名の由来となり、同町で祀られ立石家によって現在まで守り伝えられてきた魚腹地蔵尊に関する資料がまとまって残されている。魚腹地蔵尊の縁起絵と開基である六郎知景の肖像画、戦前期に行われていた魚腹地蔵尊の千灯明を撮影した写真などが含まれる。このほか「漂夫譚」(孫七漂流記)・「高砂徳兵衛天竺渡海記」の写本、近現代の書簡などがある。 民俗資料は、博多祇園山笠関係の資料。萱堂町の水法被や当番法被、山笠の見送りに掲げる「しなへ」(櫛田神社の神紋が入った長旗)、櫛田神社の町総代の長法被など、戦前に使用されたものが多く資料的価値が高い。 |
140 | 153 |
3 | 楢㟢半三資料(追加分) | 本資料は、博多区上川端町で板金店を営んでいた楢㟢家の放生会幕出しの道具類と節供人形を中心としたもの。特に放生会に使用された幕出しの道具については、楢㟢家が戦災から奇跡的に逃れていることから、博多に残る戦前の貴重な資料といえる。節供人形は、明治から昭和時代にかけてのものとみられる。半三氏の祖母もしくは母が使用したと考えられる。平成3年度には、オキアゲ、節供の着物類が寄贈されており、これらと合わせることでより明確に博多の節供の姿が見えてくると考えられる。 その他、半三氏の母が使用した茶行李や僧侶へのお布施を出す際に使用したとされる贈答用の小盆などが含まれる。 |
119 | 138 |
4 | 山口武資料 | 福岡藩士山口家に伝来した古文書類と山口家屋敷図・墓所図。 山口家は、大谷吉継の甥で、関ヶ原合戦後に黒田長政に召し抱えられた栗山琳斎を祖とする。琳斎は黒田家仕官時に黒田二十四騎の栗山利安の猶子となり、栗山姓を名乗って長政の御噺衆となった。元和9(1623)年、6歳で琳斎の跡を継いだ2代・勝直は、栗山大膳が黒田騒動により筑前を退去した後、藩命で姓を山口に改め、3代藩主黒田光之の側近として、京都・大坂蔵元奉行などを勤め、知行高も800石(大組)まで加増された。以後の歴代当主も江戸留守居や裏判役等の役職を勤めた。 資料の内訳は、山口氏系図1巻と知行充行状等の古文書類2巻。このうち、黒田光之遺言覚書写や嘉永6(1859)年の栗山家再興関係文書など、山口家と藩政の関わりをうかがい知れる資料も多く含んでいる。この他、大名町にあった山口家屋敷図と菩提寺金龍寺(福岡市中央区今川)内の山口家墓所図がある。 |
53 | 53 |
5 | 小林タネ資料 | 福岡市中央区天神で写真店を営んでいた寄贈者の夫、故小林正夫氏が撮影した昭和30年代の福岡市の市街地の写真を中心とする資料群。この他、陸地測量部が大正10(1921)年に発行した北部九州の地形図、寄贈者が収集した新聞記事の切り抜きなどを含む。 小林正夫氏は大正7(1918)年生まれで、西日本新聞社にカメラマンとして勤務していた。戦時期は2度の召集を受け、「満州」・南洋に出征した。復員後は同社に復職、10年ほど勤務した後に写真店を開いた。 寄贈資料は、市街地である天神・中洲地域をはじめ、平和台球場、大濠公園、福岡空港など市内各所の写真である。当時の街並みを記録した貴重な資料として、さまざまな展示への活用が期待できる。 |
36 | 36 |
6 | 岡田正義資料 | 旧福岡藩士岡田(片岡・田村)家に伝来した近世・近代の書籍。なお、岡田姓は明治6(1873)年以降のもので、もとは田村姓を称していた。幕末に地行の片岡家(明治初年11石3人扶持)から荒戸の田村家(数家あり不詳)に養子に入った三吾(寄贈者曽祖父)が、明治6年に双方の一字ずつを取って、岡田に改姓した。三吾は佐賀の乱では鉄砲隊長として活躍、その後、糸島郡書記長、遠賀郡長、十七銀行頭取等を歴任する。ちなみに、遠賀郡長の時に八幡製鉄所誘致を主導している。三吾の子、三太郎(寄贈者祖父)は陸軍士官学校の教員、孫の武雄(寄贈者伯父)は陸軍飛行隊に所属した軍人。 資料は三吾収集の近世の故実書、国学書、算術書類と、三太郎が使った陸軍士官学校のテキストからなる。蔵書印から田村から岡田への改姓があったことが分かる他、借用品と思われるものも一部確認され、藩士同士の蔵書貸借の様子がうかがえる。 |
29 | 151 |
7 | 毎日新聞社 幽霊・妖怪コレクション | 平成21~22年に毎日新聞西部本社が収集した幽霊・妖怪画のコレクション。肉筆幽霊画1件、浮世絵版画17件、版本2件の合計20件で、歌川国貞、歌川国芳、歌川芳艶など江戸末期から明治初期にかけて活躍した代表的な浮世絵師の作品を中心に優れた作例が数多く含まれる。また、「大江山酒呑童子」や「児雷也豪傑物語」などは稀少な版本である。館蔵の旧吉川観方コレクションに含まれる約150件の幽霊・妖怪画コレクションを補完するもので、平成24年度に開催した特別展「幽霊・妖怪画大全集」に展示活用した。 | 20 | 58 |
