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平成25(2013)年度収集 収蔵品目録 31

【寄贈】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 内田改造資料  博多旧川口町で焼印店を営んでいた、内田家の写真、スケッチなどからなる。写真には、博多祇園山笠や博多松囃子などの博多の年中行事のほか、節供や結婚式などの人生儀礼、潮干狩りや苺狩りの行楽の様子などが写されており、大正から平成にわたる博多の人びとのくらしとその変化がよみとれる。 848 889
2 鳥越雅美資料  寄贈者の実家・園田家に残された、明治時代から昭和時代にわたる福岡部の商家の経営や土地所有に関する文書類で、このほかに絵葉書類や近世〜近代の書跡類も含む。
 園田家は、江戸期は福岡藩御用達をつとめていたといわれ、近代には砂糖、油類を取り扱っていた。寄贈者の祖父から父・原田雅彦氏の時代にかけては、大名、天神(本宅)、行町(支店)、谷(別宅)などに土地・屋敷などを持っていた。大正5(1916)年には、香椎の埋め立て計画などにも関わっており、その関係の絵図、地図類なども残されている。なお寄贈者の祖母は醤油・味噌・酒類を取り扱っていた白水家の出身で、母の美智子氏は、原田嘉平(人形師、大乗寺前町住)の長女であるため、原田嘉平関係の資料も残されていた。これらは寄贈者より、平成23年度に原田嘉平資料(追加分)として寄贈された。なお雅彦氏も、母方の関係で博多東町流の山笠に参加していた。
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3 九州エネルギー館資料  九州エネルギー館別館「あかりの館」(福岡市中央区薬院)が所蔵していた灯火具・電化製品等。
 「あかりの館」は、昭和59(1984)年に九州エネルギー館に隣設して建てられた施設で、照明器具の変遷やランプのコレクションなどを展示していたが、平成26(2014)年3月に閉館した。
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4 池田善朗資料(追加分)  平成21年度寄贈資料(SPレコード・8ミリフィルム)の追加分。寄贈者が収集した鉄道乗車券類。
 昭和20〜50年代の日本国有鉄道(国鉄)の普通乗車券・急行券・特急券、関東・近畿圏の私鉄の乗車券、西日本鉄道乗車券などで構成される。
 福岡市関係では、旧国鉄の筑肥線、西日本鉄道の福岡市内線および福岡市営地下鉄の乗車券が含まれる。このうち、地下鉄の乗車券は天神−室見間が開通した昭和56(1981)年のものである。この他、福岡駅高架竣工記念、博多祇園山笠記念、福岡市制90周年記念などの記念乗車券などがある。
 福岡市の交通発展を考える上で重要な乗車券を多く含んでおり、さまざまな展示での活用が期待できる。
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5 堀田茂治資料  佐賀県唐津市浜玉町浜崎地区では、毎年7月、諏訪神社で浜崎祇園山笠が行われている。本資料群は、浜崎祇園山笠の人形師である堀田豊治氏の人形製作道具および山笠人形からなる。当館の特別展「山笠の力」展(平成25(2013)年)出品を機に寄贈された。山笠人形の頭部には、博多で製作されたものが含まれており、山笠における浜崎と博多の関係が見いだせる。 89 92
6 中尾英樹資料  明治時代から続く博多張り子の製造元・中尾俊雄商店で使用されてきた張り子の型。博多張り子は、節供や祭礼などで縁起物として販売され親しまれてきた。現在、福岡県の特産民工芸品に指定されている。
 同店は、かつて博多対馬小路に店を構えていたが、戦争を機に糸島市二丈深江に移り製造を続けている。
 博多張り子は、型の外側に和紙を貼り重ねた後に、それを割り開いて型を取り除き、切断部分を膠で接合する手法を用いている。乾燥させた張り子には、膠で溶いた胡粉を塗り、彩色を施すのが特徴。
