平成24(2012)年度収集 収蔵品目録 30
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 原田富三郎資料 | 寄贈者の父である原田富三郎氏が収集した考古資料である。九州各地の石器、土器、瓦などのほか、朝鮮半島の陶質土器や古代瓦なども含む1,450点超の膨大なコレクションである。 原田氏は中津、久留米、福岡などで教鞭をとった関係で、各地域の遺跡を頻繁に踏査しているが、そのときに採集した石器が収集品の中心である。縄文時代から弥生時代の石鏃や石斧、敲石が多いが、ナイフ形石器や細石刃などの旧石器も含む。 豊前の資料は昭和2年から11年に収集したものが多く、その一部は岡為造氏の『築上史料』にもとりあげられており、郷土の先史時代研究に寄与している。収集品の中で目を引く須恵器、陶質土器、朝鮮半島や中国瓦の優品なども、この頃に知人から譲り受けたものが多いようである。 福岡市域の資料は昭和13年から40年前後を中心に収集されたものが多いが、友泉亭などで採集された石器や土器は、現在、埋蔵文化財包蔵地とはなっていない区域に、かつて遺跡が存在したことを示す資料である。 |
1438 | 1457 |
2 | 葛西泰二郎資料 | 寄贈者の父である葛西泰二郎氏に関する資料を中心とする資料群。葛西泰二郎氏は明治36(1903)年生まれ、修猷館中学校、第五高等学校をへて、九州帝国大学工学部にすすんだ。卒業後は、同大学および戦後の九州大学で教鞭をとった。ラグビーの普及振興に熱心で、日本代表監督などをつとめている。 本資料群は、泰二郎氏に関する資料のほか、父・徳一郎氏(1868~1938)と母・すが氏にゆかりのある書冊類、メダル類、泰二郎氏および妻多恵子氏に関連する新聞・雑誌類、書簡・絵葉書類、パンフレット類からなる。また、多恵子氏の父で、九州帝国大学教授、台北帝国大学総長、九州工業大学学長などを歴任した安藤一雄氏(1882~1973)に関する資料を含む。 明治時代から昭和戦後において、親子にわたって蓄積された資料であると同時に、九州帝国大学関係、昭和戦時期の福岡に関する資料を多く含んでいる。 |
497 | 704 |
3 | 宮下誠治資料 | 本資料群は、寄贈者が各地への出張の折に、土産品店や空港・駅等で購入し収集した郷土玩具類である。昭和49年に旧住友製薬に入社した寄贈者が、その後開発担当部署に異動し、各地への出張が多くなったことが収集の契機であるという。その後、営業部署に移った後も、昭和57年頃まで西日本のものを中心に収集を続け、300点あまりを数えるに至った資料である。 | 307 | 388 |
4 | 水野恵造資料 | 世界で最初に販売されたプラモデルは、イギリスのIMA社が1936年に販売した木製模型飛行機であった。その後、イギリス軍が軍事教育に使用する航空機や軍用車両等の識別用モデルをプラスチックでつくる。アメリカでも第2次大戦中にはプラスチック製の識別用モデルが多数作製されて軍事教育に使用されている。日本では、プラモデルが1950年代初めアメリカからはじめて渡ってくる。1950年代後半には、国産初のプラモデルが発売されるようになる。1950年代後期から1960年代は飛行機や軍艦が主であった。 本資料は、昭和30年代から同40年代にかけて水野恵造氏(1937~2007)が作製した航空機、とくに太平洋戦争時の戦争関連の飛行機がメインである。 |
289 | 296 |
5 | 前田多市資料 | 前田家に伝わった近世・近代文書、絵画・工芸品類、刀剣など、近世~明治維新期にかかる福岡藩家臣の一括資料である。前田家は戦国期には豊後大友氏の家臣だったが、近世初めに筑後田中家をへて黒田家に仕え、幕末期に石高300石、土手丁に屋敷があり、馬廻組に属した。古文書類には系図、系譜、知行宛行状などのほか、役中の差紙、達書や、近世後期の当主が長崎警備や江戸勤番を務めた際の覚書などがある。絵画・工芸品類としては黒田二十五騎図、近代のおきあげ、また刀剣としては明治期の銘「筑前国住左安近」など福岡刀工の作がある。また藩主に拝領し現代まで保存されてきた稲荷神像(絵画)を祭った祭壇屋祭具一式などを含むなど、武家の生活・文化的に関係する貴重な資料群である。なお古文書類はすでに一部整理がなされており、本目録の配列もそれを基本とした。 | 102 | 141 |
