平成27(2015)年度収集 収蔵品目録 33
【寄贈】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 安川和子資料 | 寄贈者の父母が収集した近代の絵葉書を中心とする資料群。県庁職員だった寄贈者の父は、収集した絵葉書を都道府県別に整理して保管した。絵葉書の包紙も保管しているが、中身を取り出した状態でクリアポケットに収めているため、シーリズの区分は明確ではない部分がある。絵葉書は明治末期から昭和戦前期のものである。地域別に見ると、四国および九州の各県の観光絵葉書が多くを占める。福岡市関係の絵葉書では、昭和2(1927)年の東亜勧業博覧会絵葉書のほか、西公園、筥崎宮、博多祇園山笠などがある。 また、寄贈者の実家は久留米市で旅館を経営していたことがあり、陸軍大演習の際には高級士官が宿泊したという。昭和初期に火災のため焼失したが、新築して旅館業を継続した。本資料群には、新築記念の風呂敷も含まれる。 |
435 | 440 |
2 | 木下家文書(追加分) | 平成24年度寄贈資料(中世文書)の追加分。本年度は香椎宮の旧社家木下家に伝来した近世・近代文書を中心とする資料群である。 香椎宮の日用の出費を示す領収書、出納簿、日誌が多くを占める。これらは幕末から明治30年代まで長期にわたる。幕末期については、上記以外に宗門改に関する文書がある。 近代文書については、明治後期の香椎宮改築に関する費用計算書や工事設計書などがある。また、香椎宮宮司木下美重が明治15(1882)年に神職の研究・教育を目的として設立された皇典講究所の評議員であったことから、皇典講究所の維持費および法人化をめぐる運営関係書類、神職試験関係の書類なども含まれる。 |
236 | 546 |
3 | 森幸次資料 | 寄贈者が志賀島の古紙回収場で拾得した写真からなる資料群である。写真の多くは裏面にラベルが貼付され、タイトル、撮影者名、撮影年月日、使用カメラ・フィルム、F値などが記されている。また、裏面には「入」などの書き込みが見られる。以上の状況から、写真コンテストに入選した作品であると考えられる。 撮影場所はおよそ志賀島一帯であり、被写体は風景、人物など様々である。撮影年代は、ラベルに明記されたものについては昭和28(1953)年の7月から8月に集中する。写真撮影を目的として集団で志賀島を訪れたものと考えられる。撮影者の詳細は不明であるが、「九電カメラクラブ」に所属した者も見られる。当時の人々の間で、カメラが趣味として流行していたことを示す資料群といえる。 |
126 | 126 |
4 | 三角藤夫資料 | 本資料群は、福岡市中央区春吉で大工をしていた寄贈者の祖父三角藤三(明治40年代生)と祖母イチ、ホルモン店「みすみ」の開業者である父正人および寄贈者の使用した生活道具からなる。三角家では、大工だった藤三が増改築した自宅の一部を中洲などで働く女性たちに貸していた。資料には、その頃に使われた家賃帳が含まれており、春吉地区ならではの資料がみられる。 | 79 | 87 |
5 | 松浦良子資料 | 寄贈者の夫である松浦康勝が購入・使用したカメラ類からなる資料群である。同氏は俳句、8㎜フィルム撮影、水彩画など多彩の趣味があったが、最も長く続けたのは写真撮影であった。カメラの購入時期は、昭和40年代以降であるという。 資料群の多くを占めるのはフィルムカメラである。メーカーはライカ、キャノン、アサヒペンタックス、ニコン、オリンパスなど多岐にわたる。同時に、これらのカメラに用いる交換用レンズも多い。カメラの中では一眼レフタイプが最も多いが、マミヤの二眼レフカメラ、フジカのインスタントカメラなども含まれる。また、8㎜フィルム関係として、8㎜フィルムカメラと映写機がある。 |
66 | 66 |