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7 豊田泰光資料  本資料群は、プロ野球選手豊田泰光氏が所有していたトロフィー・盾などからなる。市民のため、展示・公開に役立てて欲しいという寄贈者の希望により、当館に寄贈されたもの。
 寄贈者は茨城県出身、水戸商業高等学校を経て、昭和28(1953)年に西鉄ライオンズに入団した。初年度に27本塁打を放ち、新人王を獲得。昭和31(1956)年には首位打者となる。強打の遊撃手であり、西鉄ライオンズの中心選手としてその黄金期を支えた。日本シリーズでは、MVPをはじめ首位打者賞、優秀選手賞などを受賞している。昭和38(1963)年のオフシーズンに国鉄スワローズに移籍。現役引退後は解説者として活躍した。
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8 松本法泉資料  寄贈者の父・松本法泉氏関係の資料。法泉氏(1913〜1977)は長崎県島原の加津佐出身で、寺院に預けられて僧侶の資格を取り、長崎市内寺院に在籍した。その後徴兵され、久留米にあった自動車化輜重部隊の将校として中国戦線へ出征し、胸に戦傷を負って軍病院などで療養した。戦後復員後は福岡市内に居住し、福岡県の復員援護局に勤めるなどしたが、戦傷のため在宅などを余儀なくされていた時期もあった。
 本資料群は、法泉氏の使用した軍隊行李に納められた、自動車部隊関係の記録類のほか、法泉氏の持っていた写真機と、それによって撮影された軍隊内部や戦地のスナップ、軍の療養地でのスナップを納めた写真アルバムが中心。また戦傷を受けた際の、弾痕のある軍刀が残されている。戦時〜戦後にかけての戦時・生活資料として活用できる。
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9 前田満子資料  昭和戦前期の絵葉書および華道免状からなる資料群。寄贈者の夫と義母が所持していたもの。なお、寄贈者の夫・盛幸氏(故人)からは昭和59年度に生活資料、16ミリフィルムなど、平成7年度に羽織、平成19年度に昭和戦前期の雑誌の寄贈を受けている。
 絵葉書は大きく分けて、①戦時期の従軍画家の作品と②京城・奉天の写真の2種がある。前者については、日本画家小早川秋声(1889〜1974)や陸軍軍人で陸軍省のポスター原画も描いた今村嘉吉の作品が多く、画題から推定すると、日中戦争期に制作されたものと思われる。後者には、独立門や京城中学校など、当時の建物を写した写真が含まれる。
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10 奥村忠夫資料  寄贈者宅で保管されていた近世・近現代資料。奥村家は江戸時代から博多・麹屋町(現博多区)で煙草商を営む家で、代々利助を名乗った。昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲では、屋敷が大きな被害を受けたという。
 近世資料は、江戸時代の銅銭と人形、壺である。銅銭と人形は、福岡大空襲による変形・変色がみられる。
 近代資料は、扁額、写真、書籍からなる。このうち、樟に玄洋社社員頭山満の書が彫られた「観雲荘」の扁額は、昭和10年頃の市内バス観光の振興に伴い、奥村家が油山に設置した休憩所に掲げられたもの。裏面には、この樟が昭和5(1930)年の区画整理の際、市内住吉町(現博多区)で発見されたことが記されている。写真は、戦後に再建された麹屋町商店街などがある。
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11 田中鉄也資料  昭和戦前期の福岡市内の写真を印刷した絵葉書。寄贈者の父・善平氏(明治43(1910)年生)が収集したもの。
 本資料群には東公園、天神町、玉屋デパート、名島飛行場、光雲神社、筥崎宮など、福岡市内の主たる観光名所の写真が揃っている。同一シリーズではなく、「福岡名所」「福博名勝」などの複数のシリーズで構成される。いずれも絵葉書としては未使用であるが、宛名面にペン書で写真の説明が書かれているものがある。ペン書は善平氏によるものと考えられる。