6 | 河野昭修資料 | 河野昭修選手(1930~2011)は、昭和25(1950)年に西鉄クリッパース(西鉄ライオンズの前身)に入団。三原脩監督率いる西鉄ライオンズ(1951~1972)は稲尾和久投手が入団した昭和31(1956)年からはリーグ3連覇。日本シリーズでは巨人と3度戦い、3年連続日本一を達成する。現役時代のポジションは内野手。はじめ3塁手で、中西太選手が入団後、遊撃手にコンバート。ついで、豊田泰光選手の入団で2塁手に、さらに仰木彬選手の入団で1塁手にコンバートされた。1塁の守備は非常に上手く、どのような送球も捕った。打撃ではあまり長打はなかったものの、その業師ぶりでチームの勝利に貢献した。昭和34(1959)年に現役引退。同コーチに就任し昭和45(1970)年まで務める。 本資料は、日本シリーズ3連覇をし、福岡市民を熱狂させた西鉄ライオンズの関連資料である。 |
39 | 39 |
7 | 松永繁次資料 | 寄贈者の父にあたる松永繁次氏が所蔵していた文書群。松永繁次氏は明治35(1902)年佐賀県北松浦郡北波多村に生まれ、大正3(1914)年に県下最大の炭鉱である芳谷炭坑坑内係に採用された。台北州基隆郡の大坑埔に招聘され、翌年末に台湾に渡る。以後、第二次世界大戦後まで台湾の炭鉱に勤務した。 本資料群は、基隆炭砿株式会社から松永氏にあてられた辞令からなる。この他、業務のかたわら構造工学を学んだ国民工業学院の修了証書、昭和12(1937)年現在の履歴書などを含む。炭鉱勤務者のくらしをうかがうことのできる資料である。 |
37 | 37 |
8 | 山本慶子資料 | 寄贈者に伝来した近代の地図類と、江戸時代の福岡商人長澤家に関する顕彰碑。長澤家は福岡港町に居住し御用町人格を持つ豪商で、特に八兵衛のときの文政11(1828)年、福岡を襲った風災にさいして藩に対し銭百貫文を差し出し、飢人、困窮者を救済し、藩から五人扶持を受けた。石碑にはこの事跡を記念した碑文が記され、ながく長澤邸にあったが、昭和28(1953)年長澤家が西新に文具店を開く際に移され、さらに東京に超す際に寄贈者の父に譲られた。近代の地図類はいずれも新聞社が発行した附録地図で、「日本交通分県地図」と満洲および中国の地図がある。「日本交通分県地図」は大阪毎日新聞社が東宮(後の昭和天皇)ご成婚を記念して大正12(1923)年から昭和5(1930)年にかけて発行したもの。全41号。本資料群にはこのうち1~27号がある。 | 34 | 34 |
9 | 三浦悦子資料(追加分) | 平成21年度寄贈の追加分。 資料内容は、三浦悦子氏の幼少時の写真のほかに、昭和13(1938)年から同21(1946)年にかけて使用された通帳、昭和14(1939)年から同18(1943)年の戦時債券、郵便葉書などである。 本資料群中の戦時貯金通帳(第221号)は、表紙に「日の丸とラッパを吹く兵士」と戦時期らしいデザインとなっており、戦時債券を含めて、戦時期における人びとのくらしを示す資料である。 |
32 | 59 |
10 | 藤井靖司資料(追加分) | 博多に居住している寄贈者に伝わった、江戸時代の博多祇園山笠の絵図、および経営していたカメラ店で使用されたカタログ類。すでに平成2~4、17、22年度に寄贈を受けており、その追加分である。寄贈者の先代は表具屋を営み、終戦時に県生活価格調査委員なども務めるなど、町内でも有力な一員であった。山笠絵図は安永8(1779)年分の下絵で、標題は「胡蝶舞楽」である。この年は一番山の蔵本番と、二番山の中小路町、西門町が市小路町で喧嘩を起こしたことが知られており、その事件当事者の町の山笠図である。 | 28 | 40 |