6 | 白水久米利資料 | 平成23、24年度に寄贈された白水光利資料と一括で伝来していた資料群。白水氏は元禄期から浪人谷(中央区谷)で代々馬取役をつとめ、幕末の当主興利(おきとし)は13石3人扶持で櫓奉行と修覆奉行を兼任し、明治初年には県知事として赴任した有栖川宮熾仁親王の巡見を案内している。明治中期の当主璞(まこと)は創立時の英和女学校(現福岡女学院)で英語教員を務めた人物。今回の資料は白水家に伝来していた甲冑と武具類。特に注目されるのは幕末期に製作された革製の弾薬入れなどの西洋式の軍装。これらは武具関係を扱っていた幕末の当主の役職と関係している可能性も考えられ興味深い。 | 59 | 120 |
7 | 久芳和喜資料 | 久芳家は、福岡藩士明石家の家臣。明石家は初代安行が黒田長政に仕え、その後、安行の長男正利(東明石家)、次男行亮(大名町明石家)、三男安貞(西明石家)の三家に分かれ代々黒田家に仕えた。久芳家は西明石家の家臣で、西明石家13代泰二郎氏の娘が久芳家に嫁いでおり縁戚関係にある。 資料群には、福岡藩4代藩主・黒田綱政が描いた鶺鴒図や11代藩主・黒田長溥の竹図、西明石家出身の陸軍大将・明石元二郎がヨーロッパに滞在していた時期の書簡類、東亜勧業博覧会(昭和2年開催)の絵葉書など江戸時代から昭和期にかけての資料が含まれる。 |
58 | 132 |
8 | 古賀晉資料 | 寄贈者の祖父得四郎が戦前を中心に収集していた江戸時代後期の筑前の学者・文化人の書跡、絵画や、太宰府関係の歴史関係書などが中心で、近世後期の福岡藩主から藩医へ与えられたギヤマンカップや、近代の医学書なども含まれている。 古賀氏は江戸時代には那珂郡の医家で、幕末から明治期の当主・元晁は、福岡藩医として修業し、さらに明治に入ってからは地域の医療に尽した。現在、南区和田にその顕彰碑が建てられている。また跡を継いだ得四郎も福岡医科大学の設立に尽力し、福岡出身の軍医で郷土史家の武谷水城とも交流があった。 本資料は、近世後期から近代までの福岡の医療にかかわる人々とその文化を知る上で貴重である。 |
54 | 82 |
9 | 藤文寛資料 | 本資料群は、福岡市南区曰佐の藤家で使用された生活道具からなる。資料には、算盤や座繰、鯉のぼり、ローラースケートなどがあり、江戸時代から昭和時代にかけての市民の暮らしぶりがうかがえる。また、曰佐村(明治22年~昭和29年)の村旗があり、曰佐村の歴史を示す資料も含まれる。 | 44 | 45 |
10 | 伊豆徹生資料 | 本資料群は、福岡市西区今宿で酒造業を営んでいた伊豆家で使用された酒造道具や生活道具類からなる。酒造道具には、物差や滑車、「生世松」と書かれた酒入れなどがある。また、同家の関連資料として平成3年度寄贈の伊豆久生資料がある。 | 31 | 32 |
11 | 河口吉昭資料 | 金物店を営んでいた寄贈者宅に残された家庭用品および日用品を中心とする資料群。昭和40年代の製品が多くを占める。 昭和30年代以降、ガス炊飯器や電子ジャーは、炊事の負担を軽減するものとして多くの家庭に使用された。また、成型技術の向上により、多くの日用品がプラスチックで製造された。 子ども向けの弁当箱には、プロ野球チームのマークや人気のキャラクターを印刷したものが登場した。 |
28 | 36 |
12 | 堀江朋也資料 | 大正時代から昭和戦後における証書、賞状、辞令などの文書からなる資料群。文書は鶴田源右衛門(寄贈者祖父)、鶴田寿男(寄贈者父)にあてられたものである。鶴田源右衛門は高畑新町(現中央区)で町総代、町内会長をつとめた。鶴田寿男は明治41(1908)年に生まれ、簀子尋常小学校、福岡男子高等小学校を卒業後、玉屋百貨店に勤務した。 鶴田源右衛門関係として、高畑新町町総代、町内会長、衛生組合長時代の感謝状がある。また、太平洋戦争期の金属回収運動についての感謝状を含む。戦時期において、町内会を単位とする組織的な金属回収が行われたことをうかがわせる。 鶴田寿男関係として、卒業証書、賞与辞令、福岡県価格査定委員の辞令などがある。査定委員は、物価統制のため、日用品をはじめとする各種製品の物価調査を行うもので、商工省物価局を中心に府県、各種組合等に設置された。 |