 絵葉書としてだけでなく、移り変わる福岡・博多の街並みに関する貴重な記録として、さまざまな展示への活用が期待される。
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12 博多高砂連資料(追加分)  平成10年度、22年度の追加分。博多高砂連は、明治26(1893)年に発足した博多の老人会で、全国でも屈指の歴史を持つ。博多どんたくのパレードでは、博多松囃子に続く「通りもん」の筆頭を務め、高砂人形を載せた山車を曳き、どんたく囃子を三味線で奏でながら街を練り歩く姿は、古い通りもんの姿を受け継ぐとされる。
 また、明治44(1911)年に建てられた詰所・高砂会館(冷泉亭)には、物故会員をまつる仏壇があり、隣接する「高砂連供養塔」では8月21、22日の両日、供養塔大施餓鬼が行われる。これにあわせて周辺には関係者からもらい受けた盆提灯(博多提灯)が並ぶ。
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13 岡玲子資料(追加分)  平成19年度の追加分。資料は、寄贈者の実母、養母、義母の衣類。昭和初期に日常着として使われた季節ごとの着物、夏用の喪服(着物)のほか、流行した動物の襟巻きなどからなる。生前に譲られたものと形見分けによるものが含まれる。 7 7
14 都地國太郎資料  西区今宿上ノ原にあった都地牧場で使用された昭和30年〜50年代の酪農道具や甕、地搗き石など。
 都地牧場は、戦後、今宿青木より上ノ原に移住した寄贈者がはじめたもので、当時今宿にあった3つの牧場のひとつ。主に乳牛の飼育をおこなったが、平成20(2008)年頃に牧場を閉鎖した。
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15 川鍋正雄資料  博多区中呉服町(旧官内町)の川鍋家に残された博多風俗図屏風および生活道具。
 博多風俗屏風は各扇に博多松囃子恵比須、同大黒、同福神、同稚児、博多祇園山笠、博多仁和加の画に賛が配されている。画は吉村百耕、賛は五世自遊李月による。吉村百耕は、博多田前町で絵馬店を営んだ絵師で、明治11(1878)年同地に生まれ、昭和33(1958)年同地にて没した。博多橋口町の南画家・上田鉄耕のもとで絵を学んでいる。自遊李月については詳細不明である。
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16 玉造陽二資料  本資料群は、寄贈者でプロ野球選手の玉造陽二氏が使用したユニフォーム類で構成される。
 玉造氏は茨城県出身で、水戸第一高等学校卒業後、昭和30(1955)年に西鉄ライオンズに入団した。俊足巧打の外野手として同球団の黄金期を支え、昭和42(1967)年のオフシーズンに引退した。
 背番号17が入ったウインドブレーカーは、寄贈者が島原キャンプで愛用したもの。選手時代に実際に使用されたものとして貴重である。西鉄ライオンズの歴史を示す貴重な資料群であり、展示活用が期待できる。
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17 波多野聖雄資料(追加分)  昭和63年度および平成18、19、20年度寄贈資料の追加分。昭和20(1945)年6月19日の福岡大空襲の際に、寄贈者が住職をつとめる大圓寺(福岡市中央区唐人町)に投下された焼夷弾の部品である。なお、近年における聞き取り調査によって、福岡大空襲時による当仁校区の被害状況の詳細が判明した。
 本資料は、福岡大空襲の際に投下された焼夷弾の部品で、大圓寺の敷地整理の際に地中から発見されたものである。投下後に拾得したものであり、金属不足の折に役立つようにと地中に埋めたが、そのまま忘れられていたという。福岡大空襲に関する資料として、常設展示および企画展において活用が期待できる。
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18 江頭重利資料  本資料群は、寄贈者が収集した近代文書と武具類からなる。