11 | 山内謙一資料 | 福岡県指定無形文化財保持者であった故・山内諫(やまうちいさむ)氏(1895~1982)の孫にあたる寄贈者が受け継いだ着物および写真等。山内諫は、博多織において独自の地位を築いた人で、手織り技術に特徴があった。「その緻密で入念な織技から生まれる独特の風合いには他の追随を許さぬものがあり、博多織着尺の旗手として独自の世界を築いた」(『福岡県の工芸 伝統と現代』)とされる。当館所蔵の山内諫氏関連資料としては、他に山内千枝資料、原芳子資料、原秀一資料がある。 | 25 | 25 |
12 | 髙山慶太郎資料(追加分) | 月刊誌『家の光』21冊である。同誌は、大正14(1925)年5月に創刊された農村向け総合家庭雑誌で、当初は産業組合、昭和22(1947)年以降は農業協同組合の組織を通じて頒布されてきた。刊行の目的が農村生活の向上にあったこともあり、農村における生活改善運動に一定の役割を果たした。昭和14(1939)年から平成22(2010)年までに刊行された21冊があり、戦時期および戦後の農村生活史を語るうえで有効な資料である。 | 21 | 21 |
13 | 中富俊朗資料 | 筑後市旧古島村の中富家に残されていた「おきあげ」。おきあげは、歌舞伎等を題材に鮮やかな布地で作った押絵細工で、女児が生まれると、節供人形として親戚から多くのおきあげが贈られた。この資料は、孫が生まれた際に作った柳川毬を納めようと家にあった古い箱を開けたところ、中から見つかったものという。裏貼りの新聞紙には、福岡のものと、関西地方のものと見られるものがあり、中に昭和4年のものがあることから、これらの押し絵が、昭和初期に作られたことが推測される。 | 20 | 20 |
14 | 草場町内会資料 | 本資料は、西区草場で使われてきた幔幕と、同地区の氏神である白木神社にあった祭具等である。幔幕は、天保9年および安政7年の製作で、福岡市域に残されている幔幕のなかでも近世期に遡る数少ないものである。長年にわたって草場の盆踊りの櫓幕として使われてきたために損傷が激しいが、その絵柄からも製作時の華やかさが偲ばれる。また、平成3年の水害において白木神社が崩壊した際に、神社に保管されてきた神具の一部は救出され、保管されてきた。それらも本資料群に含まれる。 | 17 | 18 |
15 | 菊池敦宏資料 | 福岡藩の近世後期の藩政文書の一部と推定される簿冊形式の古文書の断簡類で、内容は近世後期の藩主の参勤や、長崎警備に関する日記形式の記録や文化4(1807)年前後の警備規則などである。寄贈者の仕事の関係で見つかったもので、表装の裏打ち紙として使用されていたが、重要性を考えた寄贈者によって、保存修復されたものである。数量的には少ないが、戦災その他で散逸の多い藩政文書を補うものである。 | 13 | 32 |
16 | 山口慎吾資料 | 山口慎吾氏の兄である武吉氏は、南満州鉄道株式会社(1906~1945、以下満鉄)に勤務。昭和2(1927)年ころ、永年勤続表彰の慰安旅行(世界一周)をする。その旅行の際に使用した旅行カバン類や、アメリカで購入したエジソン社製蓄音機がある。また、「支那時計」とよばれ、15分ごとにチャイムが鳴る仕組みであった、武吉氏が満鉄勤務時代に入手した時計なども含まれる。 本資料は、当時一般の日本人にとって海外旅行がまだ夢の時代に使用したカバン類がメインである。カバンには寄港地のシールが貼付されており、当時の海外旅行のあり方を示している。 |
13 | 13 |
17 | 高倉照幸資料 | 高倉照幸選手(1934~)は、熊本商業高校を経て、昭和28(1953)年に西鉄ライオンズに入団。昭和29(1954)年にリーグ優勝。稲尾和久投手が入団した昭和31(1956)年から3年連続日本一という西鉄ライオンズの黄金時代を三原脩監督の下で築きあげた。高倉選手は、先頭打者本塁打が非常に多く、「斬り込み隊長」とまで呼ばれた。昭和42(1967)年に宮寺勝利選手との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。昭和45(1970)年に現役引退。ベストナイン3回、オールスターゲーム9回出場。 本資料は、福岡市民を熱狂させ、日本シリーズ3連覇という偉業を達成した西鉄ライオンズの活躍を示す資料である。 |