26 | 26 |
13 | 大内士郎資料(追加分) | 平成20、21、26年度寄贈資料の追加分。本資料群は昭和58(1983)年から平成26(2014)年にかけて、博多祇園山笠で使用されたたすきや手拭、西流の記録などからなる。寄贈者は、古くから福岡市博多区綱場町の商家と親交があり、その縁で綱場町より加勢として博多祇園山笠西流に参加していた。資料は山笠に参加した際に西流から配布されたもの。 | 20 | 24 |
14 | 西村貞朗資料 | プロ野球選手・西村貞朗の野球用具、記念品、写真などからなる資料群。 西村貞朗は昭和28(1953)年に琴平高校から西鉄ライオンズに投手として入団した。昭和37(1962)年に引退するまで、最高勝率投手1回、最優秀投手1回、ベストナイン1回、オールスターゲーム出場2回など、西鉄の主力選手として活躍した。昭和33(1958)年7月19日の東映フライヤーズ戦で完全試合を達成している。 本資料群には西村が使用した西鉄ライオンズのユニホーム、サインボールのほか、完全試合記念のトロフィー・賞状、西鉄ライオンズの選手の写真、優勝パレードの写真などが含まれる。 |
18 | 20 |
15 | 成重英一郎資料 | 寄贈者の家に伝来した昭和戦前・戦中期の貯金通帳、保険料領収帳、軍事郵便などからなる資料群。戦時貯金通帳は、昭和13(1938)年、戦時貯金規程に基づいて発行されたもの。産業経済の発達と戦時公債応募のために貯金を励行することを目的とし、戦争終了後1年間は払い戻しができないこととされた。軍事郵便は、出征軍人が内地へ送る、あるいは内地から出征軍人に送る郵便物をさす。宛名面に軍事郵便と書き一般の郵便と区別する。特に、出征軍人から内地へ送られる手紙には検閲がなされた。本資料群中の軍事郵便はいずれも戦地から成重重夫(寄贈者祖父)にあてられたものである。 | 17 | 17 |
16 | 勝木俊章資料 | 寄贈者の父が収集した近代の地図および雑誌からなる資料群。地図は福岡市に関するものとそれ以外に大別できる。福岡市の地図は大正時代から昭和10年代における市街地図である。それ以外には、昭和10年代に新聞・雑誌等の付録として発行された中国大陸の地図、世界地図、日本地図がある。いずれも日中戦争や第二次世界大戦の戦局を示した地図類である。また、学校教練用地図は在郷軍人会本部が発行した遼寧省遼陽付近の地図である。日露戦争期の戦闘を学ぶ教材として作成されたものと考えられる。 | 14 | 14 |
17 | 藤本健八資料(追加分) | 平成2、11年度寄贈資料の追加分。蠅取りと書籍からなる。蠅取りは、天井に止まる蠅を捕獲するもので、ガラス製の細い筒の上部は漏斗状、底部は丸底フラスコ状になっている。上部の口を天井につけて蠅を覆い、細い管を通して水の入った底部に落とし捕獲する仕組みになっている。書籍は、大正時代から昭和初期に発行された和書および1960年代の洋雑誌が含まれている。 | 14 | 14 |
18 | 堀田茂治資料(追加分) | 平成25年度寄贈資料の追加分。和鏡と附録などからなる。浜崎祇園山笠(唐津市浜玉町浜崎地区)の山笠人形師(ヤマツクリ)である堀田豊治が所有していたもので、山笠人形を製作する参考として活用されたものと推測される。本資料群は、当館の特別展「山笠の力」展(平成25(2013)年)出品を機に寄贈された。 | 14 | 14 |