 近代文書は明治時代後期の紡績会社厚生舎に関するものである。旧佐賀藩主鍋島直大の資金提供により成立した士族授産結社厚生会社は、明治26(1893)年の商法実施に伴い厚生舎と改称した。当初は養蚕・製糸・織物・植物栽培を行った。のちに織物に特化し、木綿フランネル製造を開始した。明治38(1905)年頃から、第12師団(小倉)からの注文を受けるようになり事業規模が拡大した。
 本資料は見習職工が明治36、37年にかけて作成した織方の記録であり、厚生舎の経営の一端や、職工養成の実態を考える上で有益である。
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19 石野昭資料  本資料群は、寄贈者の父・石野栄二氏(1886〜1957)に宛てられた勲章・辞令などからなる。
 栄二氏は広島県生まれ。熊本高等工業高校(明治39(1906)年第五高等学校工学部から改称)機械科卒業後、明治時代末に広島の呉海軍工廠に就職した。大正12(1923)年に呉海軍工廠を退職し、その後は名古屋モリスン(現 :ユニチカ)に長く勤務した。
 本資料群は、大正時代末期の軍縮を示す資料として貴重である。近代日本の軍事、大正時代をテーマとする展示での活用が期待できる。
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20 井上清方資料(追加分)  昭和61年度寄贈「井上清助奮闘五十年史」の追加分。寄贈者の義父は明治〜大正期に博多人形の発展に尽くした井上清助(1867〜1922)で、明治から大正時代にかけて博多人形の近代化と販路の拡大に努め、小島与一ら名工を育てるとともに井上式地歴人形などの販売によって博多人形のブランド化に大きく貢献した。資料のうち小島与一作の童子人形は清助の33回忌の際に小島与一が供えたもので、法要には原田嘉平、中ノ子長次郎など数十人の人形師が参列したという。 3 3
21 小林孝資料(追加分)  平成10年度の追加分。志賀島の盆踊り(福岡市指定無形民俗文化財)において使用される綾竹とうちわ。綾竹は、2本の細竹を打ち鳴らす素朴な民俗楽器の一種である。富山県五箇山地方の民俗芸能「こきりこ節」に使われるコキリコなど、他地方にも同種の楽器が知られる。
 現在志賀島で使用されているものは、紅白のビニールテープと両端の紙の房で装飾される。うちわには盆踊り唄の歌詞が添付されている。
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22 戸川英幸資料  本資料は、寄贈者が昭和40年代から子どもに聞かせるために収集したレコードとソノシートである。レコード『日本軍歌集』は全31曲、「仰げ軍功」「愛国行進曲」「海ゆかば」など、昭和戦中期に流された「国民歌」を多く含む。
 ソノシートは、朝日ソノラマの商標で、一般的なレコードの代用品として生産されたもの。一般のレコードより薄く曲がりやすく、片面しかプレスできなかったが、廉価であったため、雑誌の付録等に用いられた。戦中・戦後の音楽文化を示す資料として活用が期待できる。
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23 戸川ユキ資料  本資料群は、幕末期の福岡を代表する歌人・大隈言道の和歌・書状。寄贈者の母方の実家と大隈家が縁戚関係にあたる。
 大隈言道は、福岡の商家に生まれたが、歌道に専念するため早くに家督を譲り、地元福岡に密着した身近な対象物を詠み込む独自の歌風を展開させた人物。門人には野村望東尼などがいる。晩年には上方に滞在し、文久3(1863)年には「草径集」などを出版した。慶応3(1867)年に福岡に戻り、翌年に「ささのや」で死去した。
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24 仏師城戸家関係資料  博多織の生地を用いた煙草入れおよび木製の根付2点。