11 | 11 |
18 | 金澤圓三郎資料 | 東区香椎で筑前琵琶製作所を営んでいた金澤圓三郎氏(昭和49年死去)が製作した琵琶と、「筑前琵琶製作師」の看板、製作の様子を記録した写真アルバムなど。同氏の長女・光子氏が保存していたものである。中には薩摩琵琶の撥も含まれ、製作にあたって各地の琵琶を参考にしていた様子がうかがわれる。福岡で誕生した近代の芸能である筑前琵琶に関連する資料である。 | 7 | 7 |
19 | 小林守木資料 | 小林守木氏は、昭和35(1960)年に8mmカメラを購入し、1年かけて稲の苗代つくりから稲の脱穀までを撮影する。撮影場所は、堤(現福岡市城南区堤)である。小林氏が、1年かけて撮影したものを編集して「イネの一生」を制作する。小林氏は当時小学校教諭で、映像「イネの一生」は、児童の教材用に制作したものという。 映像「イネの一生」は、撮影年と撮影場所が明確な上に、また当時の景観や風俗が確認できる映像資料である。 |
5 | 5 |
20 | 木下家文書 | 香椎宮(福岡市東区)の旧社家・木下家に伝来した中世文書5通。 香椎宮に関する中世以前の史料は、由緒の古さに比して極めて乏少であるが、三苫文書(昭和61年寄贈・三苫重義資料)48点、中牟田文書12点に次ぐ文書群である。1号大友宗麟書状は、立花城をめぐる大友・毛利両氏の攻防の最終段階における北部九州の政治状況を伝えたものである。2~5号は、木下家が社家でありながら、立花城督の戸次道雪・統虎(後の立花宗茂)の配下に属し武家被官として従軍していた状況を示している。 |
5 | 5 |
21 | 金丸憲司資料 | 近世後期から幕末期に福岡藩士秋月藩士と姻戚関係があった金丸家に伝来した刀剣類。無銘だが刀装具のしっかりした脇差、穂先は失われているが黒漆塗の鞘の残る槍、銘「国次」の薙刀などである。寄贈者によると同家の江戸初期の来歴は現在不明とされるが、福岡藩士青木家とのつながりの伝承があり、また母方は朝倉郡出身だが、秋月藩士臼井家とのつながりも伝えられており、近世の筑前地方の武家に関わる資料である。 | 3 | 3 |
22 | 深見和己資料 | 福岡市鋳物同業組合は、昭和6(1931)年4月1日に結成された。同組合は、福岡市内の鋳物業者23名によって構成され、組合長は今村梅太郎であった。その結成目的については、「第3条 本組合ハ諸般ノ弊害ヲ矯正シ、同業者ノ親睦ヲ旨トシ、一致協力斯業ノ発展ヲ図ルヲ以テ目的トス」とあり、同業者間の親睦をはかり、一致協力して鋳物業の発展を図ることにあった。また、本組合の会議の時に掲げられた旗(銘「福岡市鋳物組合」)が作製されている。 本資料は、昭和6年に福岡市内の鋳物業者23名によって結成された「福岡市鋳物同業組合規約」と同組合旗で、昭和初期における鋳物業者の動向を窺うことができる資料である。 |
3 | 3 |
23 | 吉野忠記資料(追加分) | 平成5、18、21、23年にわたり寄贈を受けてきた吉野忠記資料の追加分である。寄贈者が旧福岡藩士安永家の縁者であるため、安永家に伝来した刀剣類が、寄贈者の家に伝わったもの。幕末の安永家には安永又兵衛という槍術家がでており、伝来した銘「政常」は、近世初頭の美濃の刀工政常派のものと推定される大身鑓である。また脇差は銘「筑前住源信国吉助」は、福岡藩の刀工12代信国吉貞の門人の吉助の作で、作例が少ないものである。 | 2 | 2 |
24 | 山崎萬里子資料 | 浦庄屋の提灯と近代の書簡。山崎家は近世に箱崎浦の浦庄屋をつとめた家で、既に旧福岡市立歴史資料館時代に旧蔵の古文書が「山崎文書」として200点近く寄贈されている(『福岡市立歴史資料館調査研究報告2 山崎文書目録』1974年)。提灯はかつてはお盆になると室内に飾っていたというもの。正面に「箱崎浦」、裏に「庄」と書かれており、浦庄屋であった山崎家の由緒を伝える。なお、最後の箱崎町長をつとめた美太郎氏は寄贈者の父。昭和15(1940)年に亡くなった際には箱崎小学校で町葬が行われ、松本治一郎が弔辞を読んだ。2巻にまとめられた書簡は美太郎氏が保護した画家たちから送られたもの。吉嗣鼓山らの名前が確認できる。 | 2 | 3 |