19 | 岡田祇治資料(追加分) | 平成26年度寄贈資料(近代資料)の追加分。寄贈者が使用していたカメラなどの映像関係資料を中心とする資料群である。なお、寄贈者の家は、旧福岡藩士岡田(片岡・田村)家であり、岡田信義資料(平成23年度寄贈、近世~近代書籍)も同家の関連資料である。 カメラ以外では、家庭向け8㎜フィルムがある。富士写真フィルムが販売した「東映8ミリ劇場」は、8㎜フィルム(サイレント)のほかに音声用カセットテープを同梱する。ただし、洋画の場合においては、カセットテープを用いず、字幕を付けたものもあった。 |
10 | 10 |
20 | 岡崎円秀資料(追加分) | 平成18、26年度寄贈資料の追加分。寄贈者が収集した肖像画および古文書群。 肖像画は、福岡藩御用絵師・尾形洞霄が描いた江川勝真像。勝真は、熊本藩主加藤氏に仕えていたが、寛永9(1632)年に加藤忠広が改易された後、明暦3(1657)年、福岡藩3代藩主・黒田光之に鷹師長として知行高150石で召し抱えられた。その後、2度にわたり加増を受け知行高300石となり、元禄2(1689)年9月に没した。本像は天保9(1838)年、勝真の150年忌に際して子孫・江川勝興が描かせたもの。 古文書群には、享保9(1724)年、金工師・後藤宗家9代程乗作の三所物を11代寿乗が鑑定した折紙など、江戸時代後期から幕末期にかけての福岡藩蔵米売払関係史料、秋月藩蔵屋敷関係史料、宇佐八幡宮富籤関係史料などが含まれている。 |
8 | 8 |
21 | 清水昭男資料 | 寄贈者の家に伝わった近代の記念品類からなる資料群。寄贈者の祖父清水甚吾および父健男に関するもの。 清水甚吾は明治17(1884)年糸島郡怡土村に生まれ、明治29(1906)年に福岡県師範学校卒業、明治44(1911)年に開校した奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)附属小学校の訓導に着任し、昭和20(1945)年まで同校で教鞭をとった。算術教育と学校経営に功績があった。清水健男は甚吾の子で奈良に生まれ、早稲田大学を卒業後、福岡銀行に勤務した。 資料群中の教育関係の記念章は、清水甚吾に由来するものであると思われる。清水健男に関する資料としては、福岡銀行の記念章・徽章、市内線電車普通券など、福岡市に関連する記念品が含まれており、展示活用が期待される。 |
7 | 9 |
22 | 高森雅彦・花資料 | 寄贈者宅に伝来した近代の道具類。寄贈者の両親である高森雅彦、花によって主に昭和戦前・戦中期に使用されたもの。 このうち、ランドセルと水筒は高森雅彦が明善校通学時にしたもの。雅彦は戦時期、対馬警備の任にあたった。防毒マスクはこの際に使用したものである。 教育関係資料、戦時資料として展示活用が期待される。 |
7 | 7 |
23 | 八尋シノブ資料 | 寄贈者の生家(城南区片江)で使用されていた板襖および欄間。かつて庄屋をしていたという八尋家が、明治3年に建てた家屋の襖として、福岡城内で使われていたものを譲り受けたと伝えられている。この襖は、中座敷と奥座敷の間に設置されていたもので、その上には、槍もかかっていたという。襖絵の作者は不明であるが、八尋家の主治医で漢詩人であった松口月城が生前、この絵の作者を知っており、大事にするように言われていたという。明治初年に福岡城内の建築物を払い下げた事例は、伝承では紺屋町(中央区大名)にあるエンジョイスペース大名(明治8年築)が知られ、記録上では福岡県史編纂資料698(『新修福岡市史特別編福岡城』41頁)に入札があった事実が記されている。 | 7 | 7 |
24 | 田中善幸資料 | 寄贈者宅に伝来した大正時代から昭和時代の食器。ビール用のグラスと記念品の盃からなる。 グラスはアサヒビールとサクラビールのもの。アサヒビールは大阪麦酒株式会社が明治25(1892)年に販売を開始した。大阪麦酒株式会社は明治39(1906)年に札幌麦酒株式会社らと合併して大日本麦酒株式会社となるが、アサヒビールの銘柄は継続された。西日本に販路を持ち、大正10(1921)年には博多工場(現博多区)を稼働させる。サクラビールは、大正2(1913)年に販売開始された。門司に設立された帝国麦酒株式会社が製造し、九州を主な販売地としたが、昭和18(1943)年、戦時の企業整理によって大日本麦酒に合併された。 盃は田隈村(現早良区)の奉安殿竣工を記念して同村が頒布したもの。胴部に「大日本」「満洲国」などの地名が入った地図が描かれる。 |