 煙草入れには仏師が仁王像を彫る姿をあらわした根付が付属し「仁慶」と銘が彫られている。根付は妖怪の一種とされる足長および瓢箪を持つ仙人をあらわしたもので、仙人には「久平」と銘がある。寄贈者の祖父は博多織で有名な中西金次郎(初代)の末子。また金次郎の妻エイは仏師を家業としていた城戸家から嫁入りしている。根付付きの煙草入れはこうした姻戚関係を物語る資料と言える。根付の作者「仁慶」と「久平」については不詳であるが、城戸家には幕末頃に活躍した仁平という仏師がおり「仁慶」との関係が考慮される。
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25 高橋よし子資料  寄贈者の母・キヨ子氏の遺品である寄せ書き入りの日の丸旗と麻袋。
 高橋キヨ子氏と夫・博多(ひろた)氏は戦時期、福岡市瓦町に住んでいたが、博多氏は召集に応じて出征、昭和19(1944)年9月に戦死した。本資料は、戦後に博多氏が所属していた部隊の生存者からキヨ子氏に遺留品として麻袋に入れられて送られてきたものである。
 寄せ書きは「富山初」という人物に宛てて贈られたもので、経緯は不詳であるが、部隊内の同僚であった富山氏に故障があり、博多氏が預かっていた寄せ書きが、博多氏の戦死後遺品としてキヨ子氏へ送付された可能性が考えられる。戦時関係資料として、常設展示および企画展示での活用が期待できる。
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26 長澤宏昭資料(追加分)  成23年度寄贈資料及び購入資料の追加分。結納品の内容を記した目録と博多松囃子で三福神や稚児からの表敬を受ける側が、返礼として渡す祝儀「一束一本」(半紙と白扇)。江戸時代には、福岡城内での祝賀の際にも祝儀のやりとりが行われており、松囃子の歴史を今に伝えるものである。 2 2
27 橋本猛資料  昭和38(1963)年の西鉄ライオンズの島原キャンプ時に、取材のため南風楼(報道関係者の宿舎)を訪れた野球解説者の小西得郎氏と中澤不二雄氏が、料理長村上氏の為に書いたサイン色紙。
 本資料は、当時、寄贈者の実兄が島原で優秀な鍼灸医で、お世話になったお礼にと村上氏から受領したものを、寄贈者がある機会に「お前は野球が好きだから」と譲り受けた。
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28 福山恵美子資料  寄贈者の祖父の代から所蔵されていた、①萩藩御用絵師雲谷等潤(1785〜1812)作で長崎悟真寺聲譽上人の記名のある「極楽浄土之図」、および②長崎悟真寺住職の箱書き等のある「福岡御主殿尊霊銘記」の2点。②から福岡藩九代藩主黒田斉隆乳母で奥女中の峰浦が、かつての主君や、黒田家に関わる諸霊(宇都宮氏など)の冥福と鎮魂を、聲譽上人に依頼しことが記され、悟真寺十四世海敬がセットで保存した。筑前福岡藩の奥向に勤めた女性の事跡を示す資料として貴重。 1 3
29 石蔵酒造株式会社資料  博多の済酒や結納の際によく購入される清酒「祝いめでた」の一升瓶。
 福岡の婚姻儀礼は、申し入れと承諾の儀式である済酒(すみざけ)と結納という二段階の儀礼に特徴がある。
 済酒は、内諾のあかしに、男性方が一生添い遂げる意味を込めて「一升一鯛」(一生一代)を持参し、女性側は「熨斗出し」の作法を披露し、同意を表現した。また、酒は結納品の一つとして「家内喜多留(やなぎだる)」の名で呼ばれる。
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30 光吉正邦資料  江戸時代の福岡・博多で活動した陶工、正木宗七が制作した阿吽一対の癋見面。正木宗七は幕末まで六代続いた瓦師出身の陶工で、特に三代堅茂と四代幸弘は名工として知られた。その作品は人形や面、香炉、床間の置物などの精巧な高級品が多く、「柚子肌錆地焼」と称される独自の技法を駆使し、福岡藩の贈答品としても珍重された。本資料は面の裏に押された「宗七」の印章から三代堅茂(1748〜1830)の作とみられる。 1 2
31 いなりや資料  戦前博多の寿通りに店を構えていた玩具店「いなりや」(安西家)の主人が使用していた博多祇園山笠南流の当番法被。戦後一丁目通りに移転した際に、山笠の奉納が始まり、その時に作った南流の当番法被という。