8 | 藤井靖司資料(追加分) | 平成2年度、平成3年度、平成4年度、平成17年度および平成22年度寄贈資料の追加分。本年度寄贈分は、平成22年度寄贈分に続き、博多松ばやしに関する資料。 博多松ばやしは、もともとは中世から伝わる小正月を祝う芸能で、現在は毎年5月3日・4日に開催される「博多どんたく港まつり」のパレードで先頭をつとめている。 本資料群は、福神・恵比須・大黒の各流の福笹、稚児流の福笹、平成23(2011)年の博多松ばやしのプログラムなどを含む。関係者以外ではあまり入手することのできない貴重な資料である。 |
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9 | .原田久男資料(追加分) | 平成22年度に寄贈された原田久男資料の追加分。寄贈者が購入、あるいは知人から譲り受けて入手した昭和40年代から50年代のカメラ関係の資料。 「オリンパス・トリップ35」は、一通りの機能を備えたコンパクトなカメラであり、比較的廉価であったため、多くの人びとが使用した。「ポケットフジカ 350 ズーム」は当時では珍しかったズームレンズ固定式カメラ、「キャノン A35Datelux」はキャノン初のフラッシュ内蔵型カメラである。いずれのカメラも高機能でコンパクトであるため、旅行などに携帯する目的で使用された。カメラの普及を示す資料として活用が期待される。 |
13 | 13 |
10 | 白水光利資料 | 福岡藩士白水家に残された古文書や写本類。白水家は幕末に現在の中央区谷に居住し、明治初期には県庁に務めたとされる。古文書は安政4(1857)年頃の当主白水平三郎が江戸在勤中に作成したもので、江戸藩邸で火災などの緊急時の勤務に関する通達類や藩士旅費規程書写、江戸での風聞書写類がある。写本類には勤務の合間に写した「軍中必携」といった西洋兵学書や、武術修得のための「兵法奥義書」などがあり、幕末期福岡藩士の西洋兵学・武術修得の課程がよくわかる。 | 11 | 13 |
11 | 菊竹智子資料 | 戦後の混乱期のなかで国民に希望と勇気を与えるために、昭和21(1946)年に京阪神地方において第1回国民体育大会が開催された。昭和23(1948)年には福岡で第3回国民体育大会が開催されている。 本資料群は、昭和20年代を中心とする国体参加章などからなり、戦後復興関係の資料として活用することができる。また、福岡日日新聞社(西日本新聞社の前身の1つ)関係の資料も含まれる。 |
10 | 10 |
12 | 原田嘉平資料(追加分) | 大正~昭和期を代表する博多人形師、原田嘉平(1894~1982)に関係する資料で、昭和63年度以降数度にわたる寄贈の追加分である。内容は「鞍馬天狗」などの作品のほか、幼少から晩年までの原田自身や家族のほか博多祇園山笠、博多人形組合での活動の様子を収めた写真アルバムなど。アルバムには修業時代に師匠である白水六三郎一門と撮った写真や第二次大戦中に人形組合長を務めた頃の珍しい写真などが含まれる。 | 9 | 9 |
13 | 松岡陽子資料 | 寄贈者の夫が収集した博多人形等の美術工芸品。博多人形は大正~昭和期を代表する人形師で県無形文化財技術保持者であった小島与一、原田嘉平、および小島の高弟古野一春、高尾八十二の作品。そのほか大正~昭和期の制作とみられる作品も含まれる。「団七」は歌舞伎ものを得意とした小島らしい佳品。原田の「達磨」は県無形文化財保持者認定後の作品で当館所蔵の原田嘉平資料に同型のものがある。古野の「鎌倉武士」は昭和15年の第10回童寶美術院展に出品した「盡忠報国」と同型にて戦後に制作したもの。 | 8 | 8 |
14 | 仲川文教資料 | クジラは捨てるところがないといわれるほど利用の途が多く、肉と軟骨等の食用以外に、毛は綱に、皮は膠や鯨油に、筋は弓弦などの武具に、鯨骨は鯨油や肥料に、血は薬用に、脂身は鯨油に、糞(龍涎香)は香料に用いられてきた。 その中でもクジラヒゲは軽く、弾力性があるなどの特性から古くから様々な製品の素材にもちいられてきた。江戸時代、日本では、からくり人形(ゼンマイ)、文楽人形(操作索)などに、欧米ではコルセットやドレスのほか傘(骨)などに利用されてきた。 また、日本では、クジラヒゲの弾力性を活かして釣竿の穂先(先端部分)にも使用されてきた。本資料は、昭和初期の製品で極めて貴重である。 |