6 | 6 |
25 | 手嶋政則資料 | 寄贈者が昭和50年代以降、昭和末年までに収集した刀剣4口。 伝ではあるが、南北朝時代(正平頃)に博多で活躍した刀工・冷泉貞盛の刀を含む。 |
4 | 4 |
26 | 箱嶋文衞資料 | 本資料は、平成26(2014)年に福岡市東区堅粕にある国の登録有形文化財(建造物)・箱嶋家住宅の荒神祭で使用された荒神幣と供物を入れる藁製の皿、竹箸からなる。筑前地方では、土間に煮炊き用の竃とは別に、祭壇としての荒神竃が設けられており、天台宗玄清法印流の盲僧(現在は晴眼者)たちを中心に荒神祓いが行われてきた。荒神竃に荒神弊を据え、供物を供え、荒神琵琶を奏でながら読経する行法が特徴。 | 3 | 10 |
27 | 鵤俊子資料 | 寄贈者宅に伝わった太平洋戦争期の債券。寄贈者の父は、田川市の三井田川炭鉱で経理の仕事についていたという。 「大東亜戦争割引国庫債券」は、太平洋戦争の戦費調達のため、大蔵省から発行された。日本勧業銀行が発行した報国債券・貯蓄債券と比較すると、額面が大きいことが特徴である。償還期間は10年で、債券の額面に対し発行価格は3割引であった。 |
3 | 6 |
28 | 河野良春資料(追加分) | 平成6年度寄贈河野司資料、平成9年度寄贈河野良春資料の追加分。寄贈者の父良春が、戦前期に九州の古武術、古武道の伝来や秘伝書等を研究していた際に収集した、熊本の居合術・片山流の伝書や良春個人に与えられた奥義書など。戦前まで伝わっていた九州の古武術流派を知るための資料として貴重である。 | 3 | 5 |
29 | 池田澄男資料 | 寄贈者がユニバーシアード福岡大会組織委員会から譲り受けた招請状3点。招請状は大会参加者に送付される招待状を指す。 ユニバーシアードは国際大学スポーツ連盟(FISU)が主催する総合的スポーツ競技会である。福岡市では、平成8(1995)年8月から9月にかけて第18回ユニバーシアードが開催された。 招請状3点は福岡大会とシェフィールド大会(第16回、イングランド、1991年)、バッファロー大会(第17回、アメリカ、1993年)のものである。ユニバーシアード福岡大会組織委員会が招請状の作成にあたり、直近2大会の招請状を参考としたものと考えられる。シェフィールド大会の招請状は、同地の特産品であるステンレススチールを用いる。福岡大会の招請状は台紙に博多献上柄をあしらう。 |
3 | 3 |
30 | 白水光利資料(追加分) | 平成23、24年度に寄贈された白水光利資料の追加分。白水氏は元禄期から浪人谷(中央区谷)で代々馬取をつとめ、幕末の当主興利(おきとし)は13石3人扶持で櫓奉行と修覆奉行を兼任している。これまでの寄贈資料は、平三郎に関連する江戸勤番の古文書、書籍(写本、武術書、西洋兵学書、社会風俗の聞書)などであり、本資料はその追加分で白水家に伝来した槍2本と吹矢1本。江戸期の吹矢の使用については詳しいことは分かっていないが、福岡藩では延享4(1747)年7月2日に「吹矢筒無用之儀」として、家臣向けに吹矢使用の自粛を命じる触れが出ており(「御触状写四」当館蔵、福岡藩大組大野家文書15)、当時、城下の一部で問題化していたようである。なお、今回収録している白水久米利家資料とはもともと同一の資料群となる。 | 3 | 3 |