 南流は、渡辺通り一丁目地区が中心となり、昭和26(1951)年一丁目流として飾り山を奉納、翌年には南流と改め十三番山笠として舁き山を奉納している。ビル建設等の関係から、昭和44(1969)年を最後に山笠奉納を中断したが、昭和54(1979)年に「渡辺通一丁目」の名で再度飾り山の奉納が始まり、現在に至っている。
 法被は、「いなりや」の娘である香代子氏より、親交のあった寄贈者に贈られたもの。
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32 江島康博資料  本資料は、西鉄ライオンズの選手14人のサイン入り色紙である。寄贈者の叔父・多田美昭氏が平和台球場に仰木彬氏を訪ねた際に受領したもの。多田氏は大洋ホエールズ球団に昭和29(1954)年入団、同32(1957)年に退団したプロ野球選手であり、当時ブリヂストンタイヤの野球チームに在籍していた。 1 1
33 坂本幸子資料  寄贈者の父・坂本氏が秋月黒田家の黒田長榮氏から、終戦時に海軍時代に世話になった礼として贈られた短冊。初代秋月藩主黒田長興の和歌が記される。黒田長榮氏は戦時中、九州帝国大学から学徒出陣により海軍へ入隊、機雷・対潜関係の学生や勤務をへて、回天戦の訓練を受け、その後また掃海任務に就いた。坂本氏自体の海軍軍歴は不詳であるが、いずれかの時期に黒田氏と交流があったといわれ、福岡関係の戦時資料として貴重。 1 1
34 下澤義一資料  福岡藩二代藩主黒田忠之所用の刀。美濃国で天正頃に活躍した氏貞の作。金象眼銘で「二ツ胴落 松平右衛門佐殿 御所持 切手 中川左平太」とある。下澤家は福岡藩士許斐家と遠戚にあたる。寄贈者の父が戦前から刀剣を数多く収集しており、本資料は黒田家との関係がある刀剣ということで特に大切に伝えられてきたもの。ちなみに、中川左平太が試し切りした刀剣で黒田家ゆかりのものは明治段階で5口あったことが確認できるが、この氏貞はそれ以前に黒田家を離れたと見られ、目録等には載っていない。 1 1
35 中村ケイ子資料  本資料は、昭和43(1968)年に製造された西鉄ライオンズの風呂敷である。中央にライオンの図柄を置き、その周囲に西鉄ライオンズの選手のサインが寄せ書き状に印刷される。同球団のファンであった寄贈者が、デパートの外商担当者から本資料を受領した。 1 1
36 二宮健資料  幕末の福岡藩の重臣であった杉山文佐衛門(尚行)の残した日記で、寄贈者が収集したもの。
 杉山尚行は石高700石で大組に属し、文政12(1829)年に格式1000石の御納戸頭に就任し、以後は弘化年間に裏判役、嘉永4(1851)年に家老次席・御財用方元締に就任するなど、藩主側近から中枢にまで登った人物。元治元(1864)年に隠居しており、この日記は隠居後に「鶴心」と号した時期のもの。杉山尚行の日記等はすでに杉山家から離れ、本館も文政12年から文久元(1861)年にわたる分を平成11年度の購入資料として収集しており、今回はそれらを補う資料である。
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37 博多町人文化連盟資料  博多町人文化連盟は、昭和48(1973)年に、次第に消えつつあった博多の町人気質を受け継ぎ、古き良き博多を守ろうと結成された団体である。博多町人文化勲章は、博多のために身を粉にして黙々と努力し続けている人に「もらっていただこう」と昭和50(1975)年に制定したもの。受章者には、有名無名を問わず、多彩な顔ぶれが揃う。 1 1
38 筥崎宮資料  筥崎宮の敬老祭において、数え年90歳の男性、93歳の女性に授与される150㎝ほどの木製の鳩杖。杖の頭部には鳩の形がほりだされている。同祭典は、氏子6校区(箱崎・筥松・馬出・千代・吉塚・東吉塚)の数え年70歳以上を招いて行われるもので、昭和40年代に創始されたものという。鳩杖は、古くは宮中における賀の祝いに用いられたもので、近代においては、これに加えて神社本庁が功績ある77歳以上の長老神職に贈呈することが行われてきた。 1 1