8 | 8 |
15 | 安部和子資料(追加分) | 平成19年度収集資料の追加分。本資料群は、寄贈者が昭和3年に使用した宮参り関係資料、節供人形のほか、母・河野アヤメ氏が製作した袱紗類からなる。出し袱紗は朱色と濃紺の2種類からなり、これらは、祝儀用と不祝儀用とに使い分けられていたと考えられる。 昭和初期の女性の生誕から嫁入りまでの人生儀礼の過程を示す資料である。 |
6 | 59 |
16 | 吉野忠記資料(追加分) | 平成5年度および21年度に寄贈された吉野忠記資料の追加分。資料のうち脇差は、吉野忠記氏の親類波多江文子氏方に伝来した福岡藩士安永家の資料で、後に吉野氏へ引き取られたもの。このほか近代資料のガスストーブは吉野家に伝来したもので、その素材などが劣化しやすいため、ガスの普及する大正末~昭和初期期の暖房器具としては現存が極めて希なもの。 | 5 | 5 |
17 | 加藤卓資料(追加分) | 福岡藩筆頭家老三奈木黒田家の重臣加藤氏(本姓岸)に伝来した刀剣資料。加藤家初代岸弥助は越中(現在の富山県)出身で、豊臣秀吉配下の武将佐々成政に従い肥後に移ったが、天正15(1587)年の成政改易によりに浪人、同年、当時中津にいた黒田如水に仕え同家重臣の黒田(加藤)一成(三奈木黒田家初代)の付き人(与力)となった。以後、関ヶ原合戦に戦功をたて加藤姓を与えられた。2代も島原合戦に参加し戦功をたて、以降も三奈木黒田家の重臣として幕末まで続いた。加藤家に残されていた甲冑や「肥前忠吉」を含む刀剣類、馬具、古文書などの武家資料は、昭和53(1978)年に福岡市美術館に加藤資料として加藤卓氏により寄贈され、平成3年3月に福岡市博物館に移管された。今回寄贈された刀剣類はその追加分である。 | 4 | 4 |
18 | 長澤宏昭資料 | 博多区上呉服町で結納店を営む寄贈者は、福岡県優秀技能者、福岡市技能功労者として表彰を受けている。資料は、博多の結納品の一つである「家慶鯛(かけだい)」の藁飾り。胴体部分のくぼみにそれぞれ雌雄の鯛を差して飾った。古賀市の農家が製作したもので、平成5年にソラリアプラザで行われた寄贈者の展覧会で使用された。結納飾りに藁を使用することは、少なくなっており、貴重な資料となっている。もう一点は、「家内喜多留(やなぎだる)」と呼ばれる結納品に使う角樽。博多では、結納品の酒は空の角樽と一升瓶を別にして飾る。角樽は結納の際に貸し出されるものであり、本資料は実際に使用されたもの。同年度購入民俗資料とあわせることで、博多の結納品の再現が可能となる資料である。 | 3 | 5 |
19 | 酒井龍彦資料 | 「よかトピア」の愛称で親しまれた「アジア太平洋博覧会―福岡′89」(1989年3月17日~9月3日)で使用された。この時、鯨幟と一緒に日本一の鯉幟がビーチパークで泳いだ。 本資料は、アジア太平洋博覧会の会場を盛り上げるために、コカコーラアミューズメントパーク前をはじめリゾートシアター前、福岡タワー前、マリゾン前などのポール等に掲げたものである。「いつ来ても」「何度来ても」楽しい博覧会にするための道具の一つとして貴重である。 |
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20 | 小南嘉子資料 | 寄贈者の実家は、祖父・小南米次郎氏の代より博多で板硝子店を営んでいた。当初は旧川口町にあったが、空襲により焼失。2年後旧片土居町に再建するも冷泉公園の建設により店屋町へ移転、昭和末に廃業した。 本資料は、劇場に芝居を見に行く際に持って行った割子である。寄贈者の母の死後、姉の嘉子氏が所有していたが、死去にともない遺品整理をしたところ出てきたもの。資料は重箱、徳利などからなり5人用のものと見られる。 戦前を中心とした博多に関する聞き取り情報と合わせることで、当時の博多の商家の娯楽の有り様を示すことができる資料である。 |
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21 | 高山慶太郎資料 | 本資料は、高山家が昭和36(1961)年に中洲の玉屋デパート内の輸入商品を取り扱う店で購入した、アラジン社製の石油ストーブである。 アラジン社の石油ストーブは、日本では昭和32年(1957)からヤナセによって輸入・販売が開始された。商品番号NO.H2201は、商標「Aladdin Blue Flame Heater (アラジン・ブルー・フレーム・ヒーター)」に変更された、昭和35(1960)年発売の15シリーズで、イギリス国内向けの仕様の製品。昭和36年には『暮らしの手帖』誌上の商品テストで第一位に選ばれ、脚光をあびて普及した。昭和42(1967)年発売の16シリーズからは、転倒防止対策が施されている。 このストーブは、日本国内で普及しはじめたころの製品であり、また昭和30年代の市民生活に関連する資料として貴重である。 |