31 | 中ノ子タミ・富基子資料 | 昭和期を代表する博多人形師のひとり、中ノ子タミ(1883~1971)とその後継者中ノ子富基子(1928~2012)が制作した人形3点。タミは明治16(1884)年に中ノ子吉三郎の三女として博多に生まれ、幼少の頃から人形制作を父に学び、京都帝国大学福岡医科大学(九州大学の前身)で解剖学を受講して人形の造形技術に取り入れるなど博多人形の発展に尽力し昭和41(1966)年には博多人形師として初めて福岡県無形文化財技術保持者に認定された。富基子はタミの姪(のち養子)で幼少の頃よりタミから人形制作の指導を受け昭和51(1976)年に伝統工芸士、平成9(1997)年には福岡県無形文化財技術保持者の認定を受けた。 作品はいずれも中ノ子人形の特徴である色焼き込みの技法が用いられており、中でもタミ作の「鯛車」は昭和41年に福岡で美智子皇太子妃(当時)が博多人形制作を見学された際の作品。 |
3 | 3 |
32 | 松尾貞生資料 | 寄贈者の母美恵子宅に残されたラジオ、カセットテープ、灰皿からなる資料群。なお、同氏からは昭和62年度に戦時期の資料の寄贈を受けている(松尾静子・美恵子資料)。 真空管ラジオは真空管を用いて電波の増幅を行うもので、低価格ながらも音質がよい製品であった。カセットテープは、昭和戦前期の音楽教科書である『新訂尋常小学唱歌』(文部省、昭和7年)の第1学年から第6学年までの楽曲を復刻したもので、教科書の復刻版も同梱する。灰皿は博多中洲大洋の向かいにあった時計店のもの。 |
3 | 3 |
33 | 坂口雅春資料 | 寄贈者の父である溝上高芳に関する表彰状と卒業アルバムからなる。溝上高芳は月隈尋常小学校をへて、筑紫中学校(現筑紫丘高等学校)に進んだ。卒業後は銀天町商店街の振興に尽力した。 表彰状を作成した大福岡発展研究会は、「大福岡運動の先端を往き、最終の美を成す」ために、昭和4(1929)年に創立された会員制の組織である。郷土人の連絡・顕彰、市政の充実、奨学・育英、機関紙および図書の頒布、懇談会、後援会、慰霊祭などの文化事業を目的とした。機関紙の発行と図書の編纂を行ったことは確認できるが、活動実態については不明な点が多い。本資料群は大福岡発展研究会の奨学・育英事業の一端を示すものである。 |
2 | 2 |
34 | 野見山恒行資料 | 幕末の山笠図と広田弘毅の色紙。寄贈者の父親か祖父の時代に入手したもの。山笠図は標題から弘化3(1846)年の中間町のもの。落款には「土佐広道玉笘英之」とあるが、後筆による明らかな修正であり、実際は三笘英之によるもの。山笠図は実際に山笠を製作するのに先だって藩に届け出て許可を得るために描かれたとされており、本図もそうした中の一つと考えられる。 描き方も丁寧で当館所蔵の黒田資料の中に含まれる山笠図と遜色ない出来である。広田弘毅の色紙についての伝来は未詳。「春風接人」は、江戸時代後期の儒学者佐藤一斎の『言志四録』の一節「以春風接人以秋霜自粛」からの引用で、広田の座右の銘の一つであった。 |
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35 | 秀巧社印刷株式会社資料 | 秀巧社印刷株式会社(福岡市南区向野)は、大正5(1916)年に創業した地場印刷会社。本資料は荷車。納品の際に使われたもので、木箱に印刷物をおさめ、荷車で運んでいた。戦後、印刷物の配送が自動車で行われるようになると使われなくなった。秀巧社印刷株式会社は、平成27(2015)年1月1日に、ダイヤモンド印刷会社(福岡市東区松田)と経営統合し、「ダイヤモンド秀巧社印刷株式会社」となった。 | 1 | 1 |
36 | 白石佳代資料 | 寄贈者の父が収集した昭和3(1928)年発行の雑誌『皇族画報』の一部である。 同誌は、昭和天皇即位大礼記念に、雑誌『婦人画報』増刊として発行された。内容は皇族・華族の肖像写真、著名人により即位への祝辞、儀式の手順解説などである。昭和天皇の即位大礼に際しては、大嘗祭に献上する新米をつくる主基斎田に早良郡脇山村(現早良区)が選ばれた。本誌にも田植えの様子が紹介されている。 本資料は表紙・裏表紙が欠損しているほか、傷みが多く、頁のはずれを釘で閉じ直している。そのため、一部頁が順不同である。 |