39 早魚行事保存会資料  東区奈多で行われる早魚行事で使われるまな板。毎年11月19日、志式神社の秋祭り「おくんち」において奉納される神楽には、乙太夫・献魚庖刀式・ひれ舞からなる早魚舞という演目が含まれている。その中のひとつ、献魚庖刀式(早魚行事)は、24歳・25歳の青年が地区を代表して塩鯛をさばく速さを競う。本資料は「2012ゴールデンオールディーズ・ワールドラグビーフェスティバル福岡」におけるイベントとして早魚行事が行われた際に使用されたもの。 1 1
40 樋口泰助資料  本資料は、福岡大空襲の際に投下された焼夷弾の部品である。
 寄贈者の家は当時、福岡市魚町(現:福岡市中央区)で石材店を営んでいたが、空襲により家屋を焼失、家族を失った。寄贈者は罹災証明書・家族の死亡証明書等を保管しており、現在は空襲の語り部として活動している。本資料は寄贈者が魚町で拾得したもので、転居先でも保管していたもの。福岡大空襲に関する資料として、常設展示および企画展において活用が期待できる。
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41 平山マサ子資料  寄贈者の母・平山マサ子氏の遺品である福岡市の地図。マサ子氏は大正12(1923)年生まれ、昭和10年代は女学生であった。本資料は映画が好きだったマサ子氏が、映画を見に博多に遊びに来た際に入手したという。
 地図は昭和17(1942)年に発行されたもので、西部軍司令部許可済と印刷されている。商店・学校等の名称が表記され、特に博多部の商店は詳細に記されている。西部軍司令部のあった福岡城趾に関しては、機密保持のためか建物の配列や名称が記されていない。戦時期の福岡市を知る上で貴重な資料である。
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42 村田邦夫資料  福岡藩士村田家に伝来した脇差1口。村田家は黒田二十四騎の一人である村田出羽吉次を祖とする。吉次は幼年期に黒田家に仕官、朝鮮出兵で活躍し、長政から朱柄の槍の使用を許された。関ヶ原合戦時は黒田如水(孝高)に従い九州各地を転戦。この時、鍋島家に無傷の家臣がいるということで、その姓をもらい村田に姓を改めた。
 本資料は、無銘で所用者についても不詳であるが、村田家で代々伝えられてきたもの。
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【寄託】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 内海一雄資料  内海蘭渓(1738〜1819)が残した記録。蘭渓は博多呉服町下で薬種問屋を営む傍ら、本草学者としても活躍し、十代藩主黒田斉清の信任を得て薬園奉行に取り立てられた人物。当館所蔵黒田資料にある植物図譜「本草正画譜」は、元々は蘭渓が作成した図譜であったが、その完成度の高さによって斉清の求めるところとなったものである。
 全体の内訳は、「蘭渓翁記録一〜九」(8冊)と「御薬園伝書十二」(1冊)の9冊で、内容は、斉清関係、内海家の系譜、家中諸士関係、薬種商関係、薬園奉行関係などからなる。特に「記録七」にある「雑用記」は、簡単な記述ながら、寛政3年〜文化9年の間の博多の出来事を収録した年代記として貴重な情報を含んでいる。本資料は以前から奥村武氏によって紹介されているもの。関連資料としては、当館以外では「本草正画譜」(九州大学蔵、当館所蔵分の分かれ)、内海蘭渓像(個人蔵)などがある。
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2 飯盛山出土瓦経  縦22.3㎝、横18.5㎝、厚1.7㎝の粘土板の表裏面に1行幅1.7㎝の縦罫線を10行分引き、1行17文字ずつ経典の文字を刻み、焼き上げている。左上隅が少し欠けているのを除けば、完全な形で残っている。色調は表面が灰黒色、裏面が黄褐色である。
 経典は妙法蓮華経方便品第二にあたり、裏面の罫線右上の欄外に第一巻十九枚目を表す「一十九」の丁付が刻まれている。
 粘土板のサイズ・焼成、刻まれた字の書体から、福岡市西区・飯盛山山頂で発見された永久2(1114)年銘瓦経の一部とみられる。