25 | 今崎忠昭資料 | 寄贈者の先代が収集した中野正剛と大槻盤渓の書跡。 中野正剛は福岡生まれの政治家。明治19(1886)年に生まれ、修猷館中学校、早稲田大学を卒業後、東京日日新聞記者を経て朝日新聞社に入社。大正9(1920)年に政界に転じ、衆議院議員となる。太平洋戦争期、東条英機内閣への批判を強めた結果、昭和18(1943)年に検挙され、釈放後自殺した。 大槻盤渓は江戸時代後期から明治時代初期に活躍した儒学者。父は杉田玄白、前野良沢に師事した蘭学者大槻玄沢で、子に近代的国語辞書『言海』を編さんした国語学者大槻文彦がいる。 |
2 | 2 |
26 | 安部和子資料(追加分) | 寄贈者の母・河野アヤメ氏(明治生まれ)が、熊本・尚絅高等女学校在学中に製作した袱紗。同校は、明治21(1888)年に済々黌附属女学校として創立され、同24年に済々黌より独立して尚絅女学校と改称している。明治26年、独自の裁縫教科課程を編成して裁縫一斉授業を開始し、全国にその名を知られた。資料の袱紗は着物を再利用してつくられたもの。大小二つの袱紗のうち、大きい方は、桔梗紋に草をあしらったデザインである。当時、家紋に草模様を入れることで、一見して自家の紋が分からないようにするのが流行していたのだという。 | 2 | 2 |
27 | 中西眞由子資料 | 資料は丹前と風呂敷。丹前は、博多織を製作する際に発生する半端ものの絹糸くずを集め、つなぎ合わせて再利用したもの。これを絹屑織(きんくずおり)あるいは残糸織(ざんしおり)という。寄贈者の生家は、博多片土居町にあった博多織元・中西家の分家にあたる。風呂敷は、同家と取引があったとみられる機料店のもの。 | 2 | 2 |
28 | 立石安次郎・伊平資料(追加分) | 平成23年度収集資料の追加分。立石家は博多旧萱堂町の商家であり、「萱市」の屋号で仕出屋を営んでいた。資料は羽織の裏地で、身頃および両袖部分の3つに分かれている。後身頃にあたる部分に富士山、能役者の絵、蕪、杵、傘、帆の文様が刺繍されている。これは黒紋付きの羽織とあわせ、博多どんたく等の際に着用したという。どんたくでは、羽織をかえして羽裏を見せて着るのが粋とされ、これを「すらせ」と呼んでいる。 | 1 | 3 |
29 | 田中公義資料 | 江戸時代の博多の人形師小堀氏の略系図で、明治期から大正時代に作成され、小堀氏の縁戚にあたる寄贈者に伝わったもの。小堀氏は『松山遺事』によれば、先祖が小堀甚三郎という京都の木偶師で、博多に移住し山笠の人形を作成したといわれ、近世では小堀氏の持つ幾種類かの人形の頭の中から、各当番町が選び、標題にあわせて小堀氏が体部分や衣装を作成したという。ただし小堀氏の近世での系譜自体は、小堀家の行方等がわからず不詳な部分が多かった。本資料は小堀氏の伝承を補う資料である。 | 1 | 1 |
30 | 松澤善裕資料 | 江戸時代の博多山笠の、各流の当番町の一覧で、「山笠番付巡り方」という標題が付けられ、毎年六本の山笠を立てる、各流れの当番町を干支による六十年一回りの順番を書き上げたもので、文久3(1863)年に博多二十家町飴屋嘉平の署名がある。教職をしていた寄贈者の先輩の家に伝わったのものであったが、寄贈者が譲り受け保管されていた。 | 1 | 1 |
31 | 白水光利資料(追加分) | 平成23年度に寄贈された資料の追加分。白水家は福岡藩士で、幕末には13石3人扶持で、江戸勤番中に、当主の平三郎の残した古文書類や武術書、西洋兵学書の写しなどが平成23年度に寄贈されているが、今回は資料の追加分である写本。内容は天保8年のモリソン号事件を題材にし、イギリス等西洋列強の脅威を物語風に説いたもので、幕末の海防や対外関係の緊張といった、当時の社会状況や世相をうかがわせる資料である。 | 1 | 1 |