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37 | 田中生男資料(追加分) | 平成22年度寄贈資料の追加分。資料は馬の蹄鉄。かつて中央区赤坂で食堂を営んでいた松本家から譲り受けたもの。食堂は、周辺地域の農家が福岡・博多に往き来する際に休憩する場であった。また、店の主人が装蹄できる人物だったことから、牛馬の蹄を調整する所でもあった。戦後になると牛馬を引く農家の姿は見られなくなった。 | 1 | 1 |
38 | 中西眞由子資料(追加分) | 平成24年度寄贈資料の追加分。旧博多片土居町にあった博多織元中西家関連の資料。中西家は中西久吉が天保11(1840)年に博多織元富屋の徒弟となって博多織業に関わり始めたとされる。久吉の三男金次郎(初代)は明治24(1901)年に中西博多織工場を継ぎ、各地の織物技術を取り入れながら多くの技術開発(やたら織)の帯。寄贈者の父中西十二夫(初代中西金次を行った。資料は、博多織郎の六男)もしくは二代中西金次郎の作とみられる。 | 1 | 1 |
39 | 中村弘文資料 | 伊覩(いと)神社(福岡県福岡市西区周船寺)に伝わっていた扁額。後に庄屋をつとめていた中村家の所有となった。同社はかつて主船司神社と呼ばれ、江戸前期に松の木天子神社、松木天神と名前を変えた。祭神は伊覩県主命(いとあがたぬしのみこと)、邇邇芸命(ににぎのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)。毎年7月に行われる大祭で賑わう。扁額は破損が大きいが、「主船司神社」と読むことができる。この名前は江戸前期以前に使われていたものであり、同資料の作成時期を考える上で手がかりとなる。扁額の字は小野道風によるものという言い伝えもある。 | 1 | 1 |
40 | 馬場宏恵資料 | 福岡藩士森安平没後50年の追善のため、大正3(1914)年に編まれたとみられる書画集1帖。寄贈者が研究資料として古書店で購入したもの。 森安平は江戸時代末期の福岡藩士で、慶応元年に乙丑の獄で捕らえられ、切腹を命じられた。大正3年は乙丑の獄から50年にあたる。 本資料は森安平没後50年の追善書画と、印刻を得意とした安平自作の印顆を1帖に仕立てたものである。書画を寄せた人物は、内務官僚の入江貫一・有松英義、筑紫史談会の中心人物の一人である武谷水城、森安平と親交のあった旧福岡藩士末永茂世の長男純一郎、亀井南冥百年忌に合わせ出版された『儒侠亀井南冥』の著者高野江基太郎(鼎湖)など、広い分野におよぶ。 |
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41 | 前原茂雄資料 | 寄贈者が収集したネームプレート。平和台球場バックスクリーンのスコアボードで使用されていたものを平和台球場解体の際に引き取り手に応募して入手したもの。 平和台球場は昭和25(1950)年、第3回国民体育大会が開催された平和台総合運動場のサッカー場跡地に建設された。プロ野球・パシフィックリーグの西鉄ライオンズ、福岡ダイエーホークスなどが本拠地球場とした。建設当初はナイター照明がなかったが、昭和29(1954)年に設置された。また、昭和33(1958)年に全面が座席化された。 福岡ダイエーホークスが本拠地を福岡ドームに移したことに伴い、プロ野球の公式戦は平成4(1992)年で終了した。平成9(1997)年に完全閉鎖されることとなり、11月24日にお別れイベント「さよなら平和台」が開催された。平成19(2007)年から翌年にかけて解体された。 |