 飯盛山出土瓦経は、その多くが破片となって全国に散らばっており、本品のような完全な形のものは、大変貴重である。
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3 筑紫丘高等学校資料(追加分)  平成2年度寄託資料の追加分。ナウマン象の臼歯で右側上顎に相当する。縦・横15㎝、厚さ5㎝である。昭和26(1951)年、福岡市南区老司、那珂川の河床で個人により採集された。福岡市内出土としては唯一である。 1 1
4 鳥飼八幡宮資料  大正時代に福岡荒戸町(中央区荒戸)で行われていた子供山笠を描いた絵馬。荒戸町は、明治になって荒戸通町・二番丁・三番丁・四番丁・五番丁・杉土手・松土手という町々が統合されて生まれた町で、左枠銘の「荒津番丁」はこれらの町のことを示している。
 この山笠は博多の山笠と異なり、人形のない御輿型の形態を持つ。「子供五番山笠」とあることから、当時少なくとも五台以上の子供山笠があったと見られる。
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【購入】

目録 資料群名 解題 件数 点数
1 松本家文書  福岡藩の船手頭を務めた松本家の文書。
 松本家は系図によると、紀州の出身であるが、織田信長に敗れた後流浪し、天正7(1579)年、播州姫路にて松本勝重(光勝)が黒田家に仕えたとする。筑前入国の翌年、慶長6(1601)年10月6日付で如水から宗像郡内で知行400石を充行われ、代官分207石3斗9升3合9夕を預けられた。翌慶長7年12月23日には、御牧郡内にて知行500石、代官分519石8斗4升1合に加増となる。勝重の後は長男吉右衛門勝良(市郎右衛門家)と次男孫九郎利勝(主殿家)の2家に別れ、寛永14(1637)年7月28日付で二代藩主黒田忠之からそれぞれ知行400石と300石を与えられた。
 本文書群は嫡流家に伝来した文書であり、これまで存在が知られなかった未公開のものである。従来知られていた松本家文書は次男家のもので、『福岡県史』近世史料編・福岡藩初期(下)に81通が翻刻紹介されている。
 藩祖黒田孝高(如水)・初代藩主黒田長政の発給文書が半数を占め、孝高・長政時代の黒田家家臣、歴代藩主の知行充行状、豊臣秀吉の朱印状等、すべて新出の文書である(一部、次男家の文書に写として伝来)。
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2 立花実山関係資料  福岡藩三代藩主黒田光之の側近で「南方録」で知られる立花実山(五郎左衛門重根)関係の資料5点。四代藩主黒田綱政夫人の院号(心空院)受戒に関する記録、黒田光之死後に実山が出家を願い出た願書の控、江戸参勤時の覚書など、主に藩主家や藩政に関わる資料であり、藩士としての立花実山の動向がうかがい知れる。いずれも屏山文庫旧蔵資料。 5 5
3 西鉄ライオンズユニフォーム資料  西鉄ライオンズは、昭和26(1951)年に創立したプロ野球チームである。平和台野球場を本拠地とし、昭和31(1956)年から日本シリーズ3連覇を達成した。福岡市の現代を考える上でも重要な存在である。
 本資料群は、常設展示室に展示するために複製した、3連覇達成時のユニフォームである。帽子・上着・下着・ベルト・アンダーシャツ・ストッキングからなる。
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開館時間
9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
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休館日
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(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
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