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22 | 松見栄助資料 | 本資料は、明治時代末から昭和時代はじめの政治家黒田長成(1867~1939)の掛軸1幅である。寄贈者の兄が入手したものを寄贈者が譲り受けた。 黒田長成は最後の福岡藩主黒田長知の長男で、貴族院議員、貴族院副議長、枢密顧問官などを歴任した。一方で、詩作に熱心であり、自作の詩を集成した私家本を出版している。 本資料に書かれた七言絶句の漢詩は、大正9(1920)年4月5日に皇太子(後の昭和天皇)が福岡市内の光雲神社、黒田家別邸を行啓したことを祝して作られた。大正時代の福岡市および黒田家に関係する資料として貴重である。 |
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23 | 松村久寿資料 | 本資料は、福岡市中央区大名にあった寄贈者の実家に伝わった広田弘毅(1878~1948)の書跡1点である。 広田は昭和戦前期の外交官・政治家。外務省に入省した後は欧米局長・外務大臣等を歴任し、昭和11(1936)年、福岡県出身者で初の内閣総理大臣となった。昭和21(1946)年、戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容される。昭和23(1948)年、東京裁判で絞首刑を宣告され死去した。 入手経緯は不詳であるが、広田は大名小学校出身者であることから、地域の付き合いのなかで本資料が伝わった可能性が考えられる。 |
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24 | 森藤誠司資料 | 筑紫郡三宅村大字塩原(現南区塩原)に住んでいた寄贈者の曾祖父が、明治42(1967)年1月31日に筑紫郡二日市の白石氏の斡旋によって購入した猿の左手のミイラ。箱書きには、入手の経緯などが墨書されているが、注意書きとして「容易に他人に貸すべからざる事」とあり、秘蔵されていたものと思われる。猿の手は「上ノシ志田原猿ノ手」と記された和紙に包まれている。猿の左手を、厩の守護とする習俗は、各地にあるが、これは福岡での希少な事例となる。 | 1 | 1 |
25 | 八尋キヌ子資料 | 寄贈者の父である長藤太郎氏が、福岡県の信用組合に勤務していた時代に、名島水上飛行場で招待遊覧飛行があった。その時に、飛行場内格納庫で撮影した、招待客の集合写真である。撮影年は、名島水上飛行場が昭和五年開場で、同九年の閉鎖であるので、この間であろうが、飛行場オープン記念の招待と思われる。 写真の飛行機(J-BBPO)は、日本航空輸送株式会社のフォッカースーパーユニバーサルである。同社創立間もない主力機で、朝鮮半島への国際航路でも運用された。一九三一年には中島飛行機がライセンス生産を開始した。 |
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【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 眞武綾子資料 | 宗像郡の在村医眞武家に伝来した書籍類。 眞武家は江戸時代、宗像郡曲村(宗像市曲・自由ヶ丘)に居住した医家。同じく曲村で酒造業を営み庄屋役などを勤めた眞武本家の3代目・睡山の養子泰順が分家したと伝える。泰順から数えて4代目の正意は、安政3(1856)年、華岡青洲の開いた医塾春林軒の分校で大坂・中之島にあった合水堂に入門し医術を学んだ。なお、在村医は江戸時代の地域医療を担う存在で、郡単位で医師組合が編成され、郡奉行の支配下に置かれた。宗像郡では遅くとも文化・文政期には医師組合が編成されていたことが知られている。 資料の内容は、『黄帝内経素問』など医学関係をはじめとする版本・刊本が中心で、江戸時代初期の刊記を持つものを比較的多く含んでいる。また、写本のなかには正意が大坂滞在中に書写したものが見える。 |
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