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42 | 松尾和生資料(追加分) | 平成16年度寄贈資料(小型テレビ)の追加分。ほかに、寄贈者の息子名義で平成17年度寄贈松尾誠司資料(電停の看板)がある。 本資料は、コニカ(小西六商店)から昭和34(1959)年に発売されたカメラ、「コニレットⅡM」である。コニレットは昭和28(1953)年に発売が開始された初心者用のカメラで、安価で写真の写りも良好であったため人気を得て後継機が発売された。 「コニレットⅡM」はコニレットシリーズの最終版である。「コニレットⅠ」のベークライト製上部カバーを金属製に変更した「コニレットⅡ」の改良型で、レンズが明るくなったほか、露出計を組み込んでいる。 |
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43 | 三島とき子資料(追加分) | 旧福岡藩士三島家に伝来した京都図。平成22年度寄贈資料の黒田長政三ヶ条法令写の追加分。三島氏は、「明治初年分限帳」によれば、4代藩主綱政の代に黒田家に仕え、幕末で15石5人扶持、鳥飼に屋敷があった。とき子の祖父の兄昌太郎は碩学で知られており、金子堅太郎らと留学するはずであったが、少し風変わりな人物で留学を断ったという言い伝えがある。父が軍関係の仕事(大刀洗・雁ノ巣が任地)に就いていたため、福岡への空襲は無いという認識が強く、それが裏目に出て家にあった古いものはあらかた焼失してしまったという。なお、祖母の実家は黒田二十四騎の桐山家と伝える。資料は幕末に板行された京都図。旧福岡藩士の資料群の中には摺り物の江戸図などがまれに含まれていることがあり、本資料も京都出張の折に収集した品かも知れない。 | 1 | 1 |
【寄託】
目録 | 資料群名 | 解題 | 件数 | 点数 |
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1 | 大村家文書 | 戦国時代に大内氏の早良郡代・安楽平城督を務めた大村氏の一門に伝来した古文書・系図11件64点。 本文書群を伝えた大村氏は、早良郡代・安楽平城督の大村重継の弟新左衛門尉重成の子孫で、新左衛門尉家3代目を継いだ隆成は、同郡代・城督を務めた大村興景(重継孫)の次男で、実父興景に従い、安楽平城に勤番した。文明11(1479)年12月24日付大内政弘袖判下文を最古に23通の中世文書を含む。 |
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2 | 篠原統資料(追加分) | 平成9年度寄託資料の追加分。扇面に描かれた山水図を絹本に貼り付けて画幅とした田能村竹田筆と伝わる「扇面画軸」。竹田は、豊後国岡藩に生まれた江戸時代の代表的な文人画家。扇面本紙には落款・印章は無いが、周囲絹地には田能村竹田の真筆であることや、篠原家に伝来した由来などの散文がある。文人の世話をするなどの地方の名家の役割や文化的環境をうかがわせる資料である。 | 1 | 1 |
3 | 矢野特殊自動車資料 | 本資料は、矢野特殊自動車が所有する国産自動車「アロー号」である。 アロー号は、福岡工業学校の学生であった矢野倖一が、村上義太郎の援助を得て製作した。大正2(1913)年に設計にかかり、九州帝国大学工科大学教授岩岡保作らの指導を受けて大正5(1916)年に完成した。純国産車を目指し、シャーシ・ピストンリング・ベアリングなどを自作したが、技術面の問題もあり、タイヤやプラグ、キャブレーター(気化器)などは外国製を使用した。 アロー号は宮田製作所が作成した「タクリー号」「旭号」、快進社が製作した「ダット号」に続く、4番目の国産自動車である。現存最古の動く国産自動車として、平成21(2009)年に日本機械学会の「機械遺産」に登録された。 |
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