32 | 日野時彦資料 | 本資料は、福岡市青少年の船訪中団に同行した日野時彦氏が撮影し、編集制作したものである。福岡市青少年の船訪中団(1974年4月1日~13日)の目的は、中国との友好親善、福岡市青少年の育成であり、訪問都市は北京、上海、天津の3カ所であった。団長は進藤一馬福岡市長で、団員(高校生)271名、本部役員74名で、総勢345名であった。4月1日に博多港を出港。同月3~5日は上海で人民公社、工場や病院などの視察、学校訪問と意見交換をおこなう。同月7~9日は天津で、上海同様に学校訪問や人民公社、工場などの見学の他にスポーツ交歓会をおこなった。同月10日は北京で、天安門広場と故宮博物館の見学をおこない、帰福した。 本資料には、1974年、中国ではまだ文化大革命の最中であり、少年宮で出迎えてくれた「紅小兵」と呼ばれる少年たちや「革命的現代バレエ」(紅色娘子軍)の少女たちをはじめ、工場の壁新聞等が撮影されており、約40年前の中国を知ることができる映像資料である。 |
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33 | 野村周三資料 | 野村家は、江戸時代には博多中間町(現福岡市博多区綱場町)で両替兼質屋兼古着商を営んでいた。明治時代になると、商売が金融業兼呉服商となるが、大正13(1924)年ころ綱場町で火事にあい、川口町に移り、大正15年に鋼鉄工具商野村宗次郎商店を創業する。この金庫は、創業時(1926)に購入したものである。昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲で罹災し、金庫だけが焼け残った。戦後、奈良屋町に土地を購入し、営業を再開した。この時、この金庫も奈良屋町の新社屋に移され、使用されてきた。この金庫は、先代が水の入った牛乳瓶を欠かさず入れていたおかげで、福岡大空襲の火災においても金庫の中身は無事だったということで、同大空襲の生き証人である。 | 1 | 1 |
34 | 加藤和雄資料 | 博多区御供所町(旧上桶屋町)で使用されてきた洋服箪笥である。上部が洋服吊り及び鏡・小引き出し、下部が引き出しという分割可能な二段構成となっている。洋服吊り部分は、観音開きの曲面仕上げ扉で、洋風の意匠ではあるものの、飾り金具には鳳凰があしらわれるなど和洋折衷である。扉裏には全日本洋家具商工聯盟の検査証が添付されており、戦中戦後期の産業・生活の状況を示す資料となっている。 | 1 | 1 |
35 | 志賀海神社氏子総代会資料 | 志賀海神社の正月行事・歩射祭で使われる胴結(どい)である。新藁32把をまとめて縛り上げたもので、本来は、歩射祭の射手が本番の射的(大的)にそなえて弓の練習をするための的であった。現在では、1月2日に作られた後、練習場に保管され、大的前日に行われる胴結舞に使われるのみである。胴結舞は、射手が胴結を担ぎ志賀海神社参道を移動し、同社頓宮において舞いを奉納するもので、最後に練習場に戻った時、形式的に矢を放つところに、わずかに本来の意味を残している。 | 1 | 1 |
【購入】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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36 | 三毛門家文書 | 旧福岡藩士・三毛門家伝来の古文書群1巻7通。 7号を除き、黒田如水・長政父子が三毛門三郎大夫に宛てた書状からなる。本文書群は、これまで「黒田御用記」所収の写(三毛門市八分)によって、一部存在が知られていたが、5~7号は写本に収録されず、新出史料である。3号文書のみ、長政の花押型より朝鮮出兵時に遡る可能性を残すが、他の文書はいずれも黒田家の筑前入国後のものである。内容も三毛門三郎大夫が蔵入地代官を務めたことに関するものでまとまっている(1~3・6号)。 1号の如水の黒印、6号の長政の朱印は、これまで未見の印判であり貴重である。 7号のみ宛名は三毛門三郎大夫ではなく、黒田筑前守(長政)宛となっている。如水が薬湯を服用しながら有馬温泉で湯治していることが述べられ、如水の最晩年の状況が知られる。 